素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

“藤城清治”さん、なつかしいです。

2012年03月31日 | 日記
 知人から行ってみないかと誘われて藤城清治さんの展覧会に行ったのは25年ぐらい前になるだろうか。たしか開店まもない頃の京阪百貨店守口店だったと思う。物心ついた頃より“暮らしの手帖”で馴染み深かったのでとてもなつかしく感じた。その時、暮らしの手帖で掲載されていた“お母さんが読んで聞かせるお話”を単行本の絵本にした『きん色の窓とピーター』を知人からプレゼントしてもらった。

 ヴォーチェ千里さんのコメントを読むまでは、私の中では藤城さんは“亡き人”となっていた。当時で40年ぐらいのキャリアを持ち、円熟の境地という印象が強かったので実年齢よりもずい分高齢の方と思い込んでしまっていた。まだ現役で創作活動をされていると知り、正直驚いた。なつかしさもあり絵本を開いてみた。香山多佳子さんの15の話と藤城さんの美しい影絵を見ながら週刊新潮の表紙を飾った谷内六郎さん、朝日新聞の日曜版の滝平二郎さんなども思い浮かべ、最近の雑誌、新聞にはこういう一本筋の通った人たちを育てるという気風がなくなったなと思った。

 絵本の中で、唯一日本の昔話からとった『うごかなかった柳の木』が一番心に感じた。三十三間堂を建てるための棟木として切られる但馬の国の山あいの村にある大きな柳の木と村の娘との話である。

   そのあとがきで藤城さん(当時52歳)は書いている。

「新しい高速道路や車が新しい文化をつくるように、さまざまの広告や流行がいまの時代をつくってゆくのかも知れない。けれども、あの雪どけの尾瀬沼に咲く純白のミズバショウのように、ぼくの影絵は暮らしの手帖の中で咲きつづけてゆきたいと思う。そして、尾瀬といえば、だれでもミズバショウを思い浮かべるように、暮らしの手帖といえば、みんなが影絵を想い出してくれるような、美しい作品をつくってゆかなければと思っている。」   

 米寿記念特別展は4月7日から6月24日まで、私も是非機会を見つけて行ってこようと思います。
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万城目学『鴨川ホルモー』読み始める

2012年03月30日 | 日記
 昨日の20kmがきいて、さすがに今日はふとももに張りがある。ちょっとしたものなら動いて筋肉が温まると解消していくが今日は違う。階段を下りる時がきつい。こういう時は休息をとらないと故障する。“和時計をつくる”の作業はうってつけ。2月中頃から止まっていたので5冊分たまっていた。まとめて作業をすすめる。その合間に『鴨川ホルモー』を読む。

 「変な題名の映画やな」というのが『鴨川ホルモー』との出会いである。映画は見る機会を逸したが、大阪、奈良を舞台にした2作から万城目ワールドを映像表現するのは至難の技であるという思いが強いので結果としては良かったかもしれない。

  その三“吉田代替わりの儀”まで読み進んだ。建築でいえば基礎工事から棟上までの部分。これからが万城目ワールド炸裂かと期待している。 
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久しぶりに寝屋川公園4kmコースを走る(4km×5=20km)

2012年03月29日 | 日記
 我が家の裏の新築工事の足場とシートが今日取り払われた。施行業者が地元の野村工務店で、建売住宅ではあちらこちらでよく見かける。デザインが現代風な感じ(悪く言えば奇抜)なものが多いのでちょっと楽しみにしていたが、屋根が少し高めだが非常にオーソドックスな家である。
  おかげで、夏の西日と冬の北風が少しはましになるかと期待している。

 今日の朝の天気予報、近畿のすべての地域で午前、午後とも降水確率が0となっていた。とっても珍しいことだ。全国的にもすべて“晴れ”マーク。心なしか予報士の声も弾んでいる。今日はジムの休館日、1週間前から寝屋川公園のコースで20kmを走ろうと決めていたので陽気に誘われてフラフラ出かけずに予定通りストイックな世界で過ごした。

