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日蓮正宗 正林寺 掲示板

法華講正林寺支部 正林編集部

三、池田先生を総講頭の職から罷免したのは「猊下の嫉妬」によるのではないか

2004-05-12 | 折伏教本

 あなたは「総講頭の罷免」といっていますが、「罷免」とは「役職を辞めさせること」であり、宗門は池田大作を罷免したのではありません。実際は、明確でなかった総講頭・大講頭などの任期に関する宗規の一部改正による一時的な資格喪失だったのです。このときの対象者は池田大作一人ではなく、ほかにも創価学会幹部十二名、法華講幹部二名が資格を喪失しています。

 もしこのとき、池田大作が宗門からの教導に随順し、正しい信仰を貫く心に戻っていたならば、再び総講頭に就任する道も開かれていたのです。
 にもかかわらず、このとき創価学会幹部は、全国の会員に向かって、「先生が総講頭を辞めさせられたのは猊下の嫉妬によるものだ」と大々的に宣伝しました。そして、聖教新聞の報道や各種会合において、「男の嫉妬は女以上」「坊主のやきもちは、まっ黒け」などの暴言を繰り返したのです。学会問題が起きて間もない時期、何が起きたのかよく分からなかった学会員には、この指導は強烈な印象を与えました。
 しかし、「猊下の嫉妬…」の指導は、創価学会問題の原因が池田大作の謗法にあることを隠すために、創価学会が無理やり作り上げたデマなのです。
 そもそも、御法主日顕上人猊下が、池田大作や創価学会に対して「やきもち」を焼く理由がどこにあるのでしょうか。
 もし、池田大作が外国から称号や勲章をもらっていることに対して、日顕上人が嫉妬したというならば、あなたは僧侶の意義をまったく理解していないというべきです。
 僧侶が得度するとき髪をそり落としますが、これは、俗世間の名誉や地位・財産などへの執着を捨て去って、仏の教えに生きることを意味します。釈尊は、一国の王位に就くべき身を捨てて出家し、悟りを求めて修行の道に入りました。
 日蓮大聖人は、佐渡から帰られて間もない文永十一年四月八日、鎌倉幕府の権力者・平左衛門尉頼綱から鎌倉の地に堂舎を寄贈する替わりに幕府の安泰を祈念してほしいとの申し出がありましたが、これを断り、身延の山奥に隠棲されました。
 日興上人以来、「釈尊五十年の説法」と「日蓮一期の弘法」を継承される日顕上人は、世俗の名誉や地位など、はるかに越えた「御法主」という御境界におられるのですから、称号や勲章にうつつを抜かす池田大作に対して嫉妬などするわけがないのです。
 また創価学会では、「池田先生のほうが人間的に立派なので、日顕(上人)が嫉妬して先生の失脚をもくろんだ」などとも吹聴しているようですが、これはまったくの誤解であり、浅はかな考えです。
 御法主日顕上人は、毎朝の丑寅勤行において、一切衆生の幸福と広宣流布を御祈念され、正法流布のために我が身を顧みず慈悲の御教導に専念されているのです。したがって、正法の信徒が社会的に高い評価を得、人間的に立派に成長することを、もっともお喜びになるのは御法主上人なのです。
 かりに、池田大作が清浄な信徒であり、社会的評価も高く、人間的にも立派な人物であったなら、それこそ御法主日顕上人は池田大作を信頼し、宗門発展と正法広布のために尽力するよう、さらに大きな使命と役割を与えられたに違いありません。誰が考えても、宗門発展に貢献する人はもちろん、いかなる人に対しても日顕上人や僧侶がやきもちで失脚をもくろむはずがないのです。


