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とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」 325 「悲しみは星影と共に Andremo in Citta」サウンドトラック Soundtrack

2018-04-17 15:53:00 | 日記
このブログ、とうとう1000回を超えました。ははっ、「・・・はるばる来ぬる旅をしぞ思ふ」という心境です。
悲しみは星影と共に。若かりし頃の名作として今も忘れることのできない映画です。子役がとても素晴らしく、台詞も一部覚えています。事実の映画化ということを考えて、こういう時代に現代を遡らせてはいけないと改めて思いました。

「悲しみは星影と共に Andremo in Citta」サウンドトラック Soundtrack


悲しみは星影と共に

1966年11月26日公開

作品情報

エディス・ブリュックの自伝的小説「街へ行く」を、彼と、ネロ・リージ、チェザーレ・ザヴァッティーニ、イェジー・ステファン・スタウィニュスキーが共同脚色、ドキュメンタリー出身の新人ネロ・リージが監督した戦時下の悲劇。撮影は「奇跡の丘」のトニーノ・デリ・コリ、音楽は新人イヴァン・バンドールが担当した。出演は「ドクトル・ジバゴ」のジェラルディン・チャップリン、「シェルブールの雨傘」のニーノ・カステルヌオーボ、「国境は燃えている」のA・ガブリックそれに子役のフェデリコなど。

あらすじ

ユーゴの片田舎に若い娘レンカ(G・チャップリン)と盲目の弟ミーシャ(フュデリーコ)が住んでいた。レンカは眼に見える世界がどんなにすばらしいか、くりかえしミーシャに話し、いつか手術をするから、というのだった。その頃ユーゴでもドイツ軍のユダヤ人圧迫が始まっていた。二人はユダヤ人で「彼らの父ラクト人はユダヤ人で、彼らの父ラクトは収容所に送られていた。

レンカの恋人イヴァンは森にこもって最後の抵抗を続けるパルチザンだったがドイツ軍が彼らの部隊に報復手段に出たとき、二人はミーシャをつれて、まだ平和だった頃よく遊びに来た保育園に逃げた。数日後ラクトが収容所から脱走してきた。レンカは父を屋根裏部屋にかくした。ラクトの依頼で偽の証明書作りに出かけたイヴァンはドイツ軍に発見され、負傷して帰ってきた。

追ってきたドイツ軍の目をイヴァンからそらせるため、とびだしたラクトは銃弾に倒れたが、イヴァンの手当にやってきた医師は、ラクトの死を二人の子供に話すことができず、イヴァンにだけ話した。イヴァンがラクトの死をかくしていたように、レンカもまたイヴァンにかくしていることがあった。姉弟は収容所に送られることになっていたのだ。

若いレンカにとって、青春の唯一の甘美な思い出は、保育園でのイヴァンとの淡い恋の数日だけだった。収容所に送られる日レンカはミーシャに目の手術のため病院に行くのだと話した。「もうすぐ、何んでもみえるようになるのよ……」ミーシャの肩を抱きしめ、貨車の中でしゃべり続けるレンカの頬を、涙がとめどなく流れるのだった。(「Мovie Walker」より引用 多謝)



あちこち「SYOWA」 324 永訣の朝。2012,0501Hoshina_maki.wmv

2018-04-17 00:28:23 | 日記
この詩は「TAISYO」時代なのだが、敢えてここに引用しました。私の好きな詩です。この詩の「(Ora Orade Shitori egumo)」の部分がタイトルとなった小説が登場したので、それではと思い立った訳であります。「・・・えぐも」の部分が小説では「・・・いぐも」となっていて、そこの部分が気になっています。原作は「・・・逝ぐも」ですが、作者は「・・・生ぐも」と置き換えたのでしょうか。作品を読まないうちに失礼なことを書いてしまったのでしょうか。


永訣の朝。2012,0501Hoshina_maki.wmv


宮沢 賢治(みやざわ けんじ、正字: 宮澤 賢治、1896年8月27日 - 1933年9月21日)は、日本の詩人、童話作家。
仏教(法華経)信仰と農民生活に根ざした創作を行い、創作作品中に登場する架空の理想郷に、岩手をモチーフとしてイーハトーブ(Ihatov、イーハトヴあるいはイーハトーヴォ (Ihatovo) 等とも)と名付けたことで知られる。生前彼の作品はほとんど一般には知られず無名に近かったが、没後草野心平らの尽力により作品群が広く知られ、世評が急速に高まり国民的作家となっていった。そうした経緯もあって日本には広く愛好者がおり、出身地である岩手県花巻市は彼の故郷として有名である。

妹・トシ

1898年11月5日生 - 1922年11月27日没

子供のころから成績優秀で、岩手県立花巻高等女学校でも4年間首席、卒業式では総代として答辞を務める。卒業後東京の日本女子大学校家政学部予科に入学する。女学校卒業前に音楽教師との恋の噂の記事が地元の新聞に掲載されたことに傷つき、実家を離れる進学が許可されたのではないかといわれる。女子大卒業前に入院するが、卒業を認められる。体調が回復してから母校の花巻女学校教諭心得として英語と家事を担当するが、翌年喀血、以後療養生活を送る。1922年11月27日午後8時30分死去。24歳だった。(「Wikipedia」より)


永訣の朝

けふのうちに
とほくへいってしまふわたくしのいもうとよ
みぞれがふっておもてはへんにあかるいのだ
(あめゆじゅとてちてけんじゃ)
うすあかくいっさう陰惨いんさんな雲から
みぞれはびちょびちょふってくる
(あめゆじゅとてちてけんじゃ)
青い蓴菜じゅんさいのもやうのついた
これらふたつのかけた陶椀たうわんに
おまへがたべるあめゆきをとらうとして
わたくしはまがったてっぽうだまのやうに
このくらいみぞれのなかに飛びだした
   (あめゆじゅとてちてけんじゃ)
蒼鉛さうえんいろの暗い雲から
みぞれはびちょびちょ沈んでくる
ああとし子
死ぬといふいまごろになって
わたくしをいっしゃうあかるくするために
こんなさっぱりした雪のひとわんを
おまへはわたくしにたのんだのだ
ありがたうわたくしのけなげないもうとよ
わたくしもまっすぐにすすんでいくから
   (あめゆじゅとてちてけんじゃ)
はげしいはげしい熱やあえぎのあひだから
おまへはわたくしにたのんだのだ
 銀河や太陽、気圏などとよばれたせかいの
そらからおちた雪のさいごのひとわんを……
…ふたきれのみかげせきざいに
みぞれはさびしくたまってゐる
わたくしはそのうへにあぶなくたち
雪と水とのまっしろな二相系にさうけいをたもち
すきとほるつめたい雫にみちた
このつややかな松のえだから
わたくしのやさしいいもうとの
さいごのたべものをもらっていかう
わたしたちがいっしょにそだってきたあひだ
みなれたちゃわんのこの藍のもやうにも
もうけふおまへはわかれてしまふ
(Ora Orade Shitori egumo)
ほんたうにけふおまへはわかれてしまふ
あああのとざされた病室の
くらいびゃうぶやかやのなかに
やさしくあをじろく燃えてゐる
わたくしのけなげないもうとよ
この雪はどこをえらばうにも
あんまりどこもまっしろなのだ
あんなおそろしいみだれたそらから
このうつくしい雪がきたのだ
   (うまれでくるたて
    こんどはこたにわりやのごとばかりで
    くるしまなあよにうまれてくる)
おまへがたべるこのふたわんのゆきに
わたくしはいまこころからいのる
どうかこれが天上のアイスクリームになって
おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに
わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