Carmen Maki - だいせんじがけだらなよさ
竹内整一さんの書かれた本に『日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか』というのがある。退職をする年の1月に買ったと思う。毎日新聞の書評欄で取り上げられていた。それまで無意識に使っていた「さようなら」「さよなら」という別れの言葉が、世界的に見ると一般的でない、日本特有の別れの表現であるという指摘に不意を突かれたという感じであった。氏によると、世界の別れの表現、別れ言葉は次の三つのタイプに分類できるということだ。
①“Good-bye”“Adieu”“Adios”“Addio”
②“See you again”“Au revoir”“再見”“Auf Wiedersehen”
③“Farewell”“安寧(アンニョン)ヒ、ゲセヨ”
①は別れに際して、神のような存在のご加護を願うという別れ方。
②は「再び会いましょう」というタイプの別れの言葉。
③は「うまくやって行って下さい」という別れ言葉。
日本人の場合、①の「神の御許に」とか、「仏の御加護を」といったような言い方で別れることはあまり一般的でない。②では、「またね」とか「じゃあ、また」と言って別れる。③でも「御機嫌よう」とか「お元気で」というような別れ方はごく一般的に使われている。しかし何といっても、日本人の別れ言葉としては、「さらば」「さようなら」がもっとも一般的である。
というようなことから、なぜ日本人は、「さようなら(ば)」「それでは」といった言い方で別れてきたのだろうか。その別れ方が、世界では一般的でないとすれば、それは、日本人の、人生や世界のどのようなとらえ方、また他者のどのようなとらえ方に基づているのだろうか。ということを文学の中や歴史的にひもとき、死生観という次元までさかのぼって考察している。
何度か読んでいるが、なかなか消化しきれていない。しかし、2つのことについては腑に落ちている。
1つは、日本人が「さらば」「さようであるならば」「さよなら」と別れるのは、古い“こと”が終わったときに、そこに立ち止まって、それを「さようであるならば」と確認し訣別しながら、新しい“こと”に立ち向かおうという心のかまえ、傾向を表している。
もう1つは、日本人は別れに際して、そうした事態をそうした事態として「あるがままに受けいれて、しかもそれを“言いすぎも”せず、“言い足りなくもな”く「人生の理解のすべて」「すべての感情」を“サヨナラ”の四音にこめて別れているのだ。
また、作詞家の阿久悠(1937~2007)の晩年に書かれた「ぼくのさよなら史」という文章の中の言葉が紹介されている。これも印象に残った。
『さよならは有能で雄弁な教師であった。』、『人間はたぶん、さよなら史がどれくらいぶ厚いかによって、いい人生かどうかが決まる』
別れと出会いの交錯するこの季節、現役の時のように必然的に“別れ”に出会うことはなくなったが、それでも生活または人生の中で“別れ”ということに無自覚にならず、切なさや哀しさ、寂しさの自覚は持ち続けていきたいものだ。
竹内整一さんの書かれた本に『日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか』というのがある。退職をする年の1月に買ったと思う。毎日新聞の書評欄で取り上げられていた。それまで無意識に使っていた「さようなら」「さよなら」という別れの言葉が、世界的に見ると一般的でない、日本特有の別れの表現であるという指摘に不意を突かれたという感じであった。氏によると、世界の別れの表現、別れ言葉は次の三つのタイプに分類できるということだ。
①“Good-bye”“Adieu”“Adios”“Addio”
②“See you again”“Au revoir”“再見”“Auf Wiedersehen”
③“Farewell”“安寧(アンニョン)ヒ、ゲセヨ”
①は別れに際して、神のような存在のご加護を願うという別れ方。
②は「再び会いましょう」というタイプの別れの言葉。
③は「うまくやって行って下さい」という別れ言葉。
日本人の場合、①の「神の御許に」とか、「仏の御加護を」といったような言い方で別れることはあまり一般的でない。②では、「またね」とか「じゃあ、また」と言って別れる。③でも「御機嫌よう」とか「お元気で」というような別れ方はごく一般的に使われている。しかし何といっても、日本人の別れ言葉としては、「さらば」「さようなら」がもっとも一般的である。
というようなことから、なぜ日本人は、「さようなら(ば)」「それでは」といった言い方で別れてきたのだろうか。その別れ方が、世界では一般的でないとすれば、それは、日本人の、人生や世界のどのようなとらえ方、また他者のどのようなとらえ方に基づているのだろうか。ということを文学の中や歴史的にひもとき、死生観という次元までさかのぼって考察している。
何度か読んでいるが、なかなか消化しきれていない。しかし、2つのことについては腑に落ちている。
1つは、日本人が「さらば」「さようであるならば」「さよなら」と別れるのは、古い“こと”が終わったときに、そこに立ち止まって、それを「さようであるならば」と確認し訣別しながら、新しい“こと”に立ち向かおうという心のかまえ、傾向を表している。
もう1つは、日本人は別れに際して、そうした事態をそうした事態として「あるがままに受けいれて、しかもそれを“言いすぎも”せず、“言い足りなくもな”く「人生の理解のすべて」「すべての感情」を“サヨナラ”の四音にこめて別れているのだ。
また、作詞家の阿久悠(1937~2007)の晩年に書かれた「ぼくのさよなら史」という文章の中の言葉が紹介されている。これも印象に残った。
『さよならは有能で雄弁な教師であった。』、『人間はたぶん、さよなら史がどれくらいぶ厚いかによって、いい人生かどうかが決まる』
別れと出会いの交錯するこの季節、現役の時のように必然的に“別れ”に出会うことはなくなったが、それでも生活または人生の中で“別れ”ということに無自覚にならず、切なさや哀しさ、寂しさの自覚は持ち続けていきたいものだ。