第六章 四、宗門は「法主本仏論・法主絶対論」を主張しているのではないか


四、宗門は「法主本仏論・法主絶対論」を主張しているのではないか

2004-05-12 | 折伏教本

 日蓮正宗には、初めから「法主本仏論・法主絶対論」などはありません。

これらはすべて、創価学会が宗門を誹謗するために捏造した理論です。
 創価学会は、
 「日顕(上人)は平成9年(1997年)8月、本山での坊主の集まりで『法主は生身の釈迦日蓮であるから、誹謗すると地獄に堕ちる』などと述べている」(大白蓮華 平成十四年八月号一〇九㌻)
といって、あたかも日顕上人が「法主本仏論・法主絶対論」を主張したかのように喧伝しています。
 しかし、創価学会が日顕上人の発言として取り上げている部分は、平成九年の教師講習会で、法詔寺日感師が信徒に宛てた書状を日顕上人が紹介し、読み上げられたものであり、日顕上人御自身の御発言として仰せられたものではないのです。
 日感師はその書状の中で、
 「大石寺事は金口の相承と申す事候て、是の相承を受くる人は学不学によらず、生身の釈迦日蓮と信ずる信の一途を以って、末代の衆生に仏種を植えしむる事にて御座候」(続家中抄 聖典七六五㌻)
と述べています。ここで日感師は、御法主上人の御内証には、御本仏日蓮大聖人の法脈がそのまま流れており、その御内証を「生身の釈迦日蓮と信ずる」ことが本宗信仰の肝要であると説いているのです。
 この日感師の言葉は、日蓮大聖人の『百六箇抄』の、
 「上首已下並びに末弟等異論無く尽未来際に至るまで、予が存日の如く、日興が嫡々付法の上人を以て総貫首と仰ぐべき者なり」(御書一七〇二㌻)
との御教示や、『御本尊七箇相承』の、
 「代代の聖人悉く日蓮なりと申す意なり」(聖典三七九㌻)
との御教示にもとづいたものにほかなりません。
 創価学会は、御法主上人の御内証に随順するという本宗の教義信仰を、ありもしない「法主本仏」「法主絶対」にこじつけているのです。
 また、御内証に「生身の釈迦日蓮」の尊い命が流れている御法主上人を誹謗する者が、無間地獄に堕ちることは当然です。このことを日感師は、
 「若し身の能徳を以って貫主と定めば学者を信じ非学者を謗して仏種を植えざるのみならず、謗法の咎出来して無間地獄に入り候わんこと云云」(聖典七六五㌻)
と述べているのです。
 この日感師の文言のどこが法義的に間違っているというのでしょうか。
 日顕上人は、常に日蓮正宗の僧俗に対して、御本仏は日蓮大聖人であり、その御当体にまします本門戒壇の大御本尊への信仰を深めるよう御指南あそばされています。
 そもそも、日蓮大聖人の仏法を、代々の御法主上人を経て継承されたお立場にあられる日顕上人が、血脈根源の師である日蓮大聖人を差し置いて、「自分は本仏である」とか「法主は絶対である」などといわれるはずがないではありませんか。
 しかも、このときの講習会において、日顕上人は、
 「私はけっして日顕が、日蓮大聖人様だなんて、一遍も言ったことはない」
と明言されているのです。
 むしろ、池田大作を「永遠の指導者」といって、教祖に祭り上げている創価学会こそ、「池田本仏」「池田絶対」を唱える邪教集団というべきなのです。


第六章 五、宗門では「法主は大御本尊と不二の尊体である」といっているが、これは謗法の論ではないか


五、宗門では「法主は大御本尊と不二の尊体である」といっているが、これは謗法の論ではないか

2004-05-12 | 折伏教本

 あなたの質問は、平成三年七月に宗門が創価学会に対して教導した『能化文書』の一部分を曲解したところから出てきたものと思います。

 その文書には、
 「本宗の根本は、戒壇の大御本尊と唯授一人血脈付法の御法主上人であります。具体的には、御法主上人の御指南に随従し、御本尊受持の信行に励むことが肝要です。なぜならば、唯授一人の血脈の当処は、戒壇の大御本尊と不二の尊体にましますからであります。したがって、この根本の二つに対する信心は、絶対でなければなりません」(大日蓮 平成三年九月号八七㌻)
とあります。
 創価学会は、この文書にある「血脈の当処」と「御法主上人」とを宗門がただちに、まったく同じものと主張しているかのように言い掛かりをつけています。しかし、この創価学会の言い掛かりは、内証と外用を、悪質な作意をもって混同させたことによるものです。
 「唯授一人の血脈の当処」とは、宗祖日蓮大聖人から第二祖日興上人に唯授一人の血脈をもって相伝された仏法の一切がましますところであり、それは代々の御法主上人にそのまま伝えられています。この「血脈の当処」こそ、歴代法主上人が御本尊を御書写される御境界であり、御法主上人の御内証と拝すべきなのです。
 かつて第六十六世日達上人は、
 「大聖人様が広宣流布の時の大導師日目上人様として、第三代を継いで現われたのが猊座であります。(中略)そこが大聖人様のお席である。だから大聖人様は、あの席に常に生れ替っている」(達全二―三―三二〇㌻)
と御法主上人の御内証について御指南あそばされる一方で、
 「法主が大聖人様の代わりだと、即座にこういうことを言うと、外から非難されますから、よくその点に注意していただきたい」(達全二―五―四五一㌻)
と、法主上人の外用についての御教示をされています。
 御当代日顕上人も、
 「たしかに本宗信徒の立場からは、歴代法主の内証を大聖人様と拝することが、信仰上、大切でありますが、そこには三宝における内証と外用等の甚深の立て分け、筋道があるのです。(中略)しかし、それと学会が論難する『法主即大聖人』や『法主本仏』などとは、筋道も意義も異なるのであり、そのようなことは全く宗門には存在しておりません」仏法破壊の邪難を粉砕す二四五㌻)
と、三宝における内証と外用の立て分けについて御指南されています。
 これらのことからも、あなたの質問は、創価学会の曲解と捏造に影響されたものというべきです。


