御難会は、文永八年九月十二日に起こった、宗祖日蓮大聖人の竜ノロ法難に対してご報恩申し上げるため、また、その意義を学ぶために行なわれる法要です。
大聖人の御一生は、「日蓮ほど・あまねく人にあだまれたるものは候はじ」(新編七三九)とおおせられるように、大難四ケ度、小難数知れず、といわれ、釈尊・竜樹・天台・伝教等の仏教の大弘通者も肩を並べることができない大法難の連続でした。では、なにゆえに大聖人はこのような数々の難をお受けになられたのかと申しますと、それは、法華経の色読・身読にありました。
つまり、大聖人が、三類の強敵によって起きた四ケ度の大難をつぶさにお受けになったのは、法華経勧持品二十行の偈等に説かれる悪口罵詈・刀杖の難・数々見擯出等の経文を証明し、開目抄に「当世・法華の三類の強敵なくば誰か仏説を信受せん、日蓮なくば誰をか法華経の行者として仏語をたすけん」(新編五四一)とおおせのごとく、末法の法華経の行者であることを顕わされるためであり、また、そのお振舞をもって、末法の一切衆生の御本仏であることをお示し下さったことにその意義があるのです。
では、なぜ九月十二日の竜ノロの法難に対して御難会法要を行なうのかと申しますと四ヶ度の大難中、とくにこの法難は重大な意義をもつからです。そもそも、この竜ノロ法難は、第一大聖人の邪宗折伏、第二に北条氏の大聖人に対する深い嫌悪、第三に幕府への直諌が原因ですが、ことにこの幕府への直諌が直接の原因となって起きました。そして、竜のロの刑場において、前代未聞の極刑に処せられようとした頸の座を契機として、大聖人のおん身の上に一大変化が起きたのです。
開目抄に「日蓮といゐし者は去年九月十二日子丑の時に頸はねられぬ、此れは魂魄・佐土の国にいたりて返年の二月・雪中にしるして有縁の弟子へおくればおそろしくて・おそろしからず・みん人いかにをじぬらむ」(新編五六三)とおおせられたように、大聖人は文永八年九月十二日夜半、鎌倉をお出になり、丑の刻に竜ノロにおいて頸をはねられようとしました。しかし、不思議な光り物が江の島の彼方から北西の方角に飛んで太刀取りの眼がくらみ、ついにお頸を切ることができませんでした。さらに、この子丑の時というのは仏法上深い意義があります。
子丑は陰の終り、寅は陽の始め。また子丑は転迷、寅は開悟であり、その中間、すなわち、丑寅の時刻は大切な時刻なのです。上野殿御返事に「三世の諸仏の成道はねうしのをわり・とらのきざみの成道なり」(新編一三六一)とおおせのごとく、諸仏が成仏得道される時であるからです。
つまり、文永八年九月十二日の子丑の刻は、大聖人の凡身の死で、終りであり、寅の刻は大聖人の御身そのままが久遠元初自受用身と顕された、すなわち、御本仏の生で始まりです。この時大聖人は、上行日蓮のお立場から末法の御本仏へと発迹顕本あそばされたのです。大聖人が、このような御難をお受けになったからこそ、末法の御本仏がましますのであり、現在私達は、その大聖人の御当体である御本尊を受持し、成仏の境涯と正法の功徳をいただくことができるのです。
そこで、年に一度、九月十二日を期して御難会法要を行ない、大聖人に対し仏恩報謝申し上げると同時に、未曾有の迫害を偲び奉り、我々もまた、どのような三類の強敵がこようとも不惜身命・身軽法重の精神で正法広布を誓うところに、この御難会法要の意義があるのです。
また、大聖人は、その法難・迫害をもって懺悔滅罪の行法とされています。我々は正法広布の為の難に遭い、これを経なければ我々のまことの滅罪は無いものと覚悟し、いかなる困難にも打ち克っていくべきです。如説修行抄に「其の上真実の法華経の如説修行の行者の師弟檀那とならんには三類の敵人決定せり、されば此の経を聴聞し始めん日より思い定むべし況滅度後の大難の三類甚しかるべしと」(新編六七〇)とあります。このご金言を胸に、大聖人に知恩報恩の誠をいたしてこそ、御難会法要の意義が存するといえましょう。