若いころ、少し年上の美しい女優さんがいるなあと憧れていました。この物語、悲しすぎる感じで、どうにも複雑な思いがして、香川京子という女優さんが可哀そうになりました。(画像を追加しました。)
高原の駅よさようなら
高原の駅よさようなら 森昌子 Mori Masako aa
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
かがわ きょうこ
香川 京子
来歴・人物
1949年
生まれてすぐに父親の仕事の都合で兵庫県の芦屋へ移る。
小学校に入る1年前に東京に戻るも、女学校に上がった1944年に空襲を避けるため、茨城県の下館に疎開。間もなく母親が麻生町に疎開したため、自らも麻生町に戻る。
女学校時代は勤労奉仕ばかりで、勉強することはあまりなかった。
1945年に東京に移り住む。
1949年に東京都立第十高等女学校を卒業。東京新聞主催の「ニューフェイス・ノミネーション」に合格し、新東宝へ入社する。女学校卒業時に漠然と将来を考えた際に、当初は英語の勉強をしたいと考えていたが家庭の事情で断念。『白鳥の湖』を観賞してバレリーナになりたいと考えるも、専門家から、目指すには遅すぎると指摘され、どうしようか考えあぐねている時に新聞のニューフェイス募集記事が目に止まって応募したという。一般会社の入社試験も同時進行で受けており、最終面接とニューフェイスのカメラテストでの最終試験が重なってしまうが、母の助言もあり、女優の道に進むことになる。
同年、映画『帰国』でデビュー。
芸名は映画会社で用意されていたものがしっくり来ず、家族と自身で考えたもの。本名の「香」と言う文字はどうしても用いたく、「きょうこ」という音も用いられるために決定したという。
1954年
『サンケイグラフ』1954年9月5日号より
大手映画会社間の五社協定ができる前の1953年にフリーになったおかげで、各映画会社の黄金期の多くの巨匠たちの作品に出演するという幸運に恵まれている。本人は「個性のない普通の雰囲気が使いやすかったのだと思う」と謙遜して答えている。
『ひめゆりの塔』への出演が転機になったようで、女優としての意義を意識するようになった。監督の今井正からは役作りのために役になりきってひめゆり学徒隊に志願した理由を書く作文を書かされ、とても勉強になったと述べている。
続いて成瀬巳喜男監督の作品に次々に出演し、さわやかな演技で人気女優となる。
溝口健二監督の『近松物語』ではヒロインを演じ、初の人妻を演じる。当時は未婚であったため、溝口監督独特の演技指導しない演出も重なって、既婚者の動作が中々演じられなかったという。本人の思い出に残る作品であり、監督に「芝居は相手の言葉や動きに反射してでてくる。反射して下さい」と言われ、「できるまでやらされ死ぬほどつらかったが、芝居の基本を教えてもらいありがたかった」と振り返っている。
黒澤明監督の作品にも多く出演し、黒澤作品の看板役者であった三船敏郎の恋人役や妻役を演じることが多かった。黒澤作品において、三船とは9回の共演回数を誇る。特に思い出深い作品は『悪い奴ほどよく眠る』であるという。
『モスラ』(1961年)で共演した小泉博は、香川について明るく知的で、お嬢さん役として素晴らしいという定評であったと証言している。東宝の照明技師であった高島利雄は、現場で一緒に撮った写真をわざわざ送ってくれるなど、気さくな人物であったと述懐している。
1963年に結婚。
1965年、『赤ひげ』に出演して以降、出産を経験。新聞記者であった夫の海外赴任先であるニューヨークへ同行し、映画の世界を3年ほど離れることになる。ニューヨーク在住時には1965年北アメリカ大停電を経験している。
1968年に帰国。テレビドラマ・舞台へ主軸を移す。
テレビドラマでは石井ふく子・橋田寿賀子両者の作品に多く出演した。
映画撮影時の記念アルバムなどの資料は東京国立近代美術館フィルムセンターに寄贈され、展示室で公開されている。そうした映画保存活動への貢献が評価され、2011年10月24日に第24回東京国際映画祭の会場で日本人・アジアの映画女優として初となるFIAF賞(国際フィルム・アーカイヴ連盟賞)が授与された。FIAF賞受賞記念として、映画祭で、「香川京子と巨匠たち」として9作品特集上映され、また、東京国立近代美術館フィルムセンターで、「映画女優 香川京子」として45作品特集上映され、企画展示室にて「映画女優 香川京子」展として特別展示された。
