とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」 (番外)永井みゆき / 雨の木次線

2018-04-14 16:34:36 | 日記
永井みゆきというとまあ知る人ぞ知る演歌のベテラン歌手です。その高い澄んだ声質は定評があります。この唄はNHKの歌番組で一度聴いたことがあります。島根の木次線をPRするご当地ソングです。今年の三月で島根の三江線が廃線となりました。「木次線(きすきせん)は、島根県松江市の宍道駅から広島県庄原市の備後落合駅に至る西日本旅客鉄道(JR西日本)の鉄道路線(地方交通線)」です。(「Wikipedia」より)特に最近はトロッコ列車を走らせ人気が出てきました。数少ないスイッチ・バック方式も取り入れています。このローカル線も廃線にならないように地元民は祈っています。


永井みゆき / 雨の木次線


永井 みゆき(ながい みゆき、本名同じ、1975年9月22日 - )は大阪府岸和田市出身の演歌歌手。テイチクミュージック所属。レーベルはテイチクエンタテインメント。

略歴

堀越高等学校卒業、法政大学中退。 1989年に第6回「関西演歌大賞」でグランプリを獲得し、1990年に上京して作詞家・たかたかしの内弟子となる。1992年2月21日、16歳でソニーレコードよりシングル「大阪すずめ」でデビュー。恩師のたかが考えた「日本の少女がここにいます」をキャッチフレーズに、その愛らしい容姿とさわやかな歌声で評判となる。同年の第34回日本レコード大賞最優秀新人賞(演歌・歌謡曲部門)を受賞。その後は女子大生演歌歌手となり、演ドルとしても活躍。

テレビ東京「愛ラブSMAP!」にも起用されSMAPとコントにも参加していたことがある。2000年10月からは「いすゞ歌うヘッドライト~コックピットのあなたへ~」土曜日のパーソナリティに起用され、トークにも磨きをかけるが翌年に番組終了。

重圧の中27年続いた番組の最終回の大役を見事に務める。2001年テイチクに移籍し、同い年でうさぎ年生まれの上杉香緒里、山口ひろみと共に「レインボーうさぎ組」も結成。2010年の新曲発表イベントでは世界一に向かって伸び続ける建設中の東京スカイツリーと成長期を過ぎても身長が伸び続けている自身をかけて新たに「演歌界のスカイツリー」というキャッチフレーズも生み出した。 2013年からはデビュー同期で高校の先輩でもあるみずき舞との美女ユニットみゆき&舞でも活動している。(「Wikipedia」より)





あちこち「SYOWA」 (番外)島根恋旅 (水森かおり) (編集.E.U)

2018-04-14 01:03:32 | 日記
私の故郷のご当地ソングです。島根の雰囲気がよく出ていると思います。

島根恋旅 (水森かおり) (編集.E.U)


水森 かおり(みずもり かおり、1973年8月31日 - )は演歌歌手。所属事務所は長良プロダクション。所属のレコード会社は徳間ジャパンコミュニケーションズ。東京都北区出身。


来歴・人物

本名は大出 弓紀子(おおで ゆきこ)。血液型はB型。未婚。ニックネームは「みもりん」。持ち歌には様々な土地を舞台にした作品が多く「ご当地ソングの女王」の異名をとる。中学時代には『千葉テレビカラオケ大賞』(現・『チバテレビカラオケ大賞21』、千葉テレビ放送)に出場し、その年のグランドチャンピオン大会では3位を獲得した経緯を持つ。 北区立滝野川第五小学校、北区立堀船中学校、城西大学女子短期大学部(現城西短期大学)卒業。短大在学中は秘書についての勉強をし、アメリカへの留学経験もある。東日本旅客鉄道五能線沿線の名誉駅長を務める。

