とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」 436 中山美穂 You're My Only Shinin' Star

2018-09-30 16:22:34 | 日記
台風の最中。だからこそ立ち向かうファイトが湧いてきます。
中山美穂と言えば、私はドラマで、個性的な、どちらかと言えば男前の演技が印象に残っています。でも、唄もいいですね。

中山美穂 You're My Only Shinin' Star


中山 美穂(なかやま みほ、1970年3月1日 - )は、日本の女優、歌手。80年代アイドル。身長158cm。血液型O型。
東京都小金井市出身(出生は長野県佐久市)。ビッグアップル所属。
作詞をする時は「北山 瑞穂」(きたやま みずほ)と「一咲」(いっさく)というペンネーム(アルバム『DANCE BOX』のブックレット末尾に「Issaque」との表記あり)を使用していた時期もあった。愛称は「ミポリン」。
実妹は女優の中山忍。

略歴

アイドル期

1982年、小金井市立緑中学校1年生の時に原宿でスカウトされ、モデルクラブ・ボックスコーポレーションに所属。雑誌『花とゆめ』や広告、ポスター等のモデル活動のほか、TDKカセット「スプレンダー」や明治製菓のCMに出演。ビジュアルでは昭和の歴代アイドルの中でもトップクラスという評価があり、この時期の活動がそれを根拠づけている。芸能活動が活発になってきた中学3年の時に東京都板橋区立板橋第五中学校に転校し、のちに卒業。高校は東京都立北園高等学校定時制に進学したが、芸能活動を優先するために1年二学期に中途退学した。

1985年1月、TBS系ドラマ『毎度おさわがせします』のツッパリ少女・のどか役で女優デビュー。 思春期の性をテーマにしたホームコメディードラマで、刺激的なシーンやセリフが多く、今までにないその鮮烈な内容が大いに注目されて大ヒットした。また彼女はドラマ開始時は無名な存在ではあったが、ドラマの要でもある役柄を当時14歳にして体当たりで演じきり、型どおりの清純派とは一味違ったキャラクターで一躍注目を集めた。

同ドラマ終了後、バーニング傘下のビッグアップルに移籍する。同年6月、シングル「C」でアイドル歌手としてもデビュー。同12月には、ヒロイン役で初出演した映画『ビーバップ・ハイスクール』が劇場公開されて大ヒット。また年末には、新人アイドルが豊作だった中で、その頂点に達する第27回日本レコード大賞最優秀新人賞を受賞するなど幸運が続いた。また同期には森川美穂、本田美奈子、南野陽子、井森美幸、森口博子、斉藤由貴、浅香唯、おニャン子クラブ、中村繁之、芳本美代子、森下恵理、網浜直子、大西結花、いしのようこなど、のちにトップアイドルになる華々しい顔ぶれと並んでのデビューだった。それぞれ歌手、役者、タレント、モデルなどの道を進み活躍している。

1986年には前年以上の活躍を見せ、ヒット曲を連発。トップアイドル歌手として多くの歌番組に出演していくようになる。そしてこの頃から日立製作所や資生堂など大手企業のCM出演も多くなるなど、名前も全国区となる。1987年に放送された主演ドラマ『ママはアイドル』の役柄・中山美穂の愛称ミポリンが、実際の中山の愛称としても定着した。同年ブロマイド売上枚数が女性部門でトップになる。しかし、11月に溶連菌感染症に罹り、主演ドラマ『おヒマなら来てよネ!』(フジテレビ系)の撮影中断を余儀なくされ、当初の予定より1話減らした9話で完結することになった。

1988年に『第39回NHK紅白歌合戦』に初出場し、以後1994年の『第45回NHK紅白歌合戦』まで7年連続で出場した。
1989年1月、フジテレビ月9枠のドラマ『君の瞳に恋してる!』に主演。男性だけではなく女性からも憧れを誘う存在となって、以後、その月9枠の常連となり、主演が7作品と、女性では最多を記録している(男性を含めると木村拓哉に次ぐ第2位)。また、主演と主題歌を担当した作品も4作で、最多である。

80年代後半に最も活躍した女性アイドル四人(中山美穂、工藤静香、南野陽子、浅香唯)は当時女性アイドル四天王と呼ばれていた。別冊宝島の調査によると、1980年代のシングル総売上げは年間ベスト50位以内のものに限っても245.6万枚と当時の女性アイドル中5位であった。年間ベスト50位以内ランクイン曲数10曲と当時の女性アイドル中3位であった[6]。