 交野マラソンで10kmを60分以内でという目標をつくったので、新しくつくった家から寝屋川公園をまわって帰ってくる10kmコースを走ることが多くなった。今の自分にとっては時速10kmで1時間走るということは心身に負荷がかかる。3月20日の交野マラソンで55分26秒ととりあえず目標をクリアした後、なぜか長い距離をゆったりと走ってみたいなという思いが湧いてきた。大阪マラソンに向けての練習以来半年近く20kmを走っていない。はたして体はどう反応するだろうかということも確かめたかった。

 結果は、2時間22分32秒。3周12kmまでは1周25分前後で行けたが、が4周、5周目にかかると足が重くなってきた。しかし、痛みやけいれんなどのトラブルはなく粘りはついたと感じた。大阪マラソンへ取り組んだのは夏場だったので条件面で今とは異なるが身体面の維持はできていることが確認できた。過去のランニング記録拾い出してみた。

 2011.06.06   寝屋川公園16km 2時間03分33秒
 2011.06.30   寝屋川公園16km 2時間15分17秒
 2011.07.08   寝屋川公園20km 3時間09分07秒
 2011.07.31   寝屋川公園20km 2時間36分50秒
 2011.08.24   寝屋川公園16km 2時間18分03秒
 2011.09.29   寝屋川公園20km 2時間38分51秒
 2011.10.02   万博公園 25km 3時間13分56秒
 2011.10.13   寝屋川公園24km 2時間56分05秒 
 2011.10.30 大阪マラソン42.195km 5時間44分47秒

 2011.12.20   新10kmコース   1時間11分00秒
 2011.01.05   新10kmコース   1時間16分56秒
 2012.02.05   新10kmコース   1時間07分00秒
 2012.02.15   新10kmコース   1時間10分00秒
 2012.03.12   新10kmコース   1時間01分55秒
 2012.03.20   交野マラソン     55分26秒

 2012.03.29   寝屋川公園20km 2時間22分32秒  

  
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春雷

2012年03月28日 | 日記
春雷やボール残して急ぎ足 

 13時過ぎにジムへ行こうと玄関を出ると今までと打って変わって空に雲がたちこめ風が強く吹いていた。道路で遊んでいた前の家の三人兄弟達もあわてて家に駆け込んだ。「こりゃ春の嵐やな」と傘を持って歩き始めた。半分ぐらいくると雷が鳴った。結構近い。「やばいな」と思ったが引き返さずジムへと急いだ。ジムの手前にある広場まで来ると「光った!」と小学生の声。すぐに続いて雷鳴がとどろく。これじゃサッカーどころではない。なんとか雨にはあたらずジムに着くことができた。傘立てにはほとんど傘がなかった。午前中にジムに入った人には“まさかの急変”だったろう。

 今日の新聞には、文部科学省が昨日公表した高校教科書の検定結果の記事が特集されていた。来春から主に高校1年生が使う教科書だが“12%厚い”“数学27%増”“学力重視鮮明”とかいう言葉が踊る。前にも書いたので繰り返さないが、指導要領の改訂のたびに能天気な明るいトーンで教育の未来を語る報道をいつまで続けるのかとうんざりした気持ちに襲われる。

 そろそろ学習指導要領のあり方と検定制度について、過去の経過をしっかり検証して考え直す時期にきているのではないかと思っている。

 1つは、高校のあり方は是非はともかく“多様化路線”に拍車がかかっている中で、一元化の枠をかたくなに守る検定制度による教科書づくりには無理が出てきているように感じる。

 もう1つは、ネットを通じて無選別に大量の情報が得られる現状で検定制度は意味があるのかという素朴な疑問が出てくる。

 無視しようと思ってもこだわり続けてきたことだけに、心にむなしさをともなったモヤモヤ感が湧いてくる。こんな時は万城目ワールドが恋しくなる。そこで『鴨川ハルモー』を読み始める。
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鼻血

2012年03月27日 | 日記
先の同窓会、秋山さんのコメントにもあるように“記憶も薄れていまいち話がかみ合わない部分があって”というのは至極当然のこと。同窓会というのは“人間の記憶のおもしろさ”と出会う場でもあるのである。