ニュー・キッズ・オン・ザ・ブロックのジョー・マッキンタイアに憧れ、アメリカ留学中に勝手に失恋した後、ホストファミリーのファミリーパーティで歌を披露した際にファミリーが喜んでくれたことから歌手になりたいと決意し、帰国後オーディションを受けた。
1995年(平成7年)に「おしろい花」でデビュー。2002年(平成14年)に「東尋坊」がカラオケファンの支持を受けてメジャー歌手への足掛かりをつかむ。2003年(平成15年)「鳥取砂丘」が大ヒットしてブレークし『NHK紅白歌合戦』には13年連続出場中。また2005年(平成17年)には第47回日本レコード大賞最優秀歌唱賞を受賞。2006年(平成18年)には「熊野古道」、2007年(平成19年)には「ひとり薩摩路」でベストヒット歌謡祭演歌・歌謡曲部門グランプリを2年連続で受賞した。2008年(平成20年)2月8日には東京都北区のイメージアップを図ることを目的とした「北区アンバサダー」を委嘱された。

また、「松島紀行」のヒットをうけて、2010年(平成22年)6月22日に「松島町観光親善大使」に、2016年には「越後水原」の舞台の新潟県の「にいがた観光特使」に任命される。

鳥取砂丘」のロング・ヒット以降の水森は「ご当地ソングの女王」と呼ばれ、彼女の元には地方自治体などから「地元に因んだ曲を歌って欲しい」という依頼が毎年殺到している。ファンを失望させないためにも、営業で初めて訪れる地方については、事前にかなり勉強をするという。(「Wikipedia」より)


あちこち「SYOWA」 323 そよ風道中(琴姫七変化) 松山 容子/ 唄 花村菊江

2018-04-12 00:48:27 | 日記
松山 容子というと大塚のボンカレーを思い出します。しかし素晴らしい女優さんです。ちょっとした男前の美貌が心を騒がせました。今改めて視てもきりっとしていていい感じです。現代劇にも出演してまた違った味を出していました。


そよ風道中(琴姫七変化) 花村菊江



琴姫七変化(ことひめひちへんげ ※読みについては後述)は日本のテレビドラマ(時代劇)。読売テレビの制作により、日本テレビ放送網系列で、1960年12月31日から1962年12月29日にかけて全105話が放送された。大塚製薬の一社提供。放送時間は毎週土曜19:00 - 19:30(JST)。
主演は松山容子で、制作は日本電波映画。松山の容姿と次々変わる扮装、華麗な太刀さばきが評判となり、番組は2年にわたり継続され人気作品となった。


松山 容子(まつやま ようこ、1937年11月30日 - )は、日本における昭和期に活躍した女優。本名・田中 曠子(旧姓・出井)。旧芸名は松山清子。愛媛県松山市出身。
1968年の「ボンカレー」(大塚食品)発売以来、長らくパッケージモデルを務め、CM、ホーロー看板でも知られる。