第六章 六、宗門では「法主に誤りはない」というが、法主にも間違いがあるのではないか


六、宗門では「法主に誤りはない」というが、法主にも間違いがあるのではないか

2004-05-12 | 折伏教本

 創価学会では、日興上人の『遺誡置文』の、

 「時の貫首たりと雖も仏法に相違して己義を構へば之を用ふべからざる事」(御書一八八五㌻)
の御文を挙げて、「貫首(法主)も仏法に違背して己義を構えることがあると、日興上人が予見していた」と主張しています。
 しかし、日蓮大聖人の仏法の一切を継承された御法主上人が、日蓮大聖人の教えに違背する過ちなど、犯すはずがないのです。
 日達上人はこの『遺誡置文』の御文について、
 「血脈を受けてその法門に従って、そして法門の正邪を決めるのは貫首ではないですか。だから、貫首が己義を構えると考える人はとんでもない考えの人です。それでは血脈相承を受けてない人ということになってしまいます。血脈相承によってご法門を解釈していくのでありますから、少しも己義を構えるということはないわけであります」(達全二―七―三四二㌻)
と仰せられています。この日達上人の御指南を拝しても、創価学会の解釈が誤っていることは明らかです。
 また、創価学会では、第十七世日精上人に対して、「造仏論を主張した法主」「教義的に間違いを犯した法主」などと誹謗していますが、日精上人に謗法があったということはまったくありません。
 日精上人への誹謗に対する破折は〈本章二十五項目〉を参照してください。
 なお、日興上人の『遺誡置文』には、
 「衆義たりと雖も、仏法に相違有らば貫首之を摧くべき事」(御書一八八五㌻)
とあり、いかに多くの人々が決めたことであっても、貫首(法主上人)が血脈相伝のうえから誤りであると判断した場合には、それを摧くべきことを御教示されています。
 現在、「法主にも誤りはある」などといって、日顕上人を誹謗し、数をたのんで血脈相伝の仏法を破壊しようとする創価学会の謀議こそ、摧かれるべき衆義なのです。


第六章 七、宗門では「御書部分論」を主張しているが、大聖人の仏法はすべて御書に明かされているのではないか


七、宗門では「御書部分論」を主張しているが、大聖人の 仏法はすべて御書に明かされているのではないか

2004-05-12 | 折伏教本

 創価学会は「(宗門が)御書は大聖人の仏法の一部分を明らかにしたものにすぎず、全部を受け継いでいるのは法主だけである」といって、あたかも宗門が御書部分論なるものを主張しているかのように言い掛かりをつけています。

 しかし、宗門が「御書部分論」なるものを主張したことは、まったくありません。「御書部分論」という名称は、創価学会が勝手に作り出したものです。
 日蓮正宗において、御本仏大聖人の御書が宗義の根幹をなす最重要書であることはいうまでもありません。
 第二祖日興上人は、後代の弟子に対して、
 「当門流に於ては御抄を心肝に染め極理を師伝し云云」(日興遺誡置文 御書一八八四㌻)
と仰せられ、日蓮大聖人が著わされた御書を心肝に染め、法義の極理を師弟相対によって会得すべきことを教誡されています。
 すなわち、御書の深義を正しく拝していくためには、極理の師伝である唯授一人の血脈相伝にもとづかなければならないのです。
 日蓮大聖人は唯授一人の血脈相伝について、『御義口伝』に、
 「秘すべし秘すべし唯授一人の相承なり。口外すべからず」(御書一七九六㌻)
と御教示されています。
 また第二十六世日寛上人は、『寿量品談義』に、
 「今二十四代伝て大石の精舎にあり金口の御相承切紙相承其の外種々の御相伝有るげにありと云云」

(富要一〇―二五四㌻)

