とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」 321 'IN THE MOOD' - Glenn Miller (Enhanced HQ Sound HD)

2018-04-07 16:36:33 | 日記
やはりご本家の演奏をアップしなければ・・・。初めてこの曲を聴いたとき、アメリカという国に対する印象が変わるほどのおおらかな前向きな明るい希望のようなものを感じていました。それは今でも変わりません。



'IN THE MOOD' - Glenn Miller (Enhanced HQ Sound HD)


「イン・ザ・ムード」(In the Mood)は、ジョー・ガーランドが作曲したジャズの楽曲。1939年にグレン・ミラー楽団の演奏によりヒットしたことでも知られ、グレン・ミラー楽団の代表曲ともなっている。

概要

サクソフォーンによる軽快なテーマのフレーズ、エンディングのトランペットのフレーズなど、全般にわたる華やかな曲調がビッグバンドの代表的な楽曲として知られ、アンドリュー・シスターズ、デューク・エリントン、ベニー・グッドマン、ブライアン・セッツァー(曲名は「ゲッティン・イン・ザ・ムード」。アルバム『ヴァヴーム!』に収録)、ビル・ヘイリー&コメッツ、シカゴもカヴァーしたことでも有名である。

テーマのフレーズは、元々は1930年にトランペット奏者のウィンギー・マノン (Wingy Manone) が作曲した "Tar Paper Stomp" のものであるとされる。グレン・ミラー楽団による大ヒットの後、グレン・ミラーとレコード会社から著作権について争わないことを条件に解決金が支払われたという。

オルトン・グレン・ミラー(Alton Glenn Miller、1904年3月1日 - 1944年12月15日?)はアメリカのジャズミュージシャン(トロンボーン奏者、作曲家、アレンジャー、バンドリーダー)。グレン・ミラー・オーケストラ(Glenn Miller Orchestra)を結成。
カウント・ベイシー、ベニー・グッドマン、デューク・エリントン等と共にスウィングジャズ、ビッグ・バンドの代表奏者に挙げられる。

プロフィール

アイオワ州クラリンダ生まれのドイツ系アメリカ人。1915年に家族と移住したミズーリ州グラントシティでトロンボーンを始め、地元のオーケストラで演奏を始める。やがて1923年にコロラド大学ボルダー校に進学するもほとんど行かずに中退、ニューヨークにてプロのトロンボーン奏者として音楽の道に進むが、売れずに目立たない時代が続いた。やがてトミー・ドーシーやベニー・グッドマン、レッド・ニコルスなどの音楽家と親交を結び、1937年に自己の楽団「グレン・ミラー・オーケストラ」を結成後、1938年にRCA傘下のブルーバード・レコードと契約、翌1939年から「ムーンライト・セレナーデ」「茶色の小瓶」「イン・ザ・ムード」「チャタヌーガ・チュー・チュー」など次々とヒット曲を発表し、バンドリーダー、作曲家、編曲家として絶大なる人気を博した。

第二次世界大戦の勃発にともない1942年に陸軍航空軍に入隊、慰問楽団を率いて演奏にまわった。国内外ツアー他、アメリカ合衆国軍慰問団(United Service Organizations)で演奏した。ミラーは精力的に慰問演奏を続けていたが、大戦末期の1944年12月15日にイギリスからフランスへ慰問演奏に飛び立った後、乗っていた専用機(UC-64)がイギリス海峡上で消息を絶った(最終階級は少佐)。原因として、ドイツへの爆撃から帰還する途中のイギリス空軍の爆撃機が上空で投棄した爆弾が乗機に当たり墜落したとする説の他、イギリス軍機の誤射で撃墜されたとする説、14日に無事にパリに着いたものの、翌日娼婦と事に及んでいる最中に心臓発作で亡くなったのを隠蔽するために行方不明にしたとの説まである。