出演作品

テレビドラマ

変幻三日月丸(1959年-1960年、フジテレビ)
天馬天平 (1960年-1961年、フジテレビ) -千也姫
風の武士(1960年-1961年、関西テレビ)
琴姫七変化(1960年-1962年、讀賣テレビ) - 琴姫
月姫峠(1963年、日本テレビ)
霧姫さま(1963年-1964年、日本テレビ) - 霧姫
噂の錦四郎 (1963年-1965年、讀賣テレビ) -百合姫
里見八犬伝(1964年-1965年、フジテレビ) - 伏姫
柔(1964年-1965年、日本テレビ) - 羽衣
続・柔(1965年-1966年、日本テレビ) - 矢野須賀子
明治天皇(1966年、日本テレビ) - 中山慶子
うどん(1967年、関西テレビ) - きぬ
俺は用心棒 第1シリーズ 第18話「月明柳の馬場」(1967年、NETテレビ) - もん
銭形平次 第65話「秩父の姉妹」(1967年、フジテレビ)
海の次郎丸(1968年、TBS) -雪姫
西陣物語(1968年、関西テレビ) - 橘ゆき/芸者・君竜
大奥 第12話「元祿 雪の十四日」(1968年、関西テレビ) - 琴
帰って来た用心棒 第2話「赫い月の夜」(1968年、NETテレビ)
旅がらすくれないお仙(1968年-1969年、NETテレビ) - お仙
母恋横丁(1969年、フジテレビ)
あゝ忠臣蔵(1969年、関西テレビ) - 不破数右衛門の妻・きぬ
ごちそうさん(1969年、関西テレビ) - 桂子
女のうず潮(1970年、ABC) - 郁代
女系家族(1970年、フジテレビ) - 矢島藤代
めくらのお市[3](1971年、日本テレビ) - お市
二人の素浪人 第12話(1972年、フジテレビ) - 不知火のお紋
幻之介世直し帖 第3話「はやぶさ尼寺に舞う」(1981年、日本テレビ)
大江戸捜査網 第543話「お市乱れ花 三味線殺法」(1982年、12ch / 三船プロ) - お市
暴れん坊将軍II 第23話「美女三千! 呪われた大奥」(1983年、テレビ朝日) - お美代
遠山の金さん(1983年-1985年、テレビ朝日) - おもん
遠山の金さんII(1986年、テレビ朝日) - おもん

映画

勢揃い桃色御殿(1957年、松竹) - 女芸人・お八重
侍ニッポン(1957年、松竹) - 菊乃
二等兵物語 死んだら神様の巻(1958年、松竹) - 露子
夜の波紋(1958年、松竹) - 墨江
女ざむらい只今参上(1958年、松竹) - 駒奴
昨日は昨日今日は今日(1958年、松竹) - 女給・花子
紅蝙蝠(1958年、松竹) - 初音
七人若衆大いに売り出す(1958年、松竹) - 腰元・雪路
朝やけ雲の決闘(1959年、松竹) - 久美
伝七捕物帖 幽霊飛脚(1959年、松竹) - お市
伴淳の駐在日記(1960年、松竹) - 百合子
新・二等兵物語 敵中横断の巻(1960年、松竹) - 雪子
黒潮秘聞 地獄の百万両(1960年、松竹) - お民
番頭はんと丁稚どん(1960年、松竹) - 美代子
柔旋風 明治の風雪(1965年、松竹) - 矢野須賀子
続・柔旋風 四天王誕生(1965年、松竹) - 矢野須賀子
柔旋風 怒涛の対決(1965年、松竹) - 矢野須賀子
天下の快男児(1966年、松竹) - 小野良子
めくらのお市物語 真っ赤な流れ鳥(1969年、松竹・京都映画) - お市
めくらのお市 地獄肌(1969年、松竹・京都映画) - お市
めくらのお市 みだれ笠(1969年、松竹大船) - お市
めくらのお市 命貰います(1970年、松竹大船) - お市 (「Wikipedia」より)



あちこち「SYOWA」 322 そよ風の誘惑 [日本語訳付き] オリビア・ニュートンジョン

2018-04-09 16:35:10 | 日記
1970年代から1980年代の歌手、女優として特に印象に残っています。



そよ風の誘惑 [日本語訳付き] オリビア・ニュートンジョン



オリビア・ニュートン=ジョンAO, OBE(Olivia Newton-John, 1948年9月26日 - )は、イギリス生まれ、オーストラリア育ちの歌手、実業家。1970年代から1980年代半ばにかけて数多くのヒット曲を放ち、世界的な人気を博した。現在もレコーディング、コンサート、自社ブランドのオーナーなど、多方面で活躍する。本来はオリヴィア・ニュートン=ジョンだが、日本では通常オリビア・ニュートン・ジョンと表記している。公称身長167.5 cm(5フィート6インチ)。


