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素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

本島等・元長崎市長亡くなるのニュースが・・・

2014年10月31日 | 日記
 1979(昭和54)年から1995(平成7)年まで4期、長崎市長を務めた本島等さんが亡くなったとの報があった。失礼ながら「ああ、まだご存命だったんだ」と瞬間思った。92歳だった。報道によれば最後まで戦争と平和への思いを持ち続け、発言、行動をなされていたという。

 本島さんの発言、行動は物議を呼び、さまざまな評価がなされるが、組織より個の意見を大切にされ、天皇の戦争責任、核の違法性、戦争の加害責任などで自身の体験を踏まえた立場を貫き通した姿勢は立派だったと思う。

 訃報に接して、長く本棚で眠っていた『増補版・長崎市長への七三00通の手紙 天皇の戦争責任をめぐって』(径書房編)を取り出し読み返してみた。
 1988年12月7日の長崎市議会における発言を巡っての一連の動きは異様な感がしたことを覚えている。マスコミの取り上げ方にも問題があるという気がした。このマスコミの姿勢はその後も改められることなく続いているように思う。その点で、径書房編集部の姿勢には目を見張る」ものがあった。今、読み返してもそれは変わらない。

 この本には、本島市長の手もとに、1988年12月8日から1989年3月6日までに届いた書信(封書1559通、ハガキ4495通、電報1052通、電子郵便217通・総計7323通)のうち1989年2月19日に、市長から編集部に届いたものから編集部が厳選した約300通が収録されている。内容による内訳は支持、激励するもの6942通から190通、批判、抗議するもの381通から25通である。
 
 そして、収録された1つの手紙をめぐって、解放同盟から『重大なる「事実曲解」の手紙、掲載した出版社の側にも問題』という抗議と要求なされるということもあり、その経過と解放同盟の要求書および編集部の見解も掲載されていて、2つの重い課題を背負ったものとなった。
 しかし、そこに貫かれている姿勢は出版に関わるものの姿ではないかと考える。付記の最後にはこうある。

 「いずれにしても私たちのこの問題についての対応の是非は、前掲の拙文を持ってご判断いただきたいと存じます。

  異見をつき合わせて理性的かつ率直に論議することは、開かれた言論状況を作り出していくために、大いに歓迎されることです。

  そのような望ましい気運が育ち、それに出版社として場を提供できるような適切な機会が生まれるならば、それもまた大いに喜ばしいことだと思いま す。

  それぞれに人権の尊重を求め訴える組織の間に、なぜ対立があり、対立どころか、憎悪、敵対の関係を生まなければならぬものがあるのか。そのよう な相互の関係を、辛く、またどう考えたらよいのかという思いをもってみつめている立場は、決して少数のものではないのではないでしょうか。」


 戦争を少年少女、青年、壮年としてくぐり抜けてきた80歳以上の方々の訃報が多くなってきた。昭和天皇実録も出版された。1つの歴史の曲がり角に来ていることは確かである。もう一度この本を「証言昭和史」として読み返してみたい。

 ネット社会となり異見に対する寛容度は低くなってきているのではという危惧もある。1人の人物を絶対善、逆に絶対悪とするような世の中は決して健全ではないと思っている。また異なる立場の者を直接的な暴力(テロ行為)や匿名の誹謗、中傷で抹殺しようとする行為からは建設的なものは生まれない。歴史を学び直して痛切に感じていることである。

 

 
 
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菊の季節

2014年10月30日 | 日記
 菊をたくさん作っている方から盆天の鉢を1ついただいた。今年は天候のかげんで出来が良くないとのこと、門柱の上に置くと菊の香りがプ~ンと匂う。菊は作っていない我が家にとってはありがたい季節の花と香りである。さっそく虫たちが蜜を求めて寄ってきた。小さな生命の営みを見ると得も言われぬ感動を覚える。
  

 明日から妻の所属する枚方山草会の秋の展覧会が枚方市民の森で開催される。午後から準備があるので朝から搬入する作品の積み込みを手伝っていたが、思いのほか作品の数が多く、他の人の作品も運ぶ約束をしていたので息子の車も使うことになった。

 会場の枚方市民の森では、昨日から始まった「ひらかた菊フェスティバル」の菊が展示されていた。ずらりと並べられた鉢からは我が家の数十倍の香りが漂う。山野草展は2日(日)、菊フェスティバルは17日(月)まで。この連休天気の方は下り気味、自転車で菊巡りを考えているのだが・・・さて?
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『豆徳』の豆菓子と野菜果物チップス届く