と仰せられ、日蓮大聖人の仏法の奥義は、唯授一人の血脈相承によって伝えられていると御指南されています。
 創価学会は、御書さえあれば日蓮大聖人の仏法はすべて理解できると主張していますが、他門の日蓮宗も大聖人の御書を拝読していながら、邪義異説を唱えています。これは相伝がないからです。したがって、創価学会が「御書さえあれば相伝などいらない」と主張することは、日蓮大聖人や御歴代上人の御教示に背く、浅識・慢謗法というほかはありません。
 創価学会が、宗門に対して「御書部分論を唱えている」といって誹謗するのは、唯授一人の血脈相伝に背く自分たちを、正当化するための詭弁にすぎないのです。


第六章 八、宗門では「信心の血脈は枝葉」「法体の血脈こそ根本」として、「信徒の成仏は法主によって決まる」と主張しているのではないか


八、宗門では「信心の血脈は枝葉」「法体の血脈こそ根本」として、「信 徒の成仏は法主によって決まる」と主張しているのではないか

2004-05-12 | 折伏教本

 宗門では、「信心の血脈は枝葉である」などと主張したことはありませんが、血脈に「法体の血脈」と「信心の血脈」の立て分けが存在するということは日蓮正宗における不変の教義です。

 創価学会でも以前、『生死一大事血脈抄』に説かれる血脈について、
 「もとより血脈には、唯授一人の別しての法体の血脈と、総じての信心の血脈とがあり、ここで仰せられているのは、総じての信心の血脈であることはいうまでもない」(学会版御書講義三〇上―三二㌻)
と解釈していました。
 にもかかわらず、現在の創価学会は、「唯授一人の法体の血脈」を否定して「信心の血脈」のみで良しとする血脈論を主張していますが、これは大聖人の御教示に背く大謗法の論です。
 「法体の血脈」とは、日蓮大聖人が末法万年の一切衆生を成仏に導くために、仏法の奥義すなわち本門戒壇の大御本尊を日興上人お一人に相伝された唯授一人の血脈をいいます。この唯授一人の血脈は、日興上人から日目上人、さらに日道上人へと伝えられ、現在、第六十七世日顕上人へと伝えられています。
 この唯授一人の血脈に随順し、本門戒壇の大御本尊を無二に信ずる人に流れかようのが「信心の血脈」です。したがって、唯授一人の血脈を離れて「信心の血脈」はありませんし、衆生個々の成仏は、この信心の血脈が流れることによって初めて叶うのです。
 また、宗門では「信徒の成仏は法主によって決まる」などと主張したことは一度もありません。
 日蓮正宗の教えは、唯授一人の血脈に随順し、本門戒壇の大御本尊を信じなければ成仏は叶わないというものです。
 したがって、創価学会の言い分は日蓮正宗の教義信仰を故意に歪曲し、いかにも日顕上人が、権威をもって信徒を抑圧しているかのように見せかけるための悪宣伝なのです。


第六章 九、第九世日有上人は「血脈も法水も我々の信心とまったく同じものである」と説いているのでははいか


九、第九世日有上人は「血脈も法水も我々の信心とまった く同じものである」と説いているのではないか

2004-05-12 | 折伏教本

 第九世日有上人は、『化儀抄』に、

 「信と云い血脈と云い法水と云う事は同じ事なり」(聖典九七七㌻)
と仰せられ、信心・血脈・法水は皆同じ意味である、と御指南されています。
 創価学会ではこの御文をもって、
 「血脈とは、秘密めいた儀式ではなく、信心のことであり、強盛な信心のみが大聖人の境涯を我が生命に流れ通わす唯一の方法なのである」(教宣ハンドブック)
と主張しています。しかしこの創価学会の論は、日蓮大聖人・日興上人の御教示に背くものです。
 御法主上人に相承される唯授一人の血脈を否定するならば、日蓮大聖人が門弟の中から、ただ一人日興上人を選定されて仏法の一切を相承されたことを示す『二箇相承書』を否定することになります。また、日興上人が日目上人お一人に法体の血脈を相承されたことは『日興跡条々事』に明記されており、この日興上人の御付嘱書をも否定することになるのです。
 しかし、日蓮大聖人の仏法には本来、「法体の血脈」と「信心の血脈」とがあり、唯授一人の法体血脈を根本とすることは前項に述べたとおりです。
 先に引いた『化儀抄』の中には、
 「手続の師匠の所は、三世の諸仏高祖已来代代上人のもぬけられたる故に、師匠の所を能く能く取り定めて信を取るべし」(聖典九七四㌻)
と仰せられ、本宗の師弟相対の信仰において、「高祖已来代代上人」、すなわち日蓮大聖人以来の唯授一人の血脈を継承される御法主上人を根本とすることを御教示されています。
 このことからも日有上人が「法体の血脈」と「信心の血脈」を明確に立て分けられていることが明らかです。
 なお、第五十九世日亨上人は、冒頭の『化儀抄』の御文について、
 「信心に依りて法水を伝通する所を血脈相承と云ふが故に、信心は永劫にも動揺すべきものにあらず、撹乱すべきものにあらず、もし信が動けば其法水は絶えて来ることなし」(富要一―一七六㌻)
と仰せられ、大御本尊にそなわる御本仏のお心や教え・功徳などの法水は、信心によって衆生に流れ伝わるものであり、そのことをさして血脈というと御教示されています。しかしこの御教示は、「法体の血脈」を根本としたうえでの「信心の血脈」の大切さを教えられたものであって、「法体の血脈」を否定するものではありません。
 これらのことから、創価学会が「法体の血脈」と「信心の血脈」を意図的に混同させて、大聖人以来の唯授一人の法体の血脈を否定することは、日蓮大聖人の教義に背く大謗法なのです。