概要

イングランド・ケンブリッジ生まれ。母方の祖父はアインシュタインとも親しかったドイツ出身のユダヤ系でノーベル賞受賞物理学者マックス・ボルン (Max Born)、ウェールズ人の父親はケンブリッジ大学のドイツ語教授であった。母方の曾祖母の父は法学者のルドルフ・フォン・イェーリングである。

5歳の時に父がオーストラリアの大学に移り、家族とともに移住。14歳の頃から学友とバンドを組んで、バーなどで歌い始めた。1965年、出演したオーディション番組で優勝。その懸賞で英国に戻り、1966年にデビューした。

クリフ・リチャードのバック・コーラスなど下積みの時期がしばらく続いたが、1970年にヴァル・ゲスト監督による『オリビア・ニュートン・ジョンのトゥモロー』Toomorrow で映画主演し、歌も披露。1971年にボブ・ディランがジョージ・ハリスンに提供した曲のカバー『イフ・ノット・フォー・ユー』If Not For You がヒットしたのをきっかけにスターの階段をのぼり、可愛らしいルックスとカントリー系の素朴な路線で着実に人気を集めた。1973年頃よりMOR、コンテンポラリー色を強め、1974年のシングル『愛の告白』I Honestly Love You が全米1位を獲得、グラミー賞の最優秀レコード賞と最優秀女性歌唱賞に輝いた。1975年にアメリカに移住した後も『そよ風の誘惑』 Have You Never Been Mellow などのヒットを連発する。

女優としては1978年のミュージカル映画『グリース』でジョン・トラボルタと共演。興行成績は大成功を収め、サントラからも『愛のデュエット』、アカデミー賞歌曲賞候補となった『愛すれど悲し』、『想い出のサマー・ナイツ』が連続ヒットし、押しも押されもせぬ世界的なスターとなる。1980年の映画『ザナドゥ』に主演。興行成績は不発に終わるも、サントラ曲『マジック』、ELOとの『ザナドゥ』、クリフ・リチャードとのデュエット『恋の予感』(日本ではシングルにならず『春風の誘惑』Suspended in Time がシングル・カット)がヒット。トラボルタと再度共演した『セカンド・チャンス』のサントラ曲『運命のいたずら』、『ディスペレイト・タイムス』といったヒットを挟み、アンディ・ギブと『愛は微笑みの中に』など、AOR系のデュエット曲を発表。

1981年にはロック色を強め、アップテンポなディスコ調の『フィジカル』をリリース。全米でビルボード10週連続1位、キャッシュボックス8週連続1位、1982年度の年間チャート1位という爆発的ヒットを記録(エアプレイ中心のラジオ&レコーズでは『フィジカル』は1位にならず、ビルボード、キャッシュボックスで『フィジカル』に抑えられ2位どまりだったフォリナーの『ガール・ライク・ユー』が逆に1位を独走していた)。最終的にこの曲はビルボードにおいて、80年代の全米チャートで最もヒットした曲となった。当時のフィットネスブームを意識し、ミュージックビデオではレオタード姿でエアロビクスを踊るという強烈なイメージ戦略があたり、オリビアのセールスはこの頃にピークを迎えた。しかし、その意味深な歌詞のせいもあって、保守色の強い州南部などの一部の放送局では、この曲の放送を自粛する動きも見られた。

1985年のシングル『ソウル・キッス』がミディアム・ヒットに終わってセールスが一段落すると、ポーランド人のダンサーであるマット・ランタッジとの結婚生活に入り、音楽界と若干の距離を置く。その後、出産、乳癌手術などを経て、環境保護活動やがん啓蒙活動といった社会運動に取り組みはじめ、ユニセフ親善大使もつとめた。

1994年の音楽界復帰後は定期的なライブツアーを行なうほか、2000年のシドニーオリンピック開会式で「Dare To Dream」を披露した。
2012年、約35年ぶりに、ジョン・トラボルタと共演したデュエットアルバム『The Christmas』をリリース。自身が鬱病との闘病生活を送っている事を告白。(「Wikipedia」より)