歌手と女優の両立

1990年代に入り、1980年代にデビューした多くのアイドルが女優もしくはバラドルへと転向を図る中、年1本の連続ドラマ、映画、CM、アルバム発売、コンサートツアーと、歌手業と女優業の両立を維持する。
1992年10月、中山美穂&WANDS名義でリリースした「世界中の誰よりきっと」が180万枚を超える売り上げ(オリコン最高位1位)の大ヒットを記録。

1993年1月よりデビュー以来初めてとなる3カ月の長期充電期間に入る。ロサンゼルスに滞在してボイストレーニングやダンスレッスンを受けるが、4月リリース予定であったNHK連続テレビ小説『ええにょぼ』の主題歌「幸せになるために」のレコーディングは充電期間前に済ませていた(当時のレギュラーラジオ番組「P.S. I Love You」内での本人談)。3月末に帰国し4月、読売巨人軍の開幕戦の始球式で投手役を務める。デビュー以来初めて女優活動を休止し歌手活動メインの1年を過ごした。

1994年2月、「ただ泣きたくなるの」が100万枚を超える売り上げ(オリコン最高位1位)を記録し、自身単独名義での初ミリオンヒットとなる。前出の『世界中の誰よりきっと』と合わせると2曲目のミリオンヒットとなり、80年代デビューの女性歌手でミリオンヒット2曲は初の快挙で、現在までにこの快挙達成は中山美穂と今井美樹の2人だけである。

1995年に映画『Love Letter』(岩井俊二監督作品)に主演し、各映画祭で主演女優賞を受賞。
1996年11月、シンガーソングライター岡本真夜とのコラボレーションにより「未来へのプレゼント」をリリース。
1997年公開の映画『東京日和』(竹中直人監督作品)がロングランヒットを記録。また、映画賞で主演女優賞を受賞。

1998年秋クールの連続ドラマ『眠れる森』(フジテレビ系)に主演。SMAPの木村拓哉と共演し、最高視聴率30.8%を記録。
1999年9月にリリースした「Adore」が、現時点での最後のシングル発表曲である。以後、歌手活動を休止している。
2001年春クールの主演ドラマ『Love Story』の平均視聴率が20%越えを達成。これにより1980年代、1990年代、2000年代の三世代で主演ドラマ平均視聴率20%越えを達成した唯一の女優となる。同じく10代、20代、30代での主演作品としても平均視聴率20%越えを達成した唯一の女優となっている。


角松 敏生(かどまつ としき、1960年8月12日 - )は、シンガーソングライター、ミュージシャン、音楽プロデューサー。東京都渋谷区代々木出身。身長169cm。血液型A型。日本大学鶴ヶ丘高等学校、日本大学文理学部卒業。

人物

1981年、20歳でプロデビュー以来、約30年に亘りシンガーソングライターとして自身の名義による多くの作品を発表し、例年の全国ツアーなどライブ活動もしている。その傍ら、1980年代半ばから杏里や中山美穂といった他アーティストへの楽曲提供と、それに伴う音楽プロデューサー業も手掛けている。1997年、長万部太郎名義でのバンド活動およびプロデュースした「WAになっておどろう」(AGHARTA(アガルタ)とV6が同時期にカバー)が一般的に知られる。他アーティストへのプロデューサー業で数々のヒット曲を生み出したのに比べ、本人名義としては一般的な認知を得られるほどのヒット曲を持っていないことを自身でかなり気に掛けていて、今後の目標のひとつにその達成を掲げたいと、近年はライブのMCやインタビューなどで表立って言及している。

発表する曲は海・夏・リゾートを連想させる曲(特に初期)や中期以降では深遠な恋愛観・精神世界・喧騒な夜の都会を連想させる曲が多く、曲の作り込みに強いこだわりを持つ事からSNSやメディアでは音楽職人と称されている。角松自身の音楽スタイルは、自身が尊敬している山下達郎や大瀧詠一等の影響でシティポップ・ニューミュージックを基調とする一方、R&B・ファンク・ソウル音楽等のブラックミュージックの要素を巧みに取り入れている事から、久保田利伸・SING LIKE TALKING・TUBE・大沢誉志幸・安全地帯等後進のミュージシャンやバンドにも影響を与えている。
乱視が有り、青年時代からメガネを着用している。(「Wikipedia」より)


あちこち「SYOWA」 435 菊池桃子 - 雪にかいたLove Letter

2018-09-30 00:29:13 | 日記
アイドルという印象しか持っていなかったが、政治の世界でも活躍しているということを知り関心を深めました。ストーカーされた・・・、いや、このことはよしましょう。いや増す魅力に魅かれています。


