素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

悔しいけれど再トライを

2009年11月30日 | 日記
 今日は、午前中用事がたくさん入り、12時過ぎにやっと自由になった。ただ、17時過ぎには孫の迎えという仕事もあるので厳しいかなと思ったが、どうせ山崎へ行くのだからということもあり、八幡市駅に車を置いて、伏見稲荷駅まで京阪を使い京都一周トレイルの東山コースの前半(伏見稲荷~蹴上)10.3kmにチャレンジ。

 13:40に伏見稲荷駅を出発して伏見稲荷大社へ。長いこと近くに住んでいたが行ったことがなく初めての参詣である。予想していたよりスケールが大きくて大満足。快調なペースでトレイルのコースを歩くことができた。分岐点では標識がありスムーズに泉涌寺までは進んだ。あまりにも順調だったので心に隙ができ、しっかり地図を確かめずに勘で道を進んだ。当然の報いでコースからはずれてしまった。

 小さい時からよくやってきた失敗。教訓:変だと思ったら強引に進まず立ち止まれ。人に尋ねよ。引き返せ。何年たってもこの教訓が活かせない。

 

 途中で、まちがいに気づきコースにもどる道を進んだのだが、ここで二度目のミス。たよりにしていた⑩ポイントの標識を見過ごす。そこで左折してコースに戻るつもりをしていたのに、直進してしまった。いつまで歩いても⑩がでてこない。さすがに変だと思ったので、今度は引き返す。ありました。ロスすること40分。

この標識をみのがしたのです。二度のミスで15:07になってしまい、一山だけは越したが、蹴上までの2つの山を越える気力も体力もなかったので断念。国道に沿って京都市内に戻る。東山五条に着いたのが16:10。

 少しだけ秋の京都市内を味わおうと祇園を抜けて四条の駅に向かう。山と違って和服姿も多く、華やいだ雰囲気であった。

 ちょうど南座の顔見世興行が初日だったので、四条の駅付近は一段と賑やかであった。

     

 近いうちに、伏見稲荷から蹴上まで再トライするつもり。

 
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自治会館周辺、今日は朝からお祭り騒ぎ

2009年11月29日 | 日記
 10時から4時までは、自治会館の中で、地域の文化祭があり、手作りの作品や写真などが展示されにぎわった。妻たちのグループも今年は出品しようと牛乳パックで作った椅子やらネクタイを再利用したアクセサリーなどを定期的に集まり準備をすすめてきた。我が家にかけてあった花の写真も展示した。「座禅草」が珍しがられた。
 
 それぞれの作品を見ながらコミュニケーションの輪が広がっていくのもいいかなと思った。私は、タイトルづくりで協力。ワープロの行印刷と色画用紙を使い、教室掲示をなつかしみつつ作った。




 5時からは、自治会館の前で、『山ナリエ』と名づけている有志によるイルミネーションの点灯式があった。13回目を迎え、どんどん盛り上がっている。私自身は好みではないが、広報の写真を撮る関係で参加。一品持ち寄りの懇親会、市長や議員も駆けつけちょっとしたイベントになってきた。


 5時から10時まで点灯される。仕事をしている時は、いつも通り左折するとメインの道になっているので歩行者にヒヤヒヤしながらの帰宅となってしまう。これがチカチカし始めると1年の終わりが近づいたと実感がわく。

事故なくみんなが楽しむことを願うのみ。
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死について

2009年11月28日 | 日記
 11月半ばぐらいから喪中はがきが届き始める。「天寿をまっとうしたんやな」とか「まだ若すぎる、無念やったやろな」などと『人生の終わり』=『死』というものを考えさせられる時期の1つである。一見形式的に見える短い文面の中に、残された方々の故人への思いを深く感じるのである。

 「 世の中に絶対はない。」とよく言われるが、「死」は絶対にある。その厳然たる事実を前にして人間は不老不死の薬を求めたり、死後の世界に思いを馳せたりと脳が発達した分、他の動物に比べもがいてきたように思える。それらが科学を発達させ、文化を育んできたといってもよい。