第六章 十、法主は「本尊書写係りにすぎない」のではないか


十、法主は「本尊書写係りにすぎない」のではないか

2004-05-12 | 折伏教本

 創価学会では、さかんに「法主といっても本尊書写係りにすぎない」と会員に吹き込んでいます。

 一般に、実際の姿よりも故意に小さく見せかけることを「矮小化する」といいますが、「書写係り」「…にすぎない」などの創価学会の言いぐさは、宗祖大聖人の仏法の一切をご所持あそばされる御法主上人と、唯授一人血脈法水の尊厳を矮小化するための悪意に満ちた侮言です。
 このように、御法主上人と血脈法水に悪態をついている創価学会でも、御本尊書写の大権は御法主上人に限るとする、日蓮正宗本来の根本宗義だけは認めざるを得ないようです。
 あなたは、御本尊の「書写」という意味を知っているのですか。「書写」とは「書き写す」ことであり、日蓮正宗においては、本門戒壇の大御本尊を御法主上人が「書き写す」ことをいいますが、それは単に大御本尊のお文字を書き写すことではありません。
 第五十六世日應上人は『本門戒壇本尊縁由』に、
 「当宗に於て授与する処の御本尊は、一切衆生に下し置れたる此の御本尊の御内証を、代々の貫主職一器の水を一器に写すが如く直授相伝の旨を以て之を写し奉り授与せしむる事なれば…」(日應上人全集一―九)
と甚深の御指南をなされています。すなわち御本尊の御書写とは、本門戒壇の大御本尊の御内証を、時の御法主上人が唯授一人血脈相伝の旨をもってお写しあそばされることであり、大御本尊にすなわる御本仏の「たましい」と、一切衆生を利益される御本仏の功徳を、そのままお写し申し上げることなのです。
 したがって、第二代戸田会長も、
 「ただ、大御本尊だけは、われわれは作るわけにはゆかない。日蓮大聖人様のお悟り、唯授一人、代々の法主猊下以外にはどうしようもない」(大白蓮華 昭和三十四年七月号九㌻)
と述べているのです。
 まさしく御本尊の御書写は、御内証に御本仏の血脈法水を継承伝持あそばされる御法主上人でなければ、なし得ないことなのです。
 このことは、日蓮大聖人の仏法の根本法義は、御法主上人お一人に伝えられているということです。ですから御法主上人が、甚深の御境界から衆生を教導される御指南に離反して、日蓮大聖人の正義は絶対にないのです。
 創価学会では、会員に池田大作を「永遠の師」と崇めさせていますが、池田は唯授一人の血脈を承けているわけでもなく、本尊書写の資格もありません。まして御法主上人に反逆する大謗法者となっているのですから、衆生を成仏に導く「永遠の師」どころか、地獄に突き落とす魔の権化となっているのです。
 あなたが、幸福な人生を築き、成仏を遂げるためには、池田大作に随うべきなのか、それとも、御本仏の血脈法水を承継される御法主上人の御指南に随うべきなのかを、よくよく考えてみるべきです。


