とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」 583 井沢八郎 「あゝ上野駅」

2018-12-20 17:56:24 | 日記
集団就職。東京へ、東京へと若者は仕事を求めて集まった時代。その時代性を象徴する唄として永遠に唄われる名曲です。私の従姉も田舎から出て行きました。それを寂しいとか可哀そうとか思いませんでした。当たり前のことと受け取っていました。東京への一極集中は現代も変わりません。ただ、今の若い世代にもこの唄の時代背景を是非知って貰いたいと思っています。井沢八郎さんのご冥福をお祈り申し上げます。

ああ上野駅 井沢八郎





井沢 八郎(いざわ はちろう、本名:工藤 金一(くどう きんいち)、1937年3月18日 - 2007年1月17日)は、日本の演歌歌手。


来歴・人物

青森県弘前市出身。女優の工藤夕貴と元俳優でクラブDJの工藤正貴は実子。二番目の妻は声優の青羽美代子。
弘前のひとかどの名士宅に出生、同地では中学生の頃から歌唱力は評判であった。

中学卒業後、歌手を目指して上京。1963年に「男船」(作詞・松井由利夫、作曲・大沢浄二)で東芝音楽工業よりレコードデビューを果たし、同曲は30万枚を売り上げる。デビュー第三弾の「あゝ上野駅」は井沢八郎の代表曲であると同時に、第二次世界大戦後の日本の世相を反映する代表曲となった。他に「男傘」「北海の満月」などのヒット曲がある。作曲家・大沢浄二が恩師である。

伸びやかでハイトーンを特徴とする歌声で、晩年もショーやテレビ番組などで活躍していた。私生活では料亭経営者の令嬢と結婚、長年連れ添い一男一女(夕貴・正貴)を授かった。

しかし、1983年にスキャンダルのため、一時、芸能活動ができなくなったうえ、夫人と不和となりこの婚姻関係は1989年に破綻。その後、縁があり交際を続けてきた青羽と1994年再婚し、死ぬまで連れ添った。

2005年秋頃、体調不良を訴え検査の結果食道がんが見つかり手術を受けるが、翌年5月にはがんがリンパ節に転移。同年秋に再入院し、治療に努めた。

2007年1月17日午後11時18分、食道癌のため自身の転機の地でもある上野の永寿総合病院にて死去。69歳没。
井沢八郎が亡くなった1月17日は、奇しくも娘・工藤夕貴の誕生日であり、晩年和解を果たした夕貴は実父の死に人目を憚らず悲嘆した。


あゝ上野駅

東北地方からの集団就職者の愛唱歌としても知られるこの「あゝ上野駅」は1964年にリリースされ、爆発的なヒットとなった。戦後日本の歴史に残る名曲として位置付けられており、2003年には上野駅の駅前に「あゝ上野駅」の歌碑が完成した。また2013年7月28日には、上野駅の開業130周年を記念して、13番ホームの発車ベルに採用されたが、2016年11月1日からは16・17番線の発車メロディーに使用されている。

集団就職経験者を始め、昭和30年代から昭和40年代にかけての高度経済成長時代を生きた、多くの団塊世代と呼ばれる人々の想いと共に、永くこの歌が刻まれることになった。

2007年の「第39回思い出のメロディー」(NHK)では、演歌歌手・氷川きよしが井沢の追悼として歌唱した。
また、井沢の死後の記者会見では、愛娘・工藤夕貴が「『あゝ上野駅』は、パパの残してくれた大事な宝物。私がきっと、歌い継いでみせます」と涙ながらに語っていた。(「Wikipedia」より)