とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」 317 開局45周年記念 命のドラマSP“白旗の少女” 2009 09 30

2018-04-02 16:48:39 | 日記
白旗の少女。私はこの事実を小説で知りました。これは後々まで伝えていかねばならない。そう思いました。映画化されていることはYouTubeで初めて知りました。比嘉富子さんはそのカメラマンと再会したとか。生きなさいと言った老夫婦も素晴らしい人だと思いました。こういう史実はもう二度と繰り返してはいけないと思い続けています。


開局45周年記念 命のドラマSP“白旗の少女” 2009 09 30


『白旗の少女』(しらはたのしょうじょ)は、1945年6月に太平洋戦争末期の沖縄戦において、アメリカ軍によって撮影された写真およびその被写体となった女性、さらにその女性(比嘉富子)が自身の体験を元に執筆した小説である。
小説は、1990年にはフジテレビで、2009年にはテレビ東京で、それぞれテレビドラマ化されている。
本記事では写真の撮影とそれが一般に知られるようになり、比嘉が小説を執筆するに至った経緯についても説明する。

経緯

写真の撮影と一般への周知

該当の写真は、沖縄戦が終盤となっていた1945年6月25日に、アメリカ軍のジョン・ヘンドリクソンが撮影したものである。おかっぱ頭の少女が木の棒の先に白旗をつけて手を振る様子が捉えられている。
この写真は、沖縄戦の研究に当たっていた大田昌秀(後に沖縄県知事)が調査研究の過程で発見収集し、1977年に刊行した『写真記録 これが沖縄戦だ』(琉球新報社)に掲載された。

1984年、アメリカ軍による沖縄戦の記録映画を募金によって買い取る「子どもたちにフィルムを通して沖縄戦を伝える会」の「1フィート運動」でもたらされたフィルムに、この写真と同じ場面を撮影したものが含まれていることが判明し、テレビニュースなどで紹介される。1986年からは運動で集められた他のフィルムとともに編集された『沖縄戦 未来への証言』が公開された。この映画では、少女の後を数人の日本兵がついて歩く様子が映っており、「少女を盾にして投降したのではないか」「兵士が少女に白旗を持って歩くことを強要したのではないか」といった反応も示された。また、写真とフィルムを元にして創作された絵本『りゅう子の白い旗 沖縄いくさものがたり』(文・新川明、絵・儀間比呂志)が1985年に刊行されている。

比嘉による名乗り出と小説執筆

1987年10月、比嘉富子が自分が白旗の少女であると名乗り出た。当時比嘉は48歳で、沖縄タイムスのインタビューに応じる形であった。1988年6月にはニューヨークでの「平和大行進」に参加、その際に自分を撮影したカメラマンに会いたいというプラカードを掲げた。7月に比嘉はヘンドリクソンと再会を果たしている。

翌1989年、講談社から、子供用のシリーズ「講談社のノンフィクション」の1冊として『白旗の少女』を刊行する。比嘉は本の「あとがき」の中で、映画の公開以来日本兵が自分を盾にしたかのような誤解を受けてきたことを残念に思っていること、日本兵は直前にたまたま別の道から合流したために後に続く形になっただけであることを記している。


小説『白旗の少女』


挿絵は依光隆が担当、その他に写真も多く収録されている。

冒頭は、主人公がニューヨークで平和行進に参加するところから始まる。そこで彼女は写真家を捜し始めた。その後写真家と面会するところから回想に入る。

彼女は首里で生まれ、平和に暮らしていた。そこでは沖縄の伝統を強く残した生活のことが語られている。その中で1944年(昭和19年)、母が亡くなる。1945年(昭和20年)にはいよいよ沖縄に戦線が近づく。その4月1日、沖縄本島中部にアメリカ軍が艦砲射撃を加え、それと思われる音は首里にまで響いた。それから1か月すると、家の周辺にも砲弾がくるようになり、防空壕へ避難することが多くなった。5月10日ころ、父親が「何かあったら子供たちで判断して行動するように」と言い残して家を出て、これが父との別離になった。
それから3日待って、通信隊へ父の安否を尋ねると、「それより早く南へ避難するよう」と言われ、兄弟姉妹4名(姉17歳、姉13歳、兄9歳、本人6歳11か月)は荷物をまとめて家を出た。昼間は洞穴などに身を隠し、夜間に歩いた。まずは父の消息を尋ねて真壁に行くがやはり不明で、それ以降は当てもなくとにかく南へ移動する。そのさなか、米須で一緒にいた兄が流れ弾に当たって死亡、さらに南へ移動するさなか、主人公は姉たちとはぐれてしまう。それから彼女は1人で避難行を続けることになる。

そうして彼女は多くの戦死者、自殺する兵隊や集団自決する住民などを目にしながらさまよい、あるガマでは日本兵に殺されかける。一人きりでの移動が1か月ほどになったとき、とあるガマに入ったところ、そこには老夫婦がこもっていた。その老人は両手両足がなく、目の不自由な老婆に身の回りの世話をさせ、その洞窟で暮らしていた。彼らは少女を優しく受け入れ、少女はここで初めてその身を休めることが出来た。

その外では、戦闘が刻一刻と激しくなっていた。彼女は老夫婦にここで一緒に暮らして、一緒に死にたいと言ったが、それに対して、命の大切さや生き延びることの価値を説かれる。数日後、洞窟の外からアメリカ軍の呼びかけが聞こえた。これから爆弾を投げ込むから、その前に投降することを呼びかけるものだった。老人は老婆へ指示し、自分のふんどしで白旗を作らせ、その旗を彼女に持たせた。そして「世界中の約束だから、これを持ってれば大丈夫だ」と言い聞かせ、自分たちを残して1人で投降するよう促した。

彼女はほかの住民に混じって進んだ。1人の米兵が何かを構え、こっちをねらうようにしているのを見て、カメラのようだが、武器かも知れないと思いながら、かつての父に言われた言葉を思い出し、顔を上げ、笑顔を見せた。彼女はほかの避難者と一緒になり、そこで2人の姉に再会した。1945年6月25日のことだった。(「Wikipedia」より)