2014年に『シカゴ・トリビューン』は、消息を絶った原因として、乗機のUC-64に特有の故障によるものとする説を挙げた。それによるとミラーの搭乗したタイプのUC-64は、エンジンのキャブレターに欠陥があり、冬期に凍結することにより故障し、墜落する事例が他にも複数発生していたという。

また、前述の爆撃機が投棄した爆弾が命中したという説は、当時の飛行記録によるとミラーの乗機と同時期に航路を飛んでいた航空機や付近で爆弾を投棄したという記述がないことから可能性が低いともしている。
行方不明後も残された楽団員がリーダーとなり、ニュー・グレン・ミラー・オーケストラとして、現在まで世界各地で活動している。

記録

ビルボードのジュークボックス・チャートにおいて「イン・ザ・ムード」(12週連続1位、通算13週1位)「タキシード・ジャンクション」(9週連続1位)「ウッドペッカー・ソング」(5週連続1位)の3曲で26週連続1位(1940年2月10日付〜8月3日付)を達成した。1941年に録音されたチャタヌーガ・チュー・チューは、同バンドが出演した映画銀嶺セレナーデの主題歌であり、レコードはおよそ120万枚販売された。これを記念して1942年にRCAレコードからゴールドディスクが授与され、これがゴールドディスク第1号とされる。(「Wikipedia」より)




あちこち「SYOWA」 320 Swing Girls (スウィングガールズ)

2018-04-07 00:34:37 | 日記
敢えて「番外」としませんでした。映画は新しいですが、演奏されている曲は!930~1970年代の懐かしい曲だからです。イン・ザ・ムード(ジョー・ガーランド、1939年)はグレン・ミラー楽団の代表曲で戦後のアメリカを象徴する曲目ですね。この曲を聴くと戦勝国アメリカは明るい素晴らしい国だと思ったものでした。

Swing Girls (スウィングガールズ)


『スウィングガールズ』(Swing Girls)は、2004年公開の日本映画。脚本・監督は矢口史靖。 東北の片田舎の落ちこぼれ女子高校生がビッグバンドを組んで、ジャズを演奏する青春映画。キャッチフレーズは「ジャズやるべ!」。
ロケは山形県置賜地方を中心に行われ、セリフも山形弁(置賜弁)が使われた。

ストーリー

東北地方の山河高校の、落ちこぼれ学生だった友子ら13人の女子生徒は、夏休みの補習授業をサボるために、食中毒で入院した吹奏楽部のピンチヒッターに応募する。

唯一、食中毒を免れた気の弱い吹奏楽部員・拓雄の指導で、ビッグバンドジャズをはじめた友子らは、次第に演奏の楽しさに目覚め、ジャズにのめりこんでいく。しかし、吹奏楽部員が退院して復帰したため、あえなくお払い箱になってしまう。
2学期になると友子らは、演奏の楽しさが忘れられず、バンドを結成し、楽器を買うためにアルバイトで費用を稼ぎ、失敗と成功を繰り返しながら、ビッグバンドジャズにのめりこんでいく。

キャスト

スウィングガールズ

バンド名は「スウィングガールズ&ア・ボーイ」あるいは単に「スウィングガールズ」とも呼ばれる。

鈴木友子(テナーサックス):上野樹里
斉藤良江(トランペット):貫地谷しほり
関口香織(トロンボーン):本仮屋ユイカ
田中直美(ドラムス):豊島由佳梨
中村拓雄(ピアノ):平岡祐太
渡辺弘美(ギター):関根香菜
山本由香(ベース):水田芙美子
久保千佳(アルトサックス):あすか
岡村恵子(アルトサックス):中村知世
大津明美(テナーサックス):根本直枝
清水弓子(バリトンサックス):松田まどか
石川理絵(トランペット):金崎睦美
下田玲子(トランペット):あべなぎさ
宮崎美郷(トランペット):長嶋美紗
吉田加世(トロンボーン):前原絵理
木下美保(トロンボーン):中沢なつき
小林陽子(トロンボーン):辰巳奈都子

