とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」 169 オリンピック100人の伝説 東洋の魔女 女子バレーボールチーム

2017-05-24 00:28:11 | 日記
この試合は女子チーム・プレーの原点に燦然と輝いています。何度見ても興奮します。

オリンピック100人の伝説 東洋の魔女 女子バレーボールチーム


東洋の魔女(とうようのまじょ)は、1961年の欧州遠征で22連勝した日紡貝塚女子バレーボールチーム(監督:大松博文)につけられたニックネーム。
1964年東京五輪では同チームのメンバーを主体とした全日本で出場し、5試合で落としたセットは1セットのみという圧倒的な力で金メダルを獲得した。ソ連との優勝決定戦では視聴率66.8%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)を記録し、スポーツ中継としては歴代最高となっている。

1964年東京五輪

1962年世界選手権後、優勝の褒美に世界一周旅行を行い、結婚適齢期を迎えたことから選手達と大松監督は引退を表明していた。

しかし1964年の東京五輪から女子バレーボールが正式種目に入ることが決定したことから、『是非東京オリンピックまで続けて欲しい』と、日本バレーボール協会幹部が日紡貝塚へ日参したり、一般ファンからも大松率いる東洋の魔女続投を望む手紙が5,000通に亘って大松博文へ宛てて送られるなどして東京五輪へ向けて周囲の声が高まったことなどを受け、東京オリンピックまでが2年であることでキャプテン河西が決断し、大松監督の「俺についてこい」の一言で、選手達はオリンピックまで続けることを決意した。この後のオリンピックまでの2年間は、選手は午前中社業に従事し、15:00から26:00まで練習。大松は16:00まで社業でその後練習に合流するというハードな日々をおくったという。

1964年10月23日、東京五輪のソ連との全勝同士の対決では、日本が順調に2セットを連取した。3セット目も試合を優位に進めたが、14対9のマッチポイントを握った場面からソ連の粘りが続いた。テレビ放送にて決勝戦実況中継担当アナウンサーであった鈴木文彌が「金メダルポイント」のセリフを6度も繰り返すこととなった。最後はソ連の選手のオーバーネットによる反則により金メダルを獲得した。出場選手は以下の12名である。

河西昌枝、宮本恵美子、谷田絹子、半田百合子、松村好子、磯辺サタ、松村勝美、篠崎洋子、佐々木節子、藤本佑子(以上、日紡貝塚)、近藤雅子(倉紡倉敷)、渋木綾乃(ヤシカ)

(Wikiより)

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