菊池桃子 - 雪にかいたLove Letter



菊池 桃子(きくち ももこ、1968年5月4日 - )は日本の女優、歌手、タレント[1]、大学教員[1]、ナレーター。80年代アイドル。
2012年(平成24年)に法政大学大学院政策創造研究科で雇用問題を専攻し、修士号を取得。同年から母校の戸板女子短期大学の客員教授に就任し、労働分野の講義を担当。所属事務所はパーフィットプロダクション。一男一女の母。元夫はプロゴルファーの西川哲。婦人雑貨「Emom(エマム)」「korpiko(コルピコ)」のブランドアドバイザーも務めている。菊地は誤記。血液型はB型。愛称は「桃ちゃん」。


人物

東京都品川区出身。日出女子学園高等学校、戸板女子短期大学被服科美術コース卒業、法政大学大学院政策創造研究科政策創造専攻修士課程修了(指導教授は諏訪康雄)、修士(政策学)。

菊池の叔母が青山で飲食店を経営しており、レジ横に家族や親族の写真を飾っていた。たまたま来店していた音楽関係者がその中の一枚、菊池が微笑んでいる写真に目を留め、その場で菊池の名前や年齢、事務所に所属していないかなど身上を聞いたという。叔母を介し、後日スカウトされる。芸能界入りに関して、菊池の父は学校に行かせること・学業に支障が出ないスケジュールであることを条件とし、本人の希望を優先に承諾した。

元来、大人しい性格の菊池が芸能界に興味を示したのは「見てみたいと思った」程度の好奇心からなる軽い気持ちであり、芸能界に対して強い憧れや目標とする芸能人が存在したわけではないという(考古学者になることが長年の夢であった)。デビュー以前、度重なるオーディションに「自分には向いていない、辞めたい」と思ったと後年、述懐している。

別冊宝島の調査によると、1980年代の年間ベスト50位以内ランクイン曲数5曲と当時の女性アイドル中7位であった。
愛犬家で動物好きである。富士山に造詣が深い。読書家であり(英字書を含む)手工芸や料理が趣味。独身時代は自宅で懐石料理やシチューを数日煮込んで作るほど熱中していたという。

2012年8月より、母校である戸板女子短期大学の客員教授に就任。雇用政策(キャリア教育)について講義を受け持っている。
1991年を最後にソロとしての歌手セールスは行っていなかったが、2014年にデビューから30周年を迎え、4月30日にセルフカバー・ベストアルバム『青春ラブレター 〜30th Celebration Best〜』を発売。5月24日・25日には記念ライブ『菊池桃子30thAnniversary Concert「青春ラブレター」』を開催した。

1982年 - デビュー前の準備の一環として作曲家・アレンジャーである神山純一の自宅スタジオにて歌唱レッスンを始める。初めて神山宅を訪れた際には住所のメモだけで他の情報がないままでの初対面であり、玄関で出迎えたのが神山夫人である元女優・夏純子だったため、なんて美人な奥さんなんだろうと思うと同時に「TVで見たことある人だ!」と、とても驚いたと後述している。また、音楽に関することであれば、歌唱も楽器も神山が全ての質問に明確に回答を示す百科事典のような存在となったため、自分の知らなかった新たな世界が広がっていく感覚が嬉しかったとも明かしている。

1983年10月 - 1984年3月 - ニッポン放送『学園バラエティ パンツの穴』に生徒役で出演し、芸能活動をスタート。

1983年11月 - 学研のアイドル雑誌『Momoco』のイメージガールとなり、創刊号の表紙を飾る。

1984年3月17日 - 映画『パンツの穴』でスクリーンデビュー。ヒロインを演じて注目される。

同年4月21日 - 『青春のいじわる』でアイドル歌手デビュー(トライアングルプロダクション、VAP)。
キャッチフレーズは「It's Real Fresh 1000%」。第26回日本レコード大賞新人賞受賞、日本レコードセールス大賞女性新人賞受賞。ブロマイドの年間売上が1位に。ただし最優秀新人の選考対象とされることについては全て辞退した(辞退理由は「気持ちの整理が付かないから」というものだった。実際は菊池のレコードを製作販売していたバップレコードは日本テレビ系列のための諸事情と言われる。授賞式は海外・サイパンでの仕事のため欠席、ファンへの感謝の手紙がバップ社員より代読された。この年、最優秀新人賞に選ばれたのは岡田有希子)。

純派アイドルとして人気を博し、1985年に行われた日本武道館でのコンサートは、武道館においては当時の時点で最年少公演記録となり、ビートルズの公演の観客動員数を抜き(二万二千人超)、九段下駅から日本武道館へと長い行列が出来、話題になった。入場できなかった観客も一万人超とされ伝説となっている。

