とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」 16 もし・・・。もし・・・。

2016-04-28 23:29:44 | 日記
西野カナ 『if (short ver.)』



 残り少ないAの人生。ふと考えてしまいます。私はどこから来たのか。何者なのか。そんな他愛ないことを考えるとき、いくつかの「もし・・・。もしも・・・」という言葉が口をついて出てきます。


 来し方を振り返ると、最初に思うことが父親の兄・長男の死です。若くして、・・・たしか21歳だったと思います。とても秀才で、逓信講習所を優等で卒業して郵便局の電信技士として仕事していましたが、結核で死にました。Aの祖母・父の母にとって伯父の死は相当のショックでした。ですから次男の父が跡取りとして家に縛られることになりました。
 もし、伯父が生きていたらAはこの世にいなかったことでしょう。

 そして、父親に関してももしも・・・があります。
 父親は独身の頃、両親に内緒で警視庁の試験を受けました。運が良かったのか、悪かったのか、合格通知が来たのです。両親、特に父親がひどく叱りました。大切な跡継ぎがなんたることか、という具合に。という訳で断りの手紙を父親は出さざるをえないようになり、泣く泣く諦めました。
 もしも、父親が東京に出ていたらAはこの世にいなかったことでしょう。

 そして、そして、もっと当たり前のこと。父親がバツイチの・・・(??? このことは事実ではないかも・・・)母親と結婚していなかったらAはこの世にいなかった。

 もっと、もっと昔のルーツに迫りたいとAは思い、祖母の二人の弟が書き残した書物を繙きました。なんと、なんと、すごい史実が書き残してありました。時代は戦国時代。祖母の家系は戦国武将吉見氏の子孫なのでした。


 吉見一族の経緯

先祖は源範頼、範頼の子が横見郡吉見(埼玉県比企郡吉見町)を領した事に始まる、その後、能登に移り吉見家の本家となる地盤ができる、その後石見吉見家の初代・吉見頼行が津和野中曽野に移り館を構えたのが始め、猛者・信頼、葉隠れの雄・頼興、名将・正頼の代で吉見家の名が全国へ渡るのである、その後曲折はありながら大野毛利家として江戸時代に向かうのである。

 吉見家の所領

 吉見家は1470年前後、石見では津和野を本領に南は高津まで支配し北は長門国、嘉年・下徳地・厚東と北九州・豊前の貫庄・紫見村と筑前の一部を支配しその版図はかなり広い、そして1480年前後には陶弘護の「山口刺殺事件」で下徳地は没収、そして阿東も攻め取られ徳佐元山城まで占領される、南は拠点・高津小城は落とされ、向横田頚ヶ滝城まで益田氏に攻め取られる、1540年前後には大内義隆から萩を新たに与えられ、そして1560年前後には正頼の時代で旧陶領の上部半分をほぼ斡旋し下徳地や阿東を完全に制圧した(約10万石)、1580年前後には下徳地は内藤隆春の隠居地として打ち渡され実質の支配は10数年だった、しかし鹿野は領主の江良賢宣が隠居し支配者が弱くなる所に付け、実際は吉見正頼が支配に当たっていたようだ、抜け目はない、1590年前後に当主が広頼に代わると時代の流れには勝てず、長門の領地はすべて毛利秀元に没収され、更に益田元祥に黒谷も斡旋され、田万川は市味を益田氏に渡るなど正頼の力が及ばなくなると領地も縮小して行く事となった、1600年前後になると内部分裂もあり、広頼も苦悩の決断があるなど領地は萎んで行ってしまうのである。(「陰陽散策」http://www7a.biglobe.ne.jp/~onmyousansaku/index.htmlより)

 直接の家系(吉見氏)


 弘景ー弾正忠頼清ー備前守頼清ー頼済ー①助兵衛(弟 茂兵衛)ー②六郎兵衛ー③茂兵衛ー④彦助ー・・・・・⑨彦助ー⑩一夫・・・(数字は池淵家の代数)


 緑色の彦助はAの祖母の弟です。姓は備前守頼清の時代に池淵と改め、百姓となっています。
 毛利氏に追われ死を決した備前守頼清と息子の頼済は子ども(孫)の助兵衛、茂兵衛を助けてもらうことを条件に現在の出雲市内のお寺で自刃することになります。

 なんと、もしも助命嘆願をしていなかったら・・・、祖母の家系は途絶えていたのでした。
 Aはこのことを考えると、ふーっとため息が出てきました。

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