 山本周五郎は作品の中で、親しい人の死を前にして嘆き、悲しむ人に対して「人は二度死ぬ」という言葉をかけている。「一度目はその人自身の死、二度目はその人の思い出を持っている人の死。だから生をまだ授かっている者はその人を胸の中に抱いてしっかり生きていかなければいけない。」今まで多くの人との別れに際して私自身を支えてくれた言葉でもある。

 今、私は「両親より先に死にたくない。子どもたちよりは先に死にたい」という思いを持っている。生まれた順番に死んでいくのが平凡だけど一番の幸せだと思っている。世の中には不慮の死を遂げる人も多く悲しみに満ち満ちている。この年齢で平凡な願いを口にできる自分は幸福だと思う。

 森本哲郎の「ことばの旅」の中にモンテーニュのことばが紹介されている。・・・むろん、だからといって、仕事は投げやりでいいんだ、ということではありません。人間は生きているかぎり仕事に打ち込み、働き続けることを望むものです。けれど、死が仕事を中断させるのを嘆くのはまちがっている。と言うのです。死はそんなにつごうよく来てくれるものでないからです。ですから、彼はこう言います。「わたしは、死が、わたしがそれに無頓着で、いわんや、わたしの菜園の未完成であることなどにはなおさら無頓着で、ただせっせと白菜を植えている最中に、到来することを望む」そんなぐあいに、死をあっさりと受け入れたいというのが、モンテーニュの死の準備なのでした。・・・・

 父親は5年ほど前から、自分の描いた水彩画を年賀状に使っている。最初は弟が原画をはがきに印刷していたが、ここ3年ほどは私の仕事になった。原画の淡い色合いをだすのがなかなかむずかしいが、新しい年に向けての父の張り合いでもあると思う。先日、的矢湾の夜明けを描いた原画が届いた。            
この作業を今年もできる喜びをかみしめている。

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うねりの中で

2009年11月27日 | 日記
 事業仕分けが最終日を迎えた。政治のうねりを感じた1週間であった。今日の円高の動きにも日本だけではなく、世界も揺れていると感じた。特に、オイルマネーで絶対的強さを見せていたドバイの債務問題のニュースは正直驚いた。

 毎日新聞愛読者の広場として「まいまいクラブ」というものがつくられていて、私も会員になっている。さまざまな情報をネット配信してもらっているが、事業仕分け関連のものも多い。その中で紹介された慶応大学グローバルCEOプログラム幹細胞医学のための教育研究拠点」「In vivo ヒト代謝システム生物学拠点」の連名の声明が説得力があった。
{http://www.gcoe-stemcell.keio.ac.jp/news/000187.html}

 政権交代という動きからうねりが生じてきたように思える。12月からはさらに二波、三波と押し寄せるだろう。メディアとしては新聞にがんばってほしい。速報性ではテレビに負けるが、目先の動きにまどわされないしっかりとした取材で多面的な情報を提供してほしい。




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人生ぼやき講座\'78 大好きでした

2009年11月26日 | 日記
人生ぼやき講座'78


 人生幸朗・生恵幸子のような漫才は今はない。世相風刺というのはネタとしてはとてもむずかしいと思う。発する側のキャラクターがまず一番であろうが、人生幸朗というネーミングや風貌などピッタリはまっている。プラス相方の生恵幸子の存在が大きい。包容力と鋭いツッコミが絶妙のバランスである。今の世相をどうぼやくか聴いてみたい。どうにもならぬとわかっていても一瞬でも笑い飛ばしたい気分になる。
 
 しかし、ぼやき漫才を成立させるには、受け取る側の余裕、物事を第三者の目で見る力などが絶対条件と考えた時、ゆとりのなくなった今、もう無理かなという思いにもかられる。

