素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

NHK公開録音♪吹奏楽のひびき♪を八幡市文化センターで

2013年11月30日 | 日記
八幡市文化センターより石清水八幡宮の鎮座する男山を望む  NHKから送られてきた入場整理券のハガキを見ると出演は、ユ-フォニアム・アンサンブル・フェニックスとあった。ユーフォニアムとはユーホニュウムとして知っているものと同じであろうということは推察できたが、そのアンサンブルということに正直ピンとこなかった。

 長女が小学5年から中学、高校と吹奏楽部だったので演奏会にはよく行ったが、ユーホニュウムはマイナーな存在だったという記憶がある。音色の記憶もない。主役としても脇役としても私の中には存在感がなかった。高校生になった娘の口からユーホニュウムという単語が出るまではこの楽器の存在すら知らなかった。人気のない楽器だったらしく友達がこの楽器の担当になって悩んでいるということを聞かされた。そういう時私の頭の中には♪UFO!♪が出てきて困った記憶がある。また何度聴いてもユニフォームとこんがらがった。最後に勤めた中学校でも吹奏楽部があり、ユーホニュウムのなり手がいないという愚痴を顧問から聞かされた。そういうわけでユーホニュウムに関してはあまりいいイメージを持ってこなかったのは事実である。
 音楽監督の木村寛仁さんの「会場の方でユーフォニアムという楽器をご存知だった人、手を挙げてみて下さい」と呼びかけに挙手した人は全体の五分の一ほどであった。木村さんとユーフォニアムの出会いも中学の時で、吹奏楽部に少し遅れて5月の連休明けに入部したため残っていた楽器がこれしかなかった。と笑いを誘った。

 というわけでこの演奏会はユーフォニアムの音色と可能性を啓蒙するものとなった。クラシックから現代音楽、ポピュラー、唱歌、あまちゃんのテーマなど♪ユーフォニアムづくし会席♪を存分に楽しんだ。柔らかく丸みのある音色が印象的だった。木村さんは語源にもふれ、チューバは「管」、ホルンは「角」にたいしてユーフォは「よく響く」と音に関する語源を持つこの楽器の素晴らしさを自負していると話されていた。

 ♪吹奏楽のひびき♪からは元気をもらうことが多いが、ユーフォニアム・アンサンブルでは癒されたというのがピッタリであった。木村さんを監督として9人の若い演奏家は開拓者という感じで好感が持てた。

 放送予定はNHK-FMで2月9日(日)午前8時10分~9時(第1回)・2月16日(日)午前8時10分~9時(第2回)である。
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大阪にも初雪が

2013年11月29日 | 日記
 寒いというより冷たいというほうがピッタリの朝の空気であった。大阪にも初雪が観測されたと報じていた。午前中、4時間ほど自転車を走らせたが風が強く、追い風は快適だが向かい風は難儀した。のんびりこぐと体が冷え、結構体力を消耗する。

 NHK20時からの♪大阪ショータイム♪は氷川きよしと新沼謙治の初組み合わせ。べとべとしていないのが共通点。小難しことが多くある時はたまにサラッと楽しめる時間も欲しい。それにはうってつけだった。

 新沼謙治の♪津軽恋女♪は好きな曲だ。小説でも心をとらえる一文があるのと同じで歌でも心に残る曲にも1フレーズというものがある。この歌では♪津軽には七つの雪が降るとか こな雪つぶ雪わた雪ざらめ雪 みず雪かた雪春待つ氷雪♪である。

 日本人の自然への繊細な感覚は、雪という1つの現象に実に豊富な表現を生み出してきた。色あいでもそう。月でも驚くばかりである。新月(つごもり)、二日月、三日月、七日月(上弦)、八日月、九日月、十日余りの月、十三夜、満月(望月)、十六夜月、立待月、居待月、寝待(臥待)月、宵闇(更待)月、二十日余りの月(下弦)、二十三夜月となっている。

 この豊かな感覚はいつまでも大切にしていきたい。

 バドミントンで有名だった新沼さんの2年前に亡くなった奥さんの旧姓が湯木さん。湯木⇒ゆき⇒雪とつながり、この歌を歌う時亡き妻を偲ぶようになったという話をさらりとされた。また違った感じで歌を聴くことができた。