演奏レパートリー

劇中およびサウンドトラックへ収録()内は作曲家、発表年度

A列車で行こう(ビリー・ストレイホーン、1941年)
故郷の空(スコットランド民謡)
メイク・ハー・マイン(ヒップスター・イメージ、1965年)
イン・ザ・ムード(ジョー・ガーランド、1939年)
ムーンライト・セレナーデ(グレン・ミラー、1939年)
メキシカン・フライヤー(ケン・ウッドマン、ピカデリー・ブラス、1965年)
シング・シング・シング(ルイ・プリマ、1936年)
ライブステージ他にて演奏
アップタイト(スティーヴィー・ワンダー、1966年)
アイーダ凱旋行進曲(ヴェルディ、1871年)
オーバー・ザ・レインボー(ハロルド・アーレン映画「オズの魔法使い」より、1939年)
キャラバンの到着(ミシェル・ルグラン、映画「ロシュフォールの恋人たち」より,1966年)(「Wikipedia」より)

あちこち「SYOWA」 319 日本の復興途上・昭和23―25年

2018-04-05 15:00:25 | 日記
この画像は作成者によっては別の形ともなったでしょう。しかし、同時代に生きた私が見て違和感はあまり感じませんでした。戦後の時代を知らない世代にぜひとも伝えておきたい映像です。下記の「Wikipedia」の説明は補足する点も多々あると思います。

日本の復興途上・昭和23―25年



戦後復興期(せんごふっこうき)とは、戦後(戦争が終わった後)の経済・社会等の復興の時期を意味する。日本語では、特に太平洋戦争後の復興期を指す。

どのような戦いであれ、終戦を迎えた地域は、多くの場合「戦後混乱期」に陥ることを避けられないが、そのような厳しい状況下で復興を図り、結果的に果たせた場合に、その時代を指して「戦後復興期」と呼ぶようになる。翻って言えば、復興を図って果たせずに終わる「戦後」や、政情的あるいは政策上、復興の機会さえ得られずに終わる「戦後」も、世界史上に珍しいものではない。

また、復興に期待を籠めて当事者たちが自らの時代をその名で呼ぶこともあるが、時代人の願うとおりに「戦後復興期」を歴史に刻み込めるかどうかはその後の結果を確かめるまで分からない。このように図られた戦後復興の中で、第二次世界大戦後の日本のそれは、西ドイツの「経済の奇跡」と並び、最も成功した例として世界的に有名である。戦後復興期とその後の高度経済成長期を実現させた日本のそれは「奇跡の復興」とも呼ばれて注目され、多くは賞賛され、ときに他国が手本とするものであった。

日本の戦後復興期(自立期)

第二次世界大戦後の日本における「戦後復興期」は、大戦で敗北し、軍の影響力が大きかった民主政国家からそれを排した民主政国家に生まれ変わった直後の戦後混乱期(占領期)の困難な時代を経て、その後に続く時期である。

具体的には、朝鮮戦争による特需景気(朝鮮特需)を機会に混乱から脱出する1950年(昭和25年)頃から、1954年(昭和29年)の高度成長期が始まる頃までの期間となる。時の首相(総理大臣)は、その時期の大部分を吉田茂が占めた(第3次吉田内閣 - 第5次吉田内閣)。そして1956年(昭和31年)には、国民所得が第二次世界大戦前の最高水準である1940年(昭和15年)レベルに達し(「もはや戦後ではない」)、戦後復興は一定の成果を得ることができた。

したがって、第二次世界大戦後の日本における本格的な戦後復興期は、一般的に朝鮮戦争が開戦した1950年(昭和25年)6月25日から1954年(昭和29年)11月30日までの期間を指す。(「Wikipedia」より)



あちこち「SYOWA」 318 リンゴの唄~映画『そよかぜ』より

2018-04-04 00:20:01 | 日記
私は終戦直後この唄を聴いてその明るい歌声に癒された記憶があります。映画を当時見た記憶はありません。ラジオではよくこの唄のメロディーが流れていました。