 『特別支援教育 4年間で4万7000人増加 教員の確保課題』という見出しを昨日の夕刊で見た時、またぼやきたくなった。特別支援教育を受ける児童生徒の急増に対する文科省のコメントが「はっきりした理由は不明だが、特別支援教育の社会的認知度が上がり、手厚い支援を求める親が増えてきたことが背景にあるのでは」となっていて、思わず「ハア?何をのんびりとしたことを言うとるんや!」とつっこんでしっまった。

 特別支援教育は、06年の学校教育法改正で位置づけられた。注意欠陥多動性障害(ADHD)・学習障害(LD)・知的障害を伴わない高機能自閉症など従来の特殊教育の枠に入らなかった軽度発達障害の児童生徒も支援の対象に含めたのである。

 先だって05年度あたりから、市教委のほうから特別支援対象の生徒の数の報告を求められた。校内研を通じて全体的な理解を深めながら、学年会の中で対象生徒を検討していった。とてもむずかしい作業であった。単なる落ち着きのない生徒なのかADHDなのかという見極めは専門的な訓練を受けていない者にとって不可能に近い。

 それでも数の報告をしなければならないので、限りなく近いと考えられる生徒を選び、報告した。それを受けた市教委からの指示は「少なすぎる」であった。「8%ぐらいの割合でいると言われているから、クラスに2~3人はいるはずだ」ということで見直しを命じられた。この時感じた違和感は今だに覚えている。

 たしかに、従来見過ごされてきた視点で生徒を把握し、担当教師の感性だけにたよってきた指導からの脱却を図るということは必要である。“小学校1年の荒れ”という表現でベテラン教師が今までの指導の枠からはみ出る児童が増えているという報告が全国のあちらこちらから出てきたのもこの時期である。

 私自身も、従来の指導の枠では収まらない典型的なADHDであろう生徒に入学以来振り回されていた。3年生で担任したのだがなかなかドラマチックな1年間だった。日々格闘している中での市教委からの指示はむなしささえも感じた。

 現場では生徒にラベルを貼って、「ハイ オシマイ」ではないのである。アメリカでの実践報告に追随しての文科省の動きだったと思う。しかし、アメリカではADHDの生徒のための特別な教室(無刺激な部屋)が用意されたり、専門に学んだ教員が配置されたりして具体的な支援策が実行されていたが、日本ではまことにあいまいな基準で統計をとるだけで具体的な動きは何もなかった。

 特殊教育でも本当に専門的に学んできた人の配当は現場にはない。時間数の関係から担当になった教師が手探りの状態で取り組んでいるのが実態である。

 司書教諭でもそうである。法律通りに各学校に配当されていない。看板は立派なのだが中身が伴っていないのである。予算の裏づけがなされないよいうのが大きな原因だと思うが、「教育は国家百年の大計」といわれているように、大切なものだと思う。

 今の現場は、特別支援教育の対象生徒への無策から、5年前よりも深刻な状況が広がりつつあるように思える。退職教員をパートのようにお手軽に名前だけつけて穴埋めしようという小手先の対処では限界がある。

 ADHDやLDやアスペルガーの子を持つ親は、特別支援教育が位置づけられたことで学校に期待を寄せ、要求をすることは当然のことである。物理的に何ら保障されていない学校側の態勢とぶつかり、学校不信に陥ることも充分予測できる。このことは教師、保護者、生徒にとって悲しいことである。

 「少子化なのだから、人員削減をして人件費を抑えろ」という声に対して、世間一般の空気は「そうだ」と流れやすい。民意というものももう一度考え直す必要もある。

 久しぶりに根幹の部分での議論が生じているように思う。そのこと自体はいいことだと思う。

 「何をごちゃごちゃ言うとるんや、教育のことも大事やけど、第九の暗譜もできてないやないか。自分の目の前のことにもしっかりせんかい!」という生恵幸子師匠のツッコミの声が聴こえる。
 

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