とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」 36 戦艦大和とともに死にたい

2016-09-05 00:10:21 | 日記
戦艦大和・その栄光と終焉 .日本海海軍の象徴としての?.....


 大和(やまと/ヤマト)は、大日本帝国海軍が建造した史上最大の戦艦。大和型戦艦の一番艦。正式な呼称は“軍艦 大和”。大和の艦名は奈良県の旧国名の大和国に由来するが、日本の歴史的原点としての代名詞ともなっている『大和』の名を冠されたことに本艦にかかった期待の度合いが見て取れる。当時の日本の最高技術を結集し建造され、戦艦として史上最大の排水量に史上最大の46cm主砲3基9門を備え、防御面でも重要区画(バイタルパート)では対46cm砲防御を施し、建造期間の短縮、作業の高効率化を目指し採用されたブロック工法も成功を収めた。その存在が最高軍事機密であったうえ、戦争が始まってから完成したためにその姿をとらえた写真は非常に少ない。

 太平洋戦争(大東亜戦争)開戦直後の1941年(昭和16年)12月16日に就役し、1942年(昭和17年)2月12日に連合艦隊旗艦となった。この任は司令部設備に改良が施された同型艦の武蔵がトラック島に進出する1943年(昭和18年)2月まで継続した。1945年(昭和20年)4月7日、天一号作戦においてアメリカ軍機動部隊の猛攻撃を受け坊ノ岬沖で撃沈された。(Wiliより)


   
 1945年(昭和20年)4月7日と言えばAは満1歳と1か月。このとき戦艦大和は最期を迎えました。Aは父からの話、その後成長してから知った真実。そういう事実から次第にこの戦艦に関心を持つようになりました。そして、今は大和と運命をともにしたいとも思うようになりました。その背景に弟の死がありました。
大和は大和だから運命をともにしたいと思うのです。武蔵ではいけない。大和ははなばなしい戦果を挙げずに撃沈されました。しかし、その姿は燦然と今も輝いています。
 弟は「大和」とともに生きた海軍の兵士でした。いかに逃げ惑うことがあっても守って生きる覚悟が出来ていました。一億玉砕といわれていた最中、「大和」から離れることはありませんでした。
 人は誰しも「大和」とともに生きているのだとAは思っています。弟を誇りに思っています。Aも「大和」の一兵卒としての自覚を持っています。ですから空から海から猛攻を加えられようと誇りをもって戦い続けます。撃沈されて爆発しても「大和」と運命をともにする。その覚悟は弟と同じです。


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