素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

PK合戦での決着はつらいものだ

2010年06月30日 | 日記
 W杯ベスト8をかけたパラグアイア戦は、理想的な試合運びであったと思う。惜しいのは4度ほどあった相手陣営をくずした場面とコーナーキック等のセットプレイで得点を奪えなかったこと。チームとしてはよく機能していたので、プラス個々の力がアップされていけばベスト8には到達できるのではないかと思った。今年は南米に勢いがある。南米予選でアルゼンチン、ブラジルが苦しんでいたが、両国のレベルが落ちているのではなく各国が力をつけていたためと本大会を見て思った。南米勢にスペイン、オランダ、ドイツがどうからんでいくのかが今後の楽しみである。

 PK戦は残酷なものである。ただ、最初の5人による戦いはメンタル面ふくめて、筋書きのないドラマが生まれる。私は選手として厳しいPK戦の経験はないが、顧問としては何度もPK戦の歓喜と悲哀を味わってきた。

 中央大会がかかった決勝で、一進一退でフィールドプレイヤーの最後10人目まで持ち越されたケースが最長。この時は人望もあり、チームをしっかりまとめてきたキャプテンが最後、枠をはずしてしまった。

 GKのプロを目指しているコーチの指導をうけ、本人の運動能力も高く、自他共に中学生レベルのPKであれば5回に2回は阻止できると認められているチームとの決勝で、延長戦で1点を奪いながら、終了間際に中盤のチェックが甘くなったスキをつかれたミドルシュートが、ここしかないというポイントに飛び、同点にされてのPK戦。試合の流れからもGKの力からいってもムードとしては絶体絶命であった。この時は8人連続しっかり枠をとらえて決め、8対7で優勝した。一番しびれたPK戦であった。

 他にも一人目、二人目が失敗した後、ひっくり返した例などPKにまつわる思い出はたくさんある。負けた時は、どうしても『~だったら』が選手にも顧問にも残って気分的にしんどさを引きづってしまう。最後の2年間ぐらいになって、PK戦で心を乱されることはなくなった。指示は1、3,5番にチームとして悔いのない人間に蹴ってもらおう。である。こちらから指名することはしない。

 PK戦の厳しさを目の前で見た後輩が、毎日のキックの積み上げの大切さなどを学び成長していくのである。そういう意味で、PK戦は結果に関係なくチームの財産である。そう考えれば今回のW杯は日本にとっては収穫の多いものであった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

少年時代の味

2010年06月28日 | 日記
 「ゲゲゲの女房」はよく見る。昭和20年代から30年代が舞台になっているので、自分の小さい頃とリンクするところが多く、なつかしい。以前、バナナにまつわる話があった。たしかに当時はバナナは高級な果物でめったに食べることのできないものだった。母方の叔父が東京商船大学の練習船の指導教官をしていて、銀河丸という名前だったと思うが、三重の港に寄港した時親戚が連れ立って見学に行ったことがある。

 叔父の船室に入った時、テーブルの上に無造作に置かれたバナナの大きな房が目に飛び込んで来た。1年に1本食べることができるかどうかという時代、20年分ぐらいの量だっただろう。子ども連中の雰囲気を察した叔父は「好きなだけ食べていいよ」と笑いながら言ってくれた。多分小学生だった私たちは宝物でもあつかうように皮をむいて味わっていたのだと思う。叔父が不思議そうに「バナナって、南洋のイモなんやけど」と言ったのをいまだに覚えている。当時は言っている意味が全然わからなかったが、大人になって、バナナがスーパーの店先に大量に並ぶのを見た時、叔父の言葉の意味がストンと落ちた。だからといって、「南洋のイモ」とは思えない。頭ではわかっても小さい頃味わった感覚はそのまま残っている。不思議なものである。

 昨日、正俊寺の境内でヤマモモの実を見つけた。 小学校時代の私たちにとってヤマモモはおやつがわりとして重宝していた。季節が季節だけに、腹をこわしてはいけないと大人からはきつく禁止されていた。それでも放課後にないしょで取りにいくのだが、服に汁をつけてしまったり、舌の検査ですぐばれてしまう。

 秋はアケビがおやつがわりとなった。種子をつつむ白い胎座の甘さがたまらない。しかし、ある日一度に食べきれないほどの収穫があり、持ち帰っていた途中で、柿の木から柿の実を1個拝借して食べたらその甘さはアケビとは質の違うおいしさだった。試しにアケビを食べたが、あれほど甘く感じていたものが水っぽく感じて、意気揚々と持ってきたアケビを全部捨てた。それ以来、アケビ取りには行かなくなった。

 柿のうまさに魅せられて、ちょくちょく木のある畑に出かけていた。ある日畑の持主のおじさんにみつかり、「もっとうまい柿があるからこっちへ来い」と連れて行かれ、豚まんほどの大きさの立派な柿の実のついている木を指差し「あれはうまいから1個食べてみろ」と言われた。柿泥棒という弱い立場なので言うとおりにしなければならず、食べてみると見事な渋柿であった。「うまいやろ、全部食べろよ」とすごまれるので、口から脳天までしびれながら食べ終えた。あのおしおきはこたえた。

 他にも、野イチゴ、びわ、ざくろ、椎の実、つくしなど季節季節、原始時代そのものの採集生活を体験していた。今のように体験学習と銘うたなくても生活のなかに自然と組み込まれていたのである。少年時代に体験した味覚の記憶は結構しっかり刻み込まれているのである。 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ムサシへの買い物のついでに正俊(しょうしゅん)寺に立ち寄る

