正林寺法華講員手引書

『折伏・家庭訪問・教化育成・法統相続・教学研鑚・邪義破折・支部組織の充実強化に活用』 法華講正林寺支部 正林編集部

上行菩薩を上首とする地涌の菩薩 (従地涌出品第十五)

2005-11-15 | 妙法蓮華経並開結 略要旨私考

 「地涌の菩薩」を本化の菩薩といい、久遠から釈尊初発心の弟子であります。『法華経』にしか登場しない菩薩で「従地涌出品第十五」(法華経407)に説かれ、爾前権教に執着する、声聞・縁覚・菩薩等に「動執生疑」を発させるため、地面から出現しました。その目的は、一仏乗の法華経である三大秘法の御本尊様を信じさせるためです。
 更に、濁悪世の末法時代には、迹化の菩薩ではなく、本化の菩薩でなければ弘通できないことを示すためです。釈尊在世の時代と異なり、人々の心が荒み、悪行をなす衆生が横行する時になります。実際に現代は、人々の心が濁り悪行が頻繁に発生しています。折伏行がスムーズにいかない点は、世の中がいかに荒廃しているかを物語っており、五濁悪世を証明するものです。 
 その「地涌の菩薩」は、弥勒菩薩が疑問を持たれたように、三十二相をそなえた多くの菩薩が、地面から出てきたのであります。いつ、このような崇高な菩薩を教化してきたのか、弥勒菩薩等は疑いを持ちました。疑いを持った背景には、釈尊を始成正覚の仏、つまりインドに生まれて始めて成仏したという先入観があるからです。  
 釈尊は「従地涌出品第十五」に、
「我今説実語。汝等一心信。我従久遠来。教化是等衆。(我今実語を説く 汝等一心に信ぜよ 我久遠より来 是等の衆を教化せり)」(法華経422)
と説かれ、始成正覚を間接的に打ち破り「久遠」を示し、これを「略開近顕遠」といいます。このことで「動執生疑」が、弥勒菩薩等に起こったのです。「是等の衆」というのが「地涌の菩薩」で、この菩薩について「従地涌出品第十五」に、
「是菩薩衆中。有四導師。一名上行。二名無辺行。三名浄行。四名安立行。是四菩薩。於其衆中。最為上首。唱導之師。(是の菩薩衆の中に、四導師有り。一を上行と名づけ、二を無辺行と名づけ、三を浄行と名づけ、四を安立行と名づく。是の四菩薩、其の衆の中に於て、最も為れ上首唱導の師なり)」(法華経410)
と説かれ、上行菩薩を上首とし、無辺行菩薩・浄行菩薩・安立行菩薩という四菩薩がおります。三大秘法の御本尊様を御図顕される上で、重要な意味を具る菩薩です。 
 『御義口伝』には、「涌出品一箇の大事」(御書1764)が説かれ「第一 唱導之師の事」について仰せです。
「御義口伝に云はく、涌出の一品は悉(ことごと)く本化の菩薩の事なり。本化の菩薩の所作は南無妙法蓮華経なり。此を唱と云ふなり。導とは日本国の一切衆生を霊山浄土へ引導する事なり。末法の導師とは本化に限ると云ふを師と云ふなり。此の四大菩薩の事を釈する時、疏(しょ)の九を受けて輔正記(ふしょうき)の九に云はく「経に四導師有りとは今四徳を表す。上行は我を表し、無辺行は常を表し、浄行は浄を表し、安立行は楽を表す。有る時には一人に此の四義を具す。二死の表(おもて)に出づるを上行と名づけ、断常(だんじょう)の際(きわ)を踰(こ)ゆるを無辺行と称し、五住の垢累(くるい)を超(こ)ゆるが故に浄行と名づけ、道樹にして徳円(まど)かなるが故に安立行と曰ふなり」と。今日蓮等の類(たぐい)南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は皆地涌の流類なり。」(御書1764)
と仰せであります。御題目を唱える私達も「地涌の菩薩」の一分になります。
 『法華経』の「従地涌出品第十五」に、
  「不染世間法。如蓮華在水。(世間の法に染まざること 蓮華の水に在るが如し)」(法華経425)
と説かれています。ここでは「不染世間法 如蓮華在水」という有名な経文があります。信心では、心肝に染めていく大事な経文になり、六根清浄の功徳を得ることが出来ます。