2014年10月29日 | 日記
 数年前、実家に帰る車のラジオで『豆徳』(徳永製菓株式会社)の野菜果物チップスが紹介されていた。明治二年の創業で、福山市に本店を持つ老舗でありながら新しい商品の開発にも余念がないという。獲れたてもぎたての新鮮な野菜と果物をスライスして、気圧を下げた特殊な釜の中で一気にフライする「減圧フライ製法」で作られた野菜果物チップスの魅力について語られていた。

 興味はあったが、車の中のことそのまま忘れていた。ある日の新聞広告を見て「アッ」と思い出し、すぐに取り寄せた。以来、春と秋には注文することになった。
 今日から2週間余りのおやつは「豆菓子バラエティパック・60袋」「野菜果物チップス・3袋」「福芋みっくす・5袋」となる。
 「福芋みっくす」は歯ごたえが良い。奥歯を抜いたばかりで用心しないといけないが、噛む力が強くなるような気がする。味は素朴そのもの。「豆菓子バラエティパック」はカレーカシュ・竹炭豆・イカそら豆・ホワイトちょこれーと豆・抹茶黒大豆・檸檬豆・メープルアーモンド・キャラメル豆の8種類ある。味の変化が楽しめ個袋の中の量も手頃である。一番早くなくなるのが竹炭豆とカレーカシュである。「野菜果物チップス」は素材の持つ風味・色が生かされている。似たような製品は他社にあるが、豆徳を味わったら食べる気がしなくなる。

 食べすぎに注意しなければいけない日々が続く。

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歯を抜く

2014年10月28日 | 日記
 かかりつけの歯科医から、治療の度に「いつかは抜かなければいけない歯ですね」と言われきた因縁付きの歯が左奥にある。歪んでいるためにカスがたまりやすくむし歯になり歯茎も炎症を起こしやすいと毎度聞かされる。

 歯の違和感で久しぶりにM歯科医院に行ったのは5月のこと その時はブログに書いた通りむし歯になりかけの歯だけの簡単な治療で済んだが、1週間ほどして舌で左奥歯にあてると歯がぐらぐらすることに気づき、急いで診てもらった。するとレントゲンを見て「抜くしかありません」と宣告された。「抜く抜かないは自分で決めて下さい。治療をしてくれと言ったら抜きます。抜く決心がつかなかったらこれ以上治療はしません。」要は2本の歯根のうち1本がくさって折れていて、今は1本で支えている状態なので歯としては役に立たないということである。

 5年ぐらい前から言われ続けてきた歯で、当時からのレントゲン写真を見比べながらいかに悪くなっているかを説明してくれた。納得はしたが決心はできなかった。だましだまし過ごしてきたが、今月の11日の夜、突然痛み出した。昼間はいいのだが就寝タイムになると痛むのである。13日が祝日なので2晩痛みに耐えなければいけなかったのは厳しかった。

 後でわかったのだが左側の痛みの原因は5月に治療した歯と新たにむし歯になりかかっている歯と因縁の奥歯の3カ所で、同時多発テロのように、そろって痛み出していた。とりあえず軽いものから順に治療したが、奥歯を抜くのはマラソンの後に考えるということになった。とりあえずマラソンまでに2カ所は治療したので痛みはうそのようになくなった。この調子だったら奥歯も抜かなくていいかなと思ったが、マラソンを走った夜、痛み出した。奥歯は心身がつかれた時に痛み出すということがはっきりわかった。ならば抜くしかないと今日、決心した。

 「ようやく決心がつきましたか」と大工仕事に近い力技で抜いてくれた。抜かれた歯を見ながら「残す価値のひとつもない歯です。見て下さい。」とダメ押しをされた。

 ジムで一緒にレッスンを受けている人がスタッフにいるので何度も「今日は安静ですよ」「運動してはいけませんよ」「風呂に入ったらダメですよ」「酒もだめですよ」と注意してくれた。よほどじっとできない人間だと見られていたのかと思った次第。

 これを機会に、もう少し歯のことにも注意を払わねばだめだとも思った。入れ歯がしっくりこなくて日々憂鬱な父親と85歳にして自分の歯を24本保持し8020運動で毎年表彰されている母親のどちらの道を歩むかの分岐点に来ていることを自覚せねば。
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JR学研都市線わずか13分の出来事~「そうそうZAQ だった」