 授業や行事の思い出をそれぞれが記憶の糸をたどりながら談笑している輪に入ってきたSくん、「中学の頃のことはほとんど忘れているが、先生の鼻のガーゼだけは奇妙に覚えている、鼻はもう大丈夫ですか?」その場にいる者には何のことかピンと来ない。「何それ?」という空気が支配した。「そんなことありましたよね」と念を押すSくん。鼻の治療の記憶は絶対忘れることのできないものだったが、どの時期だったかは忘れていた。「ああ君らを教えていた時か」ということで鼻血談義になった。

“鼻血”に関する忘れられないことは2つある。1つは高2の時、もう1つがSくんの記憶にある時である。

 高校2年の時、原因がわからないのによく鼻血が出るようになった。当時、谷岡ヤスジのギャグマンガでの“鼻血ブー!”が流行していたこともあり、授業中などに前ぶれもなく鼻血が出てくるのには辟易していた。期末テストが近くなったある日、テスト中に鼻血が出てくると困るので病院で診てもらうことにした。当時、耳鼻咽喉科は電車で4駅の鵜方にある志摩病院という総合病院しかなかった。遠回りになるが朝一番に診察してもらい、バスを使って伊勢に行けば午後からの授業には間に合うだろうとふんでいた。

 開口一番医者は「何分ぐらいで止まりますか?」と訊ねてきた。咄嗟のことであり、あまり今まで鼻血が止まるまでの時間を意識したこともなかったので“そんなに長くはない”というつもりで「5分ぐらい」と答えた。途端に医者はむずかしい顔になり、看護婦に指示を始め「呼ばれるまで廊下の椅子で待っていてください」と診察室から出された。

 待ちながら壁の時計を見ているうちに“5分って長い”と思い始めた。“1分~2分ぐらいで十分止まっていた”と思い直したが訂正もできず、結果、レントゲン、脳の検査、血液検査といろいろな所にまわされての検査漬け。検査の結果が出るまで午前中いっぱいかかり、学校は欠席せざるを得なくなった。検査の結果は異常なし。レントゲン写真を見ながら「鼻を強く打ったことはないか?」と質問した。「サッカーをしていてヘディングでせり合うとき、背が高いので相手の頭がよく鼻にあたる」と言ったら「それや」ということになった。結局、鼻腔の中の骨が曲がっていて血管にあたりやすいのでちょっとした刺激で血管がきれるので、むやみにさわったり、鼻を強くかむことはしないという注意だけで終わった。『あの時5分と言わなければ、勇気を持って早く訂正すればもっと早く解放されていたのに』と後悔しながら家にもどった。

 それ以来、鼻血とは無縁であったが、Sくんのいた7期生の学年を担当している冬に、高校時代と同じように鼻血がよく出るようになった。授業中などに出るとやばいので近くの耳鼻咽喉科に行った。“今度は5分なんていい加減な時間は言うまい”と医者の前に坐ったら「おちょこ何杯ぐらい出る?」という質問。“???誰が鼻血をおちょこで受ける!?ティッシュにしみた血をおちょこに換算できる人おるのか!?”と不意打ちの質問に少々イラッとするが『耳鼻咽喉科の医者は神経質でむずかしい人が多い』という養護教諭の先生の愚痴と高校時代の教訓『医者は患者の話から最悪のストーリーを描く』が頭をよぎり、医者がたいしたことはないと判断するあたりをさぐりながらうまく話を収めた。

 「とにかく鼻血で授業に差し障りが出たら困るので」とお願いした。「じゃ、ガーゼ詰めておきましょう」と言ったのはいいが、「大盛りサービスじゃなくていい」と言いたくなるぐらい大量のガーゼが詰めこまれた。息苦しさと鼻声は我慢できたが、毛細管現象による鼻水は難儀した。ポタポタと落ちつづけるので授業中は鼻血より始末が悪かった。Sくんはそのあたりの苦闘がとても印象に残っていたという。通院するたびに新しいガーゼを取り替えるだけでいっこうに完治宣言がされなかった。2回までは我慢したが、3回目には医院を出るなり「やっておられるか」とつぶやきガーゼを引っ張り出してゴミ箱に捨てた。あの時の爽快感は覚えている。当然通院もやめた。それから30年余り“鼻血”で悩まされることはない。しかし“2度あることは3度ある”“災いは忘れたころにやってくる”という。心しておこう。

 しつこいが夜空が気になったので確かめた。やはり昨夜とは位置関係が変わっていた。これで納得。

 
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