高原の駅よさようなら
高原の駅よさようなら 森昌子 Mori Masako aa
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
かがわ きょうこ
香川 京子
来歴・人物
1949年
生まれてすぐに父親の仕事の都合で兵庫県の芦屋へ移る。
小学校に入る1年前に東京に戻るも、女学校に上がった1944年に空襲を避けるため、茨城県の下館に疎開。間もなく母親が麻生町に疎開したため、自らも麻生町に戻る。
女学校時代は勤労奉仕ばかりで、勉強することはあまりなかった。
1945年に東京に移り住む。
1949年に東京都立第十高等女学校を卒業。東京新聞主催の「ニューフェイス・ノミネーション」に合格し、新東宝へ入社する。女学校卒業時に漠然と将来を考えた際に、当初は英語の勉強をしたいと考えていたが家庭の事情で断念。『白鳥の湖』を観賞してバレリーナになりたいと考えるも、専門家から、目指すには遅すぎると指摘され、どうしようか考えあぐねている時に新聞のニューフェイス募集記事が目に止まって応募したという。一般会社の入社試験も同時進行で受けており、最終面接とニューフェイスのカメラテストでの最終試験が重なってしまうが、母の助言もあり、女優の道に進むことになる。
同年、映画『帰国』でデビュー。
芸名は映画会社で用意されていたものがしっくり来ず、家族と自身で考えたもの。本名の「香」と言う文字はどうしても用いたく、「きょうこ」という音も用いられるために決定したという。
1954年
『サンケイグラフ』1954年9月5日号より
大手映画会社間の五社協定ができる前の1953年にフリーになったおかげで、各映画会社の黄金期の多くの巨匠たちの作品に出演するという幸運に恵まれている。本人は「個性のない普通の雰囲気が使いやすかったのだと思う」と謙遜して答えている。
『ひめゆりの塔』への出演が転機になったようで、女優としての意義を意識するようになった。監督の今井正からは役作りのために役になりきってひめゆり学徒隊に志願した理由を書く作文を書かされ、とても勉強になったと述べている。
続いて成瀬巳喜男監督の作品に次々に出演し、さわやかな演技で人気女優となる。
溝口健二監督の『近松物語』ではヒロインを演じ、初の人妻を演じる。当時は未婚であったため、溝口監督独特の演技指導しない演出も重なって、既婚者の動作が中々演じられなかったという。本人の思い出に残る作品であり、監督に「芝居は相手の言葉や動きに反射してでてくる。反射して下さい」と言われ、「できるまでやらされ死ぬほどつらかったが、芝居の基本を教えてもらいありがたかった」と振り返っている。
黒澤明監督の作品にも多く出演し、黒澤作品の看板役者であった三船敏郎の恋人役や妻役を演じることが多かった。黒澤作品において、三船とは9回の共演回数を誇る。特に思い出深い作品は『悪い奴ほどよく眠る』であるという。
『モスラ』(1961年)で共演した小泉博は、香川について明るく知的で、お嬢さん役として素晴らしいという定評であったと証言している。東宝の照明技師であった高島利雄は、現場で一緒に撮った写真をわざわざ送ってくれるなど、気さくな人物であったと述懐している。
1963年に結婚。
1965年、『赤ひげ』に出演して以降、出産を経験。新聞記者であった夫の海外赴任先であるニューヨークへ同行し、映画の世界を3年ほど離れることになる。ニューヨーク在住時には1965年北アメリカ大停電を経験している。
1968年に帰国。テレビドラマ・舞台へ主軸を移す。
テレビドラマでは石井ふく子・橋田寿賀子両者の作品に多く出演した。
映画撮影時の記念アルバムなどの資料は東京国立近代美術館フィルムセンターに寄贈され、展示室で公開されている。そうした映画保存活動への貢献が評価され、2011年10月24日に第24回東京国際映画祭の会場で日本人・アジアの映画女優として初となるFIAF賞(国際フィルム・アーカイヴ連盟賞)が授与された。FIAF賞受賞記念として、映画祭で、「香川京子と巨匠たち」として9作品特集上映され、また、東京国立近代美術館フィルムセンターで、「映画女優 香川京子」として45作品特集上映され、企画展示室にて「映画女優 香川京子」展として特別展示された。