4枚目のシングル「卒業-GRADUATION-」から「アイドルを探せ」まで7枚連続オリコン一位の売り上げを記録した。この記録は、1985年から87年にかけてオリコンチャートの上位をおニャン子クラブ関係の曲が独占する中での記録である。
1986年、エランドール賞新人賞受賞。

シングル「夏色片想い」発売キャンペーンとして全国25万人握手会を行う(実際には27万人を動員した)。
1987年、第10回24時間テレビ 「愛は地球を救う」のチャリティーパーソナリティーをつとめ、武道館での出演の他、国連国際居住年親善大使としてアフリカ取材も行った。

1988年2月 - 記者会見を行い、ロックバンド「ラ・ムー」を結成、自らがメインボーカルを担うと宣言した。シングルをリリース、ライブも行ったが興行的には失敗。1989年のシングルリリースを最後にバンド活動は凍結。事実上解散となった。以降、菊池は歌手業を抑えて女優業にシフトチェンジする。

1994年8月8日 - 1993年に「フジサンケイクラシック」のプロアマ戦で一緒にラウンドを回ったことが縁で交際をしていたプロゴルファーの西川哲との婚約を発表。1995年4月24日に挙式をする旨を記者会見で明らかにした。

1995年 - 3月3日、西川側から結婚を無期延期する旨を伝達される(西川と西川の父・西川幸男の確執が原因などの憶測)。結婚延期を撤回して欲しいと菊池は西川の父に懇願したというが「ひいては菊池の将来のためでもある」と受け入れて貰えなかった(西川の父は菊池を大変気に入っていたという)。その4日後、菊池は心労から体調を崩して吐血。十二指腸潰瘍穿孔の診断を受け、約4週間の入院治療を受けることになった。倒れた菊池を案じた西川の父は二人の入籍は認め(挙式は西川がゴルフで結果を出してから)、菊池の快復を待って5月に日取りを決めた。これらの出来事があって、西川は一念奮起して練習に身を入れるようになる)。

1995年7月、「日経カップ 中村寅吉メモリアル」で2年ぶり3度目の優勝を果たし、晴れて挙式の条件がクリアとなった。

1995年5月1日 - 入籍。
1996年2月6日 - 高輪プリンスホテルで挙式。西川の師匠であるプロゴルファー・青木功が媒酌人を務めた。挙式後の会見で妊娠4カ月であることを明かした。

1996年8月7日 - 長男を出産。
2001年10月18日 - 長女を出産。

2008年3月31日 - TBSの生活情報番組『はなまるマーケット』の月曜レギュラーとなる。
2008年5月28日 - 14年ぶりとなる鈴木雅之とのコラボレーションシングルとなる「恋のフライトタイム〜12pm〜」をリリース。
2009年1月4日 - テレビ朝日『人生の楽園』のレギュラー(ナレーション)となる。

2010年3月31日 - 『はなまるマーケット』の月曜レギュラーから水曜レギュラーになる。
2011年3月23日 - 『はなまるマーケット』を卒業(後任はいとうあさこ)。
2011年7月30日 - 文化放送『菊池桃子のライオンミュージックサタデー』のメインパーソナリティとなる。
2012年1月28日 - 西川哲と離婚していたことが判明し、菊池本人が同日、所属事務所を通して離婚を正式発表した。具体的な理由については明かされていない。

2012年2月28日 - 『週刊朝日』3月9日号で離婚前から特定疾患シェーグレン症候群を患っていることを明かした。
2012年3月25日 - 法政大学大学院政策創造研究科政策創造専攻修士課程修了、修士号(政策学)取得。研究分野は「雇用政策を踏まえた人々のキャリア形成」。

2012年8月1日 - 母校・戸板女子短期大学の客員教授に就任。キャリア教育の講義を担当中。
2013年4月16日 - 労働者が自分の働き方を主体的に選べる「キャリア権」の普及を目指すNPO法人「キャリア権推進ネットワーク」が発足、理事に就任。


2014年4月30日 - 23年ぶりのアルバムCD『青春ラブレター 〜30th Celebration Best〜』をソニー・ミュージックレーベルズ(エピックレコードジャパンレーベル)から発売。
2015年10月23日 - 「一億総活躍国民会議」の民間議員に起用。
2015年12月17日 - 単行本『午後には陽のあたる場所』を発売。初の書き下ろし著書。
2016年7月 - 文部科学省 初等中等教育局 視学委員就任。
(「Wikipedia」より)