2014年10月27日 | 日記
 大阪マラソンの受付の帰り、地下鉄を乗り継いでJRの北新地駅から快速木津行きに乗車した。金曜日の午後3時過ぎなので列車は空いていた。大阪天満宮、大阪城北詰と停車する度に2~3人ずつ降りて、京橋で十数人が降りると車内は数人となった。車両の後部ドア付近に座っていた私のまわりには誰もいなくて貸し切り列車気分になることができた。「珍しいこともある」と思いながら文庫本の続きを読んでいた。電車の中でいいだろうと買った『名短編、ここにあり』(北村薫、宮部みゆき編・ちくま文庫)の中の「となりの宇宙人」(半村良著)である。古びたアパートの立ち並ぶ一角に円盤が不時着し、中からケガをした宇宙人が助け出されるシーンで、「まもなく放出です、大阪東線はここで乗り換えです。止まりましたホームの向かい側の列車にお乗りください。・・・」というアナウンスが流れた。いよいよ宇宙人が登場、話の展開はどうなるのだろうかと本の世界に没入しかけた時、列車がホームに停車した。瞬間窓の外に赤いものがちらつき、空気が違うと感じ本から目を離すと、赤い運動帽をかぶった遠足帰りの小学生がズラリと並んでいた。

 ドアが開くといっせいに赤帽軍団が入り込んできてあっという間に私の左右と向かいの席に押しくらまんじゅうのように座り、座れなかった者は私の前に立っていた。引率の若い男女の二人の教員は静かにお行儀よくするように目で呼びかけていく。その効果があったのはドアが閉まるまで。電車が動き始めるとあちらこちらでごそごそとツつつき合ったりじゃんけん遊びを始め出す。私の座っていた後部扉付近は男子で占めていたので余計に落ち着きがない。小学3年か4年ぐらいだからいたしかたないと諦め、本に目をやるものの集中できない。

 押し合いの余波が左側から伝わり、たたかれまいとよけた頭が右肩にあたったり、それを見て前に立っている連中が笑ったりと何とも座り心地の悪い状態に様変わりした。若い女の先生は無表情に抑揚のない口調で「だんだん声が大きくなってきました」と注意をし、ごそごそ動いている子の所に行っては無言で体を持ってきちんと座らせることを繰り返していた。

 次の住道で下車してくれないかと願ったが空しい希望に終わった。ホームの乗客は中を見るやサッと別の車両に移動する。私だけが取り残された感じで赤帽軍団の中に埋まっている。間が悪いことにその日は、私も赤い帽子をかぶっていた。ドアが閉まる時、ドア付近にいたグループの一人が手を伸ばしてドアに挟まれる手前で引っ込めるという古典的な遊びをした。まわりの子は「オー」とか「セーフ」とか小声で言ったが、マスクをかけた若い男の先生がつかつかと寄って来て抑揚のない調子で「500万円払う覚悟があるならやりなさい」と言った。きょとんとしている子どもたちに「それが原因で列車が遅れたとすると」と続けて、切符を右手で高く示した。「この列車に乗っている人、乗ろうとする人の切符の価値が下がることになる。1分列車を止めると500万円弁償しないといけない。君らが払えるか」と言うと「500万」「500万」・・・というささやきがさざ波のように広がった。「10分なら5000万円です。君たちの親が一生払い続けなければなりません」ダメを押した。「すみません。もうやりません」と反省の態度を示せば収まるところを、外野の子供が「1秒やったら?」と突っ込んだので「60で割ればいいんや、計算できないならするな」とプッツンした。思わず子供の代わりに暗算してしまった。おかげで四条畷までは気が紛れた。

 相変わらず乗客は敬遠して一人も乗ってこない。私もあと一駅の辛抱と覚悟を決める。ふと、テレビのコマーシャルでこちょこちょ動くのがあったなあと頭の中に映像は出てきた。しかし、なんのCMだったか名前が出て来ない。そうなると気になって仕方がない。あれこれ考えているうちに星田に着いた。

 席を立つとイス取りゲームのように数人の子供が押し寄せてきた。扉の前に立って動かない子どもたちに男の先生が目とジェスチャーで指示を出した。ホームに出た瞬間何とも言えない解放感にフ~ッと一息ついた。放出から星田までの13分間は別世界に滑り落ちた感じだった。

 CMのことはずっと頭に残った。3日後にようやく「ザック」という単語が閃いた。

ZAQ TVCM かけっこ篇 15秒
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