津軽恋女 (新沼謙治)


 2年程前、実家に帰っていた時にいきさつは忘れたが歌の話になり、突然母から「新沼謙治は歌がうまい。♪旅路♪というのがいい。あんた歌ってみたら」とカラオケ入りのテープを渡された。成り行きで持ち帰ったが、そのままにしてある。ちょっと聴いてみようかなという気になった。
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国会を見ていて

2013年11月28日 | 日記
 何だかんだと言ってはいても、「数」と「金」は力なりという論理が脈々と流れていることを強く思った。議論が煮詰まったというより、これからだというタイミングでの衆院強行採決。はなから議論をしっかりする気はなかったのであろう。賛成側での不一致が漏れ出ているのは突貫工事の証拠。参議院での動きはいかに?

 徳田毅衆院議員と猪瀬東京都知事の間での5000万円問題。金銭感覚が違う。権力の中枢に座ると狂っていくのかなとも思う。釈明をいくら聞いてもついていけないという思いだけが残る。

 それにしても、「特定秘密保護法案」と密接に関連している「国家安全保障会議」創設が問題になっているこの時期に合わせたように中国の防空識別圏の設定が発表されるとはタイミングが良すぎる。というのは穿った見方か?経済の起爆剤となるのは紛争、戦争というのは歴史から見える現実。統治者にとっては甘い誘惑なのかもしれない。付き合わされる一般の民衆はたまったものではない。この悪の連鎖は断ち切れないものか?

 「特定秘密保護法案」のスピード感と反比例なのが定数是正の問題。違憲判決が多く出ているにもかかわらず遅々として進まない。都道府県単位で議員を出すという発想を捨てないとダメなんじゃないか?いつも思うのだが、国会議員は地方や団体の代弁者ではないはずである。この体質を変えるには、それこそ今流行りの有識者による第三者委員会による選挙制度の見直しをしないとと思うのだが?

 沖縄県連の自民党議員が公約を変え、本部の方針に従うという会見を見ていた時、組織と個人の関係の難しさについて改めて思った。

 政治の動きに目が離せない。
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[奈良の鹿 頭数管理へ]

2013年11月27日 | 日記
 一昨日の夕刊のトップで[奈良の鹿 頭数管理へ]という見出しを見た時、やはり来るべきものが来たと思った。先日、動物との共生についてふれたが、日本のいろいろな場所に旅をすると必ず、猿、イノシシ、鹿などの食害被害を聞く。奈良公園の鹿は別天地かと考えていたが例外ではなかったということだ。

 鹿は春日大社の神使であり、春日大社創建の際、茨城県にある鹿島神宮の祭神・武甕槌命が神鹿に乗ってやってきたと伝えられる(春日大社は鹿島含め3社の分霊)。それゆえ、奈良公園の鹿は古くから手厚く保護されてきており、不慮の事故も含め、殺めると厳しい刑罰を受けた。

 落語にも「鹿政談」という演目があるぐらいである。

 しかし、明治維新からは手厚い保護への反発から、戦中から戦後しばらくの間は食糧確保のため狩られ、その結果頭数が二桁まで激減した。その後は奈良市が「財団法人 奈良の鹿愛護会」を作り、保護に努め、その結果今日は約1000頭が生息するという。この鹿は野生鹿として国の天然記念物に定められ、域内での無許可での捕獲や傷痍行為が罰則をともなって禁止されている。

 頭数の増加に伴い、近隣の農家への食害被害や世界遺産である春日原生林の生態系を崩す恐れが出てきた。新聞によれば2008年に県や市、春日大社などで設立された「鹿のあり方検討会」では市中心部を除く地区で、捕獲も含めた適正頭数の維持を目指す意見が出たが、一方で動物愛護団体からの反発も予想されるため保護管理の決め手に欠くというのが現状みたいである。

 難しい問題だが県が設置する予定の有識者による第三者委員会を中心に、共存できる保護管理計画を作って欲しいと切に願う。伊勢神宮の遷宮での用材は200年先を見据えて準備されているという話に感動したが、奈良公園の鹿の問題も同じことだと思う。今だけの急場しのぎの計画ではなく百年単位の先を見据えて考えてもらいたい。