リンゴの唄~映画『そよかぜ』より


「リンゴの唄」(リンゴのうた)は、1945年の日本の楽曲。並木路子、霧島昇(霧島の共唱はオリジナル版のみ)によって発売され、日本の戦後のヒット曲第1号となった楽曲。作詞はサトウハチロー、作曲は万城目正。編曲はオリジナル版が仁木他喜雄、並木のソロ歌唱によるステレオ録音版が松尾健司。
第二次世界大戦敗戦後の日本で戦後映画の第1号『そよかぜ』(1945年〈昭和20年〉10月10日公開、松竹大船)の挿入歌として発表された。なお、『そよかぜ』は並木が主演を務め、霧島も出演している。

戦後と復興の象徴として

この曲はテレビ番組などの資料映像として終戦直後の焼け跡の空撮、闇市、買い出し列車などが流れる際、必ずと言っていいほどBGMに使われる“定番BGM”としても知られている。1982年に学習研究社から発行された『証言の昭和史』6巻のタイトルは『焼跡に流れるリンゴの唄 占領下の日本』であった。

並木は阪神・淡路大震災(1995年1月17日発生)の最大の被災地である神戸市長田区への慰問に訪れた際にも、避難所となった学校の校庭に設けられた仮設ステージでこの曲を歌唱しており、その模様を載せた当時の新聞紙面には「焼け跡に再び『リンゴの唄』が流れた」という見出しが躍った。さらに2011年の東日本大震災では、復興を願いコミュニティFMに「りんごラジオ」と名付けられた。

また、並木が死去した直後の2001年(平成13年)4月、モーニング娘。のメンバー(当時)・石川梨華が「今私たちがこうして歌えることの源流が並木さんの『リンゴの唄』であることを思うと、その先人の功績を忘れることなく歌い続けなければならない」という追悼談話を述べた。(「Wikipedia」より)



あちこち「SYOWA」 317 開局45周年記念 命のドラマSP“白旗の少女” 2009 09 30

2018-04-02 16:48:39 | 日記
白旗の少女。私はこの事実を小説で知りました。これは後々まで伝えていかねばならない。そう思いました。映画化されていることはYouTubeで初めて知りました。比嘉富子さんはそのカメラマンと再会したとか。生きなさいと言った老夫婦も素晴らしい人だと思いました。こういう史実はもう二度と繰り返してはいけないと思い続けています。


開局45周年記念 命のドラマSP“白旗の少女” 2009 09 30


『白旗の少女』(しらはたのしょうじょ)は、1945年6月に太平洋戦争末期の沖縄戦において、アメリカ軍によって撮影された写真およびその被写体となった女性、さらにその女性(比嘉富子)が自身の体験を元に執筆した小説である。
小説は、1990年にはフジテレビで、2009年にはテレビ東京で、それぞれテレビドラマ化されている。
本記事では写真の撮影とそれが一般に知られるようになり、比嘉が小説を執筆するに至った経緯についても説明する。

経緯

写真の撮影と一般への周知

該当の写真は、沖縄戦が終盤となっていた1945年6月25日に、アメリカ軍のジョン・ヘンドリクソンが撮影したものである。おかっぱ頭の少女が木の棒の先に白旗をつけて手を振る様子が捉えられている。
この写真は、沖縄戦の研究に当たっていた大田昌秀(後に沖縄県知事)が調査研究の過程で発見収集し、1977年に刊行した『写真記録 これが沖縄戦だ』(琉球新報社)に掲載された。

1984年、アメリカ軍による沖縄戦の記録映画を募金によって買い取る「子どもたちにフィルムを通して沖縄戦を伝える会」の「1フィート運動」でもたらされたフィルムに、この写真と同じ場面を撮影したものが含まれていることが判明し、テレビニュースなどで紹介される。1986年からは運動で集められた他のフィルムとともに編集された『沖縄戦 未来への証言』が公開された。この映画では、少女の後を数人の日本兵がついて歩く様子が映っており、「少女を盾にして投降したのではないか」「兵士が少女に白旗を持って歩くことを強要したのではないか」といった反応も示された。また、写真とフィルムを元にして創作された絵本『りゅう子の白い旗 沖縄いくさものがたり』(文・新川明、絵・儀間比呂志)が1985年に刊行されている。