2010年06月27日 | 日記
 ジムで“紫陽花の名所談議”があった。誰もが認める3つは、“六甲森林植物園”“三室戸寺”“矢田寺”である。後は自分が行ったことがある所を出し合っていたが、一人の人が「遠くに行かなくても、長尾駅の裏手にある正俊寺もなかなかいいですよ」と話に加わってきた。
 
 長尾駅はおなじみの駅で、ホームから駐車場が見えている、あの寺かと思った。車で横を何度も通ったが中に入ったことはなかった。今日の午後、園芸の土や肥料をムサシへ買い出しに行くことになったので、ついでに寄って行くことにした。

   駐車場から杉やもみじに囲まれた道をあがって本堂に入ると、想像よりどっしりとりっぱな構えであった。

 慶安4年(1651)江戸時代、河内領主久貝因幡守正世が、父因幡守正俊を弔う大悲の菩提寺として創建される。杉木立の中で紫陽花に囲まれている五百阿羅漢の石像も見ていて楽しいものがある。

   

紫陽花もいろいろな種類が楽しめる。

   

 とても蒸し暑い日であったが、杉木立の中はひんやりとして気持ちが良かった。    

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

祝杯は35周年を迎えた“ロイヤルホース”で

2010年06月26日 | 日記
 昨夜は梅田の「ロイヤルホース」で祝杯をあげた。「ロイヤルホース」は35周年を迎えた。テーブルに創業者で現在は代表取締役である関 基久氏が産経新聞夕刊(6.11)の文化欄に寄稿した『ジャズクラブとともに35年~「生音」発信の原点忘れずに~』のコピーが置かれていた。

 まだ、甲南大学経営学部の学生であった、昭和52年に開店した。その時の思いをこう書いている。

 開店するに当たって、われわれが発信したかったのは「ジャズ」という言葉の解釈として、「ジャズ=マニアックな音楽」ではなく、ジャズのアドリブに代表される「自由」であったり、「少し悪ぶった大人のシャレた音楽」、「セクシーな音楽」であり、お店のサブタイトルに浮かんだのが、「大阪は食いだおれの街やから」と、飲食の充実をモットーにかかげ、「贅沢過ぎてもリーズナブル」のキャッチコピーでした。 

 昨夜の、“King of Swinng”北村英治(Cla)を中心にした今出哲也(P)三原脩(B)石川潤二(Ds)の演奏は開業の心に満ちていた。北村さんも35年間、月1回ここのステージで吹き続けている。このこともすごい。

 途中で閉店の危機を幾度となく乗り越えられ現在に至っているが、その間に、音楽をとりまく状況も激しい変化をしてきた。レコードからCD、インターネットによるダウンロード、レンタルシステムの充実など少し前には考えることができなかったことが訪れている。そんな中でこれからのことについては、こう書いている。

 そんな中、われわれが試行錯誤しながら行きついたのは、『生音』でしか伝わらない『音楽』の発信。どんなに、イノベーションが起きても、ゆるぎない「感動をもたらす生音文化の発信と付加価値の創造」に、今後もっと努めたいと考えています。

 昨夜はライブの醍醐味がいっぱいの演奏会であった。最高の祝祭の夜であった。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第2回“かるた・歴史ウォーク・私部(きさべ)地区編”に同行する

2010年06月25日 | 日記
 第1回に続き、「広報かたの」の取材で“第2回かるた・歴史ウォーク”に同行した。今回は私部地区の5ヶ所を歴史解説ボランティアの説明を受けながら2時間余りで巡ってきた。コースは交野市駅集合→私部城跡→光通寺→無量光寺→北田家住宅→住吉神社である。

  説明板がなければ、ただの荒地である。戦国時代に建てられた平城で、城主は安見右近。城の変遷については諸説がありはっきりしていない。

 南北朝時代に赤松則村が建て、著名な僧、別峯が寺に入り開山となったと伝えられている。室町時代には、交野の山間部の領地権を巡って、石清水八幡宮と争いを起こすほど、大きな勢力を誇っていた。

軍書読みとは保元物語や平家物語などの軍記を琵琶法師が節をつけて聞かせるもので、19世紀のはじめごろ、無量光寺の軍書読みは有名で、多くの人が集まっていたそうである。

 江戸時代の旗本畠山家の代官をつとめた北田家住宅、約4000㎡の敷地内に主屋、表門、乾蔵、北蔵などがあり国指定の重要文化財となっている(非公開)特に、表門(門長屋)は55.8mあり、民家としては日本最長。高さも2.6mあり、馬に乗ったまま出入りができる。

 住吉神社は私部の氏神である。大鳥居は万延元年(1860年)に造られ、高さ7.27、幅6.67mは交野では最大。私部集落の東、奈良県へと抜ける郡山(ぐんなん)街道の中で、最も急カーブで傾斜の大きい場所「大曲」を少し上がったところに「鳥居谷」と呼ばれる場所があり、採石跡も残っている。ここから鳥居の原石を切り出した。 修羅と呼ばれる台に石を載せ、2~300人を超える村の男たちが傾斜のきつい坂道や川沿いの道を約3kmを音頭取りの掛け声にあわせて引っ張り運んだという。つくね飯とはおにぎりのこと。

12時すぎに解散した。今日は“ブログを開設して1周年”にあたる。W杯予選リーグ突破も一緒にして、夜は祝杯をあげたいと思う。


   

 

 



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする