素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

花冷え 下剋上ならずセンバツ決勝

2022年03月31日 | 日記
 日替わりランチのような天気だ。昨日が「ポカポカ小春定食」なら今日は「雨付き花冷え定食」、明日の予定は「北風特盛定食」といったところ。第94回選抜高校野球の決勝、雨の心配もあったがうまいこと雨雲が散ってくれて無事終えることができてよかった。学校にとって3月31日は大きな区切りである。スッキリとした気持ちで新年度は迎えるに越したことはない。

 コロナ禍の大会を象徴するような決勝戦となった。大阪桐蔭はコロナ感染による広島商の辞退で2回戦を不戦勝、近江は、大会直前に京都国際でコロナ感染が出たため代替え出場したというコロナがらみのある両チームの激突となった。

 しかも、どちらも近畿ブロックで、大阪桐蔭は昨秋の明治神宮大会で優勝をした自他共に認める優勝候補ナンバーワン、対して近江は近畿ブロックの補欠校、ドラマのような筋立てで決勝戦まで進んできた。ドラマであれば近江が不屈の粘りを見せて下剋上を絵に描いたような優勝となるが、現実は甘くなかった。

 1回戦から4試合連続で完投、球数は合計540球。しかも前日は延長を戦い170球を投げ、さらに左足かかと付近に死球も受け満身創痍のエースにとって大阪桐蔭の打線をかわすことを求めるのは酷だった。1週間の球数制限からあと116球しか投げられないことも考えれば、控え投手の先発という賭けもありかなと思ったが、こればかりはわからない。

 とにかく大阪桐蔭の打者の集中力が見事だったということである。

 大階段のヤマザクラもソメイヨシノに負けじと満開となった。白い清楚な花が花冷えの気候にはよく似合う。
   
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春の嵐山へ

2022年03月30日 | 日記
 昨年の11月12日にジム仲間のHさんと嵐山へ自転車で行った。その時、もしお互いに体力が維持できていたら春の桜の時期にもう一度サイクリングをしようと約束していた。

 その後、コロナ禍に振り回されながらも体力の目減りは最低限に抑えることができた。ちょうど29日、30日と2日連続でジムが休館なので天気のましな今日行くことになった。

 9時に妙見口の桜並木の下で待ち合わせた。妙見口の桜も一気に開花が進み8分咲きになっていた。「桜見物だったら、妙見河原と傍示川で充分やけど」と言いながら8時52分に出発した。


 コースは秋の時と同じ第二京阪道路の側道を走り木津川の堤防に出る。前回は流れ橋に立ち寄ったが時間ロスになるので背割堤のさくらであい館まで休憩なしでひたすら走った。

 10時10分、さくらであい館に到着。平日だが花見客で賑わっていた。桜の方はまだ5分咲きといったところ。


 期間中はであい館の前の広場には自転車を入れることができないのでトイレを済ませる間だけということで歩道に置かせてもらい、ゆっくりする間もなく10時20分に出発した。暑くも寒くもない絶好のサイクリング日和であった。4人のグループの後にくっつき時速21kmペースで快適に走った。コバンザメ作戦で省エネ。
 桂川と天神川が合流するあたりの桜並木は満開で多くの人で賑わっていた。


 終点の嵐山公園には11時20分に着いた。着物姿の若い人や子供連れの姿が目立つ。


 前回と同じ店で同じものを食べ、定番の渡月橋を入れた写真を撮り12時10分に帰路に着く。
 

 帰路は向かい風が強くなり必要以上にエネルギーを使う。7段階の変則ギヤー、往路は5~7だったが帰路は2~4にしないと足が持たない。さくらであい館はさらに賑わっていてタワーに上る人は行列を作って待ていた。入念にストレッチをして体をほぐした後13時30分に淀川の河川敷の道路から天野川沿いの道をひたすら走った。枚方の鵲橋から枚方高校にかけての土堤の桜は満開で花見客も大勢いたが写真を撮る余裕は残っていなかった。ギヤーを1~2にしてペダルをこぐのみ。

 15時10分無事我が家に戻る。総走行距離83km。

 
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「カムカムエヴリバディ」やっと最初から今日までがつながる

2022年03月29日 | 日記
 3日前の「カムカムエヴリバディ」三昧で飽和状態になってしまい、あと少しというところでnhkオンデマンドの視聴がストップしていた。内容が重いだけに消化する時間も要る。

 今日、明日はジムの休館日、時間に余裕があるので続きの(33)から(39)までを一気に視聴。安子とるいが別れてしまう、関係する人たちの善意の負の連鎖がよく描かれていた。「これが人生」という言葉が重かった。

 成長した深津絵里演じるるいが登場して大阪での生活が始まるところで、安子の誕生からるい、ひなたへと続く物語の線が私の中でやっとつながった。これで今週、来週の展開での一つ一つのセリフ、場面の意味するものがゆっくり味わえる用意ができたということ。

 ちょうど私の父が安子と同じ大正14年生まれということもあり安子の歩む世相の中に父を重ねることもあった。93歳で亡くなるまで胸の奥底には戦争というものがあったように思う。三重県退職校長会発行の近況報告集「いきがい」に毎年欠かさず投稿していた200字足らずの近況報告を読み直すとそのことがうかがえる。
(昭和62年・第5号)
 退職五年目の春、教育界から、大正生まれの仲間がすべて去ったことに一抹の寂しさを禁じ得ない。その反面、かつての部下の昇任、昇格を知る喜びも又格別である。励ましの便りを認めながら、唐の詩の一節「年年歳歳花相似、歳歳年年人不同」(劉希夷)が心をよぎる。
 人の世の移り変わりをしみじみ思う、きょうこのごろである。

(平成4年・第10号)
 去る四月、退教互主催の沖縄旅行に参加した。秘境西表島でのマングローブの茂る川上り、水牛車に乗っての海峡渡り等、沖縄ならではの旅を満喫。                            
 本島では、摩文仁の丘、ひめゆりの塔など、南部戦跡を訪ねたが、わずかに復元最中の首里城跡に、わが心の中に生き続けていた戦禍を偲ぶのみであった。旅を終えて今はただ復帰二十年の沖縄に全基地返還の日の一日も早からんことを念じている。 

(平成7年・第13号)
 戦後五十年の節目の年に同窓生、森岡清美氏の著書「若き特攻隊員と太平洋戦争」を読む機会を得た。若き特攻隊員が出撃を前に、親、兄弟、恋人などへの思いを切々と綴った手記をもとに、特攻の真実の姿を後世に残すべく、彼らの群像を描いた本著に深い感銘を受けると共に、同じ決死の世代に生き残った者のひとりとして、日々精一杯生きていこうと思う昨今である。

(平成12年・第18号)
 三月上旬、知覧特攻平和会館を尋ねる機会を得た。太平洋戦争末期、 幾多の若者達が、再び還らざる特攻出撃に飛び立っていった飛行場跡  
に建てられた会館である。館内には、若き隊員の遺影、遺品、生死の 狭間に揺れながら、切々と綴ったであろう遺書の数々に、深く胸を打たれた。「完全ナル飛行機ニテ出撃致シ度イ」と書かれた遺書は今も私の脳裏から離れない。 

(平成16年・第22号)
 昨年秋、かねての念願であった上田市に窪島誠一郎氏によって建てられた戦没画学生慰霊美術館「無言館」を訪ねた。ここには、日中、太平洋戦争で亡くなった画学生約四十名の遺作、遺品が展示されている。志半ばで無念の死を遂げた、芸術の若き使徒達のひたむきな情熱が絵を通して切々と語りかけてくるのを感じ瞼が濡れた。一度は訪ねていただきたい美術館である。

(平成18年・第24号)
 一月、辺見じゅん原作の映画「男たちの大和」を見ました。生存者の回想から始まり、家族との別れ、生死を共にする士官と部下、同僚との絆、壮絶な戦闘シーン、涙なくしては見られない映画でした。私の先輩、坪井さんは大和生存者のひとりですが、語り部として平和教育に尽力されている記事を教組新聞で拝見し、同じ世代を生きた者として平和への願いを新たにしました。

(平成21年・第27号)
 一年後輩の上出芳照君の死亡叙勲を新聞紙上で知った。彼は豊橋陸軍予備士官学校同期生であり、広島原爆被爆者でもある。彼とは原爆投下後の悲惨な現状、生死の境をさ迷った闘病生活の辛さを聞く機会があり、唯一残った八時十五分を指す腕時計を拝見した思い出がある。私は七月末広島から鳥取部隊へ復帰し被爆を免れた。今日ある幸せと平和への願いを新たに、彼の冥福を祈る次第である。
 

       
               
                  


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宗教

2022年03月28日 | 日記
「 宗教とはなにか?
  などと、ふだんあらたまって考える機会はあまりない。
   宗教なんて、自分にはあんまり関係ない。うっかりはまると怖いから、近づかない。それなのに、宗教について実はなにも知らない。これが       
  平均的な日本の高校生、大学生ではなかろうか。
   お葬式や結婚式のときにお世話になるのが宗教だと、日本人は思っている。だから、それ以外の場所に宗教が現れると警戒する。
 
   こういう日本人のあり方は、世界的に見ると、特別である。欧米でも、イスラム諸国でも、インドでも東南アジアでも、世界中ほとんどの     
  国々で、宗教は日常生活にすっかり融けこんでいる。
   
   このことに気づけば、宗教とはなにか、半分ぐらいわかったようなものだと言ってもいい。

   世界各地の宗教がどんなものかは、ほかの各章にゆずるとして、ここではそもそも、人間であることと宗教とはどんな関係があるのかについ
  て、いっしょに考えてみたい。」

 これは橋爪大三郎著「世界がわかる宗教社会学入門」(筑摩書房)の中のガイダンスの冒頭である。2001年に出版されたものだが、さまざまな出来事の中で宗教が深く関わっていると感じるたびに読み始めては挫折している本である。私自身が橋爪さんが指摘している通りの典型的な日本人である。

 今回のウクライナ侵攻のことを考える時、やはり宗教のことを抜きにしてはいけないと思い読み始めている。合わせて橋爪さんの恩師である小室直樹さんの書かれた「日本人のための宗教原論」(徳間書店)も読んでいる。私にとっては3000m級の山に登るぐらいの困難なことだが、何度となくチャレンジしては挫折を繰り返す中で養われてきたものもある。

 この山を登りきったら何か違う風景が見えるのでは?と期待してコツコツと取り組んでいる。

 「日々鍛錬し いつ来るともわからぬ機会に備えよ」という言葉に押されている感じ(笑)
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自衛

2022年03月27日 | 日記
 ロシアのウクライナ侵攻から1ヶ月余り、この間、ニュースやニュース解説、新聞記事を今までになく熱心に診たり、読んだりしてきた。それに関連しての歴史も学んだ。

 歴史をひも解けば大多数の戦争は自衛のために始まっている。そして自衛の名を語った戦争が、完全な侵略戦争に転換していく。敵対する両国にはそれぞれ大義名分が存在するが、そんなものは戦争の現場に立たされる兵士や民間人にとっては何の意味も無い。日常の平凡な生活が破壊されるだけである。ウクライナの各都市の惨状を見るにつけ「ロシアにとって何の意味があるのだ」とつぶやいてしまう。

 今の時代に唯一正当化できるのは「先制攻撃に対する正当防衛ための戦い」である。それでは手遅れになると「敵基地攻撃能力を高める」という声もある。でも「やられたらやり返す」「やられる前にぶっつぶす」という脅しのために核やミサイルを増強したり、憲法を改正したりしても抑止力にはならないだろう。

 「もし攻撃されたら反撃するが、先制攻撃は絶対しない」と宣言することしか「自衛」の道はないのではないか。「正当防衛を除き、戦争を国際紛争解決の手段としては使わない」ということを愚直に世界に広める努力をしていくしかない。

 まだ悶々とした日々は続きそうだ。
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