第六章 十一、宗門は日寛上人の御本尊を『ニセ本尊』といっているが、これは日寛上人を冒とくする謗法ではないか


十一、宗門は日寛上人の御本尊を『ニセ本尊』といっているが、これは日寛上人を冒とくする謗法ではないか

2004-05-12 | 折伏教本

 宗門では、創価学会が勝手に作製したものを『ニセ本尊』と指摘しているのであって、日寛上人が御書写された御本尊をただちにニセ本尊といっているのではありません。

 日蓮正宗の「本尊」は、本門戒壇の大御本尊であり、宗義の根幹をなす法体ですから、御本尊にかかわるすべての権能は、血脈を継承される御法主上人にましますことはいうまでもありません。したがって、御本尊の御書写は無論のこと、開眼も下附も、すべて御法主上人の許可なくしてはなされないのです。
 創価学会第二代戸田会長は、御本尊について、
 「ただ、大御本尊だけは、われわれは作るわけにはゆかない。日蓮大聖人様のお悟り、唯授一人、代々の法主猊下以外にはどうしようもない。だから、仏立宗や身延のヤツラが書いた本尊なんていうものはね、ぜんぜん力がない。ニセですから、力がぜんぜんない。むしろ、魔性が入っている。魔性の力が入っている。だからコワイ」(大日蓮華 昭和三十四年七月号九㌻)
と指導しています。
 しかるに現在の創価学会は、日寛上人の御本尊を勝手にコピーし、これを会員に販売しているのです。これは、姿や形は「日寛上人の御本尊」とそっくりであっても、血脈付法の御法主上人の御開眼も御許可もないものであり、まったく「日寛上人の御本尊」とはいえないしろものです。
 そのうえ創価学会は、日寛上人の御本尊に認められていた「大行阿闍梨本證坊日證」という「授与書き」を勝手に抹消し、変造しているのですから、学会が、日寛上人のお心に背き、そのお徳を汚す大謗法を犯していることは明白です。
 なお、これについては〈総論 第三章 四『ニセ本尊』を配布する創価学会〉を参照してください。


第六章 十二、宗門はなぜ創価学会の本尊下附を非難するのか


創価学会の偽造本尊義を破す


十二、宗門はなぜ創価学会の本尊下附を非難するのか

2004-05-12 | 折伏教本

 創価学会では、「自分たちが真の和合僧団だから、本尊を授与できる」と主張していますが、日蓮大聖人の仏法では、御本尊の書写・授与に関する権能は御法主上人のみが有するものです。

 これについて、『本因妙抄』には、
 「血脈並びに本尊の大事は日蓮嫡々座主伝法の書、塔中相承の稟承唯授一人の血脈なり」(御書一六八四㌻)
とあり、また第五十九世日亨上人は『化儀抄註解』に、
 「曼荼羅書写の大権は唯授一人金口相承の法主に在り」(富要一―一一二㌻)
 「曼荼羅書写本尊授与の事は宗門第一尊厳の化儀なり(中略)授与する人は金口相承の法主に限り」(同㌻)
と明らかに示されています。
 したがって、創価学会の「和合僧団だから授与できる」という主張は、日蓮大聖人の教えではありません。
 創価学会では、『ニセ本尊』の授与は、日蓮正宗改革同盟・青年僧侶改革同盟なるものの決議によったとうそぶいていますが、これらの構成員は、日蓮正宗と何ら関係のない離脱僧・邪教僧です。さらに「学会の総務会等の正当な決議を経て」などともいっていますが、これらは日蓮大聖人の教義に違背する「不当はな決議」であり、『ニセ本尊』を正当化するための猿芝居にすぎません。
 このような、謗法の団体である創価学会の幹部と、得体の知れない離脱僧との謀議による『ニセ本尊』の勝手な作製と授与は、「御本尊に関する権能は御法主上人のみにまします」という伝統宗義の根幹に背き、御本仏日蓮大聖人の法義に反逆する大謗法罪に当たります。
 ですから、宗門が創価学会の『ニセ本尊』作製・販売に対して、厳しくその謗法を戒めるのは当然のことであり、決して感情的に非難しているのではないのです。


第六章 十三、宗門では「御本尊には法主による開眼が必要だ」と主張しているが、これは根拠のないものではないか

 

創価学会の偽造本尊義を破す


十三、宗門では「御本尊には法主による開眼が必要だ」と主張しているが、これは根拠のないものではないか

2004-05-12 | 折伏教本

 宗祖日蓮大聖人や日興上人のお書きものの中に、「開眼供養」について御教示されたものが何編かあります。それらの御教示には、いずれも開眼の意義とその必要性が明かされています。

 しかし、御本尊の書写や開眼についての御教示は、相伝にかかわることですから、日蓮大聖人の御書や歴代上人の御記述においてもその数が少ないのは当然といえます。
 そのなかで、第三十一世日因上人の『御消息』には、
 「木絵の二像は本と草木にて有り、然るを生身の妙覚の仏と開眼したまふ事は大事至極の秘曲也。日蓮聖人乃至日因に至る迄、三十一代累も乱れず相伝是也」(妙喜寺文書)
とあり、第五十六世日應上人は、
 「金口血脈には、宗祖己心の秘妙を垂示し一切衆生成仏を所期する本尊の活眼たる極意の相伝あり」(研教二七―四七四㌻)
と御指南されています。これらの御教示からも、御法主上人による御本尊の開眼が本宗宗義の肝要の大事であることは明らかです。