比嘉による名乗り出と小説執筆

1987年10月、比嘉富子が自分が白旗の少女であると名乗り出た。当時比嘉は48歳で、沖縄タイムスのインタビューに応じる形であった。1988年6月にはニューヨークでの「平和大行進」に参加、その際に自分を撮影したカメラマンに会いたいというプラカードを掲げた。7月に比嘉はヘンドリクソンと再会を果たしている。

翌1989年、講談社から、子供用のシリーズ「講談社のノンフィクション」の1冊として『白旗の少女』を刊行する。比嘉は本の「あとがき」の中で、映画の公開以来日本兵が自分を盾にしたかのような誤解を受けてきたことを残念に思っていること、日本兵は直前にたまたま別の道から合流したために後に続く形になっただけであることを記している。


小説『白旗の少女』


挿絵は依光隆が担当、その他に写真も多く収録されている。

冒頭は、主人公がニューヨークで平和行進に参加するところから始まる。そこで彼女は写真家を捜し始めた。その後写真家と面会するところから回想に入る。

彼女は首里で生まれ、平和に暮らしていた。そこでは沖縄の伝統を強く残した生活のことが語られている。その中で1944年(昭和19年)、母が亡くなる。1945年(昭和20年)にはいよいよ沖縄に戦線が近づく。その4月1日、沖縄本島中部にアメリカ軍が艦砲射撃を加え、それと思われる音は首里にまで響いた。それから1か月すると、家の周辺にも砲弾がくるようになり、防空壕へ避難することが多くなった。5月10日ころ、父親が「何かあったら子供たちで判断して行動するように」と言い残して家を出て、これが父との別離になった。
それから3日待って、通信隊へ父の安否を尋ねると、「それより早く南へ避難するよう」と言われ、兄弟姉妹4名(姉17歳、姉13歳、兄9歳、本人6歳11か月)は荷物をまとめて家を出た。昼間は洞穴などに身を隠し、夜間に歩いた。まずは父の消息を尋ねて真壁に行くがやはり不明で、それ以降は当てもなくとにかく南へ移動する。そのさなか、米須で一緒にいた兄が流れ弾に当たって死亡、さらに南へ移動するさなか、主人公は姉たちとはぐれてしまう。それから彼女は1人で避難行を続けることになる。

そうして彼女は多くの戦死者、自殺する兵隊や集団自決する住民などを目にしながらさまよい、あるガマでは日本兵に殺されかける。一人きりでの移動が1か月ほどになったとき、とあるガマに入ったところ、そこには老夫婦がこもっていた。その老人は両手両足がなく、目の不自由な老婆に身の回りの世話をさせ、その洞窟で暮らしていた。彼らは少女を優しく受け入れ、少女はここで初めてその身を休めることが出来た。

その外では、戦闘が刻一刻と激しくなっていた。彼女は老夫婦にここで一緒に暮らして、一緒に死にたいと言ったが、それに対して、命の大切さや生き延びることの価値を説かれる。数日後、洞窟の外からアメリカ軍の呼びかけが聞こえた。これから爆弾を投げ込むから、その前に投降することを呼びかけるものだった。老人は老婆へ指示し、自分のふんどしで白旗を作らせ、その旗を彼女に持たせた。そして「世界中の約束だから、これを持ってれば大丈夫だ」と言い聞かせ、自分たちを残して1人で投降するよう促した。

彼女はほかの住民に混じって進んだ。1人の米兵が何かを構え、こっちをねらうようにしているのを見て、カメラのようだが、武器かも知れないと思いながら、かつての父に言われた言葉を思い出し、顔を上げ、笑顔を見せた。彼女はほかの避難者と一緒になり、そこで2人の姉に再会した。1945年6月25日のことだった。(「Wikipedia」より)