 観世清和さんと内田樹さんの話の中でも、観世さんが650年前から650年後までを見て今自分がするべきことを決める。ということが印象に残った。そのことを受けて内田さんも過去と未来の長いスパンの中で、今何をすべきかを考えることが大切だと強調されていた。
     「たかが鹿、されど鹿」である推移を見守っていきたいと思う。
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丸谷才一さんの「一世多元のすすめ」を思い起こす

2013年11月26日 | 日記
 2020年のオリンピック開催地の東京招致に成功して以来、「昭和」という単語をとみに目にするようになった。”「昭和」は輝いていた”的なトーンが主流である。『新潮45・12月号』の特集も‟「昭和」が消えてゆく”である。今使っている「昭和」は戦後、高度成長期と呼ばれた時期を指していると思うが、それは「昭和」という時代の三分の二にすぎない。残り三分の一は全く別の「昭和」があった。このことが「昭和は~」という言葉を聞いた時に小魚の骨がのどにひっかかったみたいな違和感を引き起こす。

 おそらく丸谷才一さんの「大きなお世話~日づけのある随筆~」(文春文庫)の中にある《一世多元のすすめ》を読んでいなかったら、自分の生まれ育った「昭和」への郷愁に単純に浸っていただろう。1970年9月4日の日付のついたものだから40年以上前の文章である。ただ、明治、大正、昭和の元号ぐらいしかピンときていなかった私には元号は天皇の崩御、即位と一致しているという感覚しかなかった。そこに、「それは違うよ!」と教えてくれたのが丸谷さんの一文であった。

 元号はもともと中国渡来のものだが、本家の中国では清朝滅亡以来使われていないし、日本と同じように中国の真似をして元号を採用した周辺の国々もすべて消え、日本だけが世界中で唯一用いている。という書き出しから元号存続論者の見解=「元号は、人間の精神的活動による無形の文化財という意味で意義がある」を紹介している。

 丸谷さんは、この見解をチンプンカンプンでよくわからないと言いながら、「元号によって時代相がパッと頭に浮かんで調法だ、ということを勿体ぶって言ったものらしい」と推定している。そのことに一定の理解を示しながら、だが、しかし。と持論を展開する。

 だが、しかし、ここで一つ注意しなければならないことがある。それは、こういう種類の、時代相と密着した元号は、一世一元ではなかったということである。 (中略) という具合に、祝儀不祝儀のたびに元号を変えるのが昔の方式であった。こうすることによって、人心を一変したり、あるいは時代の変化に即応したりしたわけで、そういう工夫があるからこそ、元号が意味を持ち得たのである。
 ところが、一世一元なんて、たかが一個人の生理にもとづいていたのでは、うまい具合に時代を追いかけることは不可能である。逆に言えば、一世一元ということを決めた明治の政治家たちはあれこれと有能ではあったかもしれないけれど、なにぶん成上りの悲しさで、一世多元という仕掛けの持つ「文化」的「意義」がわかっていなかった。彼らの眼中にはごく単純な能率の問題しかなかったのだ。
 


 そして、次のように断じる。

 本来なら、関東大震災が起ったらそこで早速、改元すべきであった。そうすれば、震災前と震災後の相違がもっとずっとくっきりして、この上なく調法であったにちがいない。また、アメリカとの戦争に敗けたら、八月十五日をもって何か別の年号を制定すべきであった。そうすれば戦後という一時代の姿はじつに鮮かになって、これまたすこぶる具合がよかったろう。

 ただ、少し想像を働かせればわかることだが、変化の激しい現代において一世多元をしようとすれば実に頻繁と改元の必要が生じる。そのたびに紙幣や切手など実にわずらわしい事務作業が生じる。そこで丸谷さんは「これはやはり西暦一本にしぼるしか手はあるまい」と揶揄を込めて締めくくっている。

 そのことはともかく、「昭和」を戦前と戦後で明確にするということは大切だと思う。今、世間的には「昭和」(戦後)に対する憧憬のようなものがつくり出されているが。その空気の中で、安倍さんら政府与党の方々は「昭和」(戦前)への回帰を目論んでいるように思えてくる。

 丸谷さんにはもう少し長生きしてもらって今の世相を切って欲しかったと、かなわぬ願いを持つ今日この頃。

 
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