第六章 十四、宗門には「僧が上、俗は下」という僧俗差別観があるのではないか


十四、宗門には「僧が上、俗は下」という僧俗差別観があるのではないか

2004-05-12 | 折伏教本

 この世に存在する一切のものに、現象面での差別と普遍的な面での平等という両面があることは、誰もが知っています。

 第九世日有上人は『化儀抄』において
 「貴賎道俗の差別なく信心の人は妙法蓮華経なる故に何れも同等なり、然れども竹に上下の節が有るがごとく、其の位をば乱せず僧俗の礼儀有るべきか」(聖典九七三㌻)
と仰せられ、僧侶と信徒はもちろんのこと、身分の高い人と低い人も、信仰のうえでは本質的に平等であるが、役割のうえでの地位の差は存在し、そこに礼儀が必要であると御教示されています。
 ところが創価学会は、宗門が創価学会に送付した文書の中から、
 「あたかも僧俗がまったく対等の立場にあるように言うのは、信徒としての節度・礼節をわきまえず、僧俗の秩序を失うものである」(お尋ね文書 平成二年十二月十三日付)
 「僧俗には大聖人の仏法に即した本来的な差別が存するのは当然であります」(宗務院よりの指摘 平成三年一月十二日付)
という、差別に関する部分のみを採り上げて、あたかも宗門僧侶が宗教的権威を振りかざし、信徒の上に君臨しているように印象づけています。
 しかし、これらの文書には、
 「御本尊を拝する姿においては、一応平等であります…」(お尋ね文書)
 「『化儀抄』でいう信心の意味するところは、妙法の御本尊に向かって本門の題目を唱えるところ、すなわち九界即仏界という本因妙成仏の義をいうのでありまして、そこには当然僧俗の差別はなく、平等であり…」(宗務院よりの指摘)
との文言があり、明らかに僧俗が信仰のうえで平等である旨が明記されています。
 創価学会は、これらの文書の〝僧俗は平等である〟とする部分を故意に覆い隠して、差別の面のみを誇張しているのです。この一事を見ても、いかに創価学会が偏った宣伝をして会員を惑わしているのかがわかります。日蓮正宗には、僧俗は平等にして差別、差別にして平等という一貫した精神が伝えられているのですから、創価学会がいうような「僧侶が宗教的権威を振りかざす」とか、「信徒の上に君臨する」などの宗門への非難は、創価学会の捏造以外の何ものでもありません。
 日蓮正宗の僧俗は、御法主上人の御指南のもと、広宣流布をめざし、僧俗一致・異体同心して自行化他の信行に精進しているのです。
 あなたの疑問は、創価学会の悪質きわまりない情報に紛動されたところからきているものであり、一日も早くその朦霧の迷いから覚めるべきです。


第六章 十五、宗門が聖教新聞などで非難されているのは、宗門が本当に悪いからではないか


十五、宗門が聖教新聞などで非難されているのは、宗門が本当に悪いからではないか

2004-05-12 | 折伏教本

 宗門は、創価学会が現在さかんに行っている僧侶や法華講員への低俗な個人攻撃や人身攻撃に対して、一々取り合うつもりはありません。
 なぜなら、あまりにも低俗で愚劣な創価学会の言い掛かりに対して、宗門がまともに相手にするならば、それこそ「狂人走れば不狂人も走る」(広辞苑岩波書店)のそしりを免れないからです。
 ただし、法義や宗史など信仰の根幹にかかわる宗門への誹謗や、創価学会の邪義・邪説の一々に対しては、宗門は道理を尽くして明快に破折を加えています。
 特に創価学会は、御法主日顕上人猊下に対して口をきわめて誹謗中傷を繰り返しています。これは、御法主上人猊下を貶め、血脈の尊厳に傷をつけて、会員に宗門への怨念を植えつけるための悪らつな謀略報道であり、捏造による誹謗以外の何ものでもありません。
 法華経の『勧持品』には、
 「濁劫悪世の中には多く諸の恐怖有らん 悪鬼其の身に入って 我を罵詈毀辱せん 我等仏を敬信して 当に忍辱の鎧を著るべし」(法華経三七七㌻)
とあり、末法において法華経を信仰する者は、悪心に満ちた妨害者によって、罵りや辱めを受けるが、正法を信ずる者はそれを堪え忍ぶべきであると説かれています。
 日蓮大聖人は『開目抄』に、この経文を引かれて、
 「今の世を見るに、日蓮より外の諸僧、たれの人か法華経につけて諸人に悪口罵詈せられ、刀杖等を加へらるゝ者ある。日蓮なくば此の一偈の未来記は妄語となりぬ」(御書五四一㌻)
と仰せられ、法華経の予言どおりに悪口・刀杖の大難を受けられたのは大聖人お一人であると御教示されています。
 すなわち、日蓮大聖人は、御自身に何の過失もないにもかかわらず、法華経を弘めたというだけの理由で、悪口罵詈の難や刀杖瓦礫の難を受けられ、そのうえ二度の流罪にも遭われたのです。
 現在、創価学会が宗門を連日、非難攻撃しているのは、創価学会の謗法を宗門が毅然として指摘し、厳しく破折を加えているからにほかなりません。
 「学会から非難されるのは宗門が悪いからだ」というあなたの言い分は、法華経に説かれる末法予証の経文に疎く、日蓮大聖人の御化導をまったく理解していないところに起因しているというべきです。


第六章 十六、宗門僧侶は、なぜ創価学会員との法論や対話を避けるのか


十六、宗門僧侶は、なぜ創価学会員との法論や対話を避けるのか

2004-05-12 | 折伏教本

 あなたの質問は、あたかも「日蓮正宗の僧侶は、創価学会員との法論に勝つ自信がないので、法論から逃げている」といわんばかりですが、それは事実誤認であり、考え違いです。

 日蓮正宗の僧侶が「法論から逃げている」ことなどは絶対にありません。
 それは、今までにも宗門の僧侶が創価学会幹部と法義に関する件について法論対決した例があることからも明らかです。しかもいずれの法論においても、宗門の僧侶が日蓮正宗の正義をもって堂々と創価学会の邪義を論破しています。
 もっとも、すでに邪教となり、都合によって主張を変える創価学会が、七百五十年間、一貫して日蓮大聖人の正法を守り伝えてきた日蓮正宗の大義に勝てるわけがないのです。
 しかるに現在の創価学会は、日蓮正宗を貶め、僧侶を攻撃することを目的として対話を要求し、それに応じた僧侶の話をひそかに録音して悪宣伝の材料にしています。このとき、話の内容に関係なく、創価学会員が突然大声で「創価学会が正しい」とか「宗門は負けた」などと叫び、その部分のみを会合で再生して、「法論に勝った」といって宣伝する例も多いのです。これも創価学会の卑劣な手口の一つです。
 また、創価学会員は僧侶と議論をしていても、返答に窮すると話をはぐらかしたり、初めから宗門や僧侶の悪口を一方的にまくし立てることがほとんどです。
 宗門の僧侶は、このような法義にかかわりのない、低級で、中傷するための「法論」や「話し合い」は、まともに応ずるほどのものではないとして、一々相手にはしていないのです。
 このことをもって、創価学会では「宗門の僧侶は法論を避けている」というのでしょうが、創価学会員が真摯に正法を求め、法義の正邪を確認したいというならば、宗門の僧侶は誠意をもって対話に応じています。
 あなたが、本当に僧侶の話を聞きたいというならば、徒党を組まずに一人で寺院を訪ねるべきです。


第六章 十七、宗門は長い間、創価学会をだましてきたのではないか


十七、宗門は長い間、創価学会をだましてきたのではないか

2004-05-12 | 折伏教本

 宗門は、創価学会の初代会長牧口常三郎氏、第二代会長戸田城聖氏の時代から、日蓮正宗の教義を広宣流布するために活動する創価学会に対して、あらゆる面で支援し協力してきました。

 また、宗門僧侶は創価学会員に対しても、日蓮大聖人の仏法を正しく信仰し、幸福な人生を歩むよう全力を尽くしてきました。
 そこには「創価学会をだます」とか「会員をたぶらかす」などという邪な考えは微塵もなかったのです。
 かつて第六十六世日達上人は、創価学会創立四十八周年記念代表幹部会の席上、
 「この三十年間、学会はまことに奇跡的な大発展をとげられた、そのために今日の我が宗門の繁栄が築かれたことは歴史的事実であり、その功績は仏教史に残るべきまことに輝かしいものであります。しかし、その陰に、宗門の僧侶の挙っての支援と協力があったことを忘れないでいただきたいのです」(大日蓮号外 昭和五十三年十二月号十四㌻)
と御指南されています。
 なお、この質問の事柄について詳しくは〈第二章六項目〉を参照してください。


第六章 十八、宗門は、学会を破門するために「C作戦」を画策していたのではないか