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とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」 133 筒井茅乃(旧姓長井)氏による被爆者証言

2017-04-07 23:01:34 | 日記
Akiraの中学校の初代校長、金築勇逸氏は下記の飯石小学校時代の永井隆氏の恩師であります。
そのことが縁で、永井氏は長崎高等女学校の教授をしている恩師を慕って長崎医学専門学校を受験します。そして、一緒に下宿していました。この師弟関係の強い絆は後々まで続きます。

筒井茅乃(旧姓長井)氏による被爆者証言


永井 隆(ながい たかし、1908年(明治41年)2月3日 - 1951年(昭和26年)5月1日)は、日本の医学博士、随筆家。『長崎の鐘』や『この子を残して』等の著書がある。

生い立ち

1908年(明治41年)2月3日、島根県松江市にて、医師であった父の寛、母ツネの長男(5人兄弟)として誕生。お産の時、頭が大きくて産道に引っかかったままだったので、医者が胎児を切って外に出そうとしたが、母が強く反対して医者が帰ってから何時間かしてようやく生まれた。漢方医であった祖父文隆より1字を授かり隆と命名。同年秋には父の医院開業のため、一家で飯石郡飯石村(現・雲南市三刀屋町)に移り住んだ。

1920年(大正9年)飯石小学校を優等で卒業して郡長賞をもらったが、島根県立松江中学校は補欠の三番目でようやく入学を認められた。県立松江中学校では5年生に級長となり、当時摂政宮であった昭和天皇を全校生徒の先頭に立って迎えた。運動は苦手で運動会の競争はいつもビリから二番目だったと回想している。

1925年(大正14年)、松江中学校を卒業して松江高等学校理科乙類に入学。当時高校のドイツ語教師であったフリッツ・カルシュからドイツ語を学んだ。高校卒業する頃には唯物者となっていたが、後の1947年(昭和22年)12月に高校の恩師である松原武夫宛のはがきによれば、キリスト教徒である彼から初めてイエス・キリストについて話を聞いている。高校では3年間弓の稽古をしたが、上達せずに止めている。

長崎医科大学

1928年(昭和3年)3月 、松江高校を優等で卒業し、長崎医科大学(現・長崎大学医学部)に入学。大学入学まではスポーツの苦手な優等生であったが、身長171センチ、体重70キロと大柄な体格であったことから長崎医大篭球部に誘われ、メモ書きを怠らない熱心さで、明治神宮で行なわれた全国大会で3等、西日本選手権制覇などに貢献。この部活動で上海や杭州にも遠征している。また、同大学のアララギ支社に入って、歌会にも参加した。
高校以来唯物論者であったが、母が1931年(昭和6年)3月29日に脳溢血で急逝したのを機に霊魂があると信じるようになる。その後、パスカルの『パンセ』を愛読し、カトリックに惹きつけられていった。浦上天主堂近くで牛の売買を営んでいたカトリックの森山家に下宿し、後に妻となる一人娘の緑(洗礼名:マリア)に出会った。森山家の先祖は隠れキリシタンで信者を指導し、教会暦を伝承する帳方であった。

1932年(昭和7年)5月、大学卒業式で総代として答辞を読むことになっていたが、卒業式5日前のクラス会の帰りに雨に濡れてそのまま寝たために急性中耳炎にかかり、命を落とすか障害者になるかという重症に陥った。この間、カトリック信者の老婆が世話をしたが、永井がうわごとで「天主の御母聖マリア、われらのために祈りたまえ」というのを聞いて「きっと信者になる」と思ったという。
2ヶ月後にようやく健康を取り戻したが、右耳が不自由になったため、当初志望した内科をやめて物理的療法科(レントゲン科)に入り、放射線医学を専攻することとなった。1930年(昭和7年)11月8日に助教授に就任した末次逸馬の下で助手として放射線物理療法の研究に取り組んだ。

1933年(昭和8年)2月1日、幹部候補生として広島歩兵連隊に入隊し、短期軍医として満州事変に従軍。この間、緑から送られた公教要理を読んでカトリックの教えに対する理解を深めた。

1934年(昭和9年)2月1日 、出征より帰還し、大学の研究室助手に復帰。浦上天主堂の守山松三郎神父を訪れる。同年6月に洗礼を受け、洗礼名を日本二十六聖人の1人であるパウロ三木に因んでパウロとした。同年8月に森山緑と結婚。洗礼後まもなく妻の仲介によりカトリックの信徒組織である聖ヴィンセンシオ・ア・パウロ会 (ヴィンセンシオ会、Society of Saint Vincent de Paul)に入会。無料診断・無料奉仕活動などを行い、この頃に培った奉仕の精神が、晩年の行動へと結びついて行く。

1935年(昭和10年)2月、急性咽頭炎に蛋白刺激療法を試そうとして雑菌を注射した後にアナフィラキシー症状を起こして危篤となった。そのため、終油の秘蹟を受けた。大学の景浦内科部長の手により助けられたが、それ以来喘息が持病となった。

支那事変

1937年(昭和12年)、長崎医科大学の講師に就任。長女の郁子が生まれる。同年7月の支那事変(日中戦争)勃発後まもなく第5師団衛生隊隊長・軍医中尉として出征。河北・河中・河南で計72回の戦闘に従軍した。現地では日本軍のみならず、中国人への医療にも従事し、現地の知事から感謝の印として対幅の書を贈られた。また、現地でも長崎のヴィンセンシオ会から必要な物資を送ってもらい、現地の聖ヴィンセンシオ会を通じて分配した。

帰国後

1940年(昭和15年)2月に日本に帰国。功績により功五級金鵄勲章を受章。同年4月に長崎医科大学助教授・物理的療法科部長に就任し、 1944年(昭和19年)3月3日、『尿石の微細構造』で医学博士号を授与された。
戦時中は結核のX線検診に従事したが、フィルム不足で透視による診断を続けたため、1945年(昭和20年)6月 には被曝による白血病と診断され、余命3年の宣告を受けた。この時白血球数10万8000、赤血球数300万(正常値は白血球7000程度、赤血球500万程度)であり、発病は1940年 (昭和15年)と推定された。
また、この頃は「この戦争は是非勝たなければいけない。日本国のために、陛下のために。」と口癖のように言い、地域の婦人部の竹槍を指導したり、肝試しと称して血の付いたガーゼを暗くした部屋に散らし、骸骨を置いたりして地域の婦人部屋の端から出口まで通らせることもした。

被爆及び救護活動

1945年(昭和20年)8月9日、長崎市に原子爆弾が投下され、爆心地から700メートルの距離にある長崎医大の診察室にて被爆。右側頭動脈切断という重傷を負うも、布を頭に巻くのみで救護活動にあたった。投下された爆弾が原子爆弾であると知ったのは、米軍が翌日に投下したビラを読んでからのことであった。
(永井)先生はまたサッと見られて、顔がもう真っ青になって、豆粒のような汗が滲み出て「あー、これが原子爆弾であったか」先生も放射能の専門家ですからね。「アメリカが原子爆弾の研究をしているということは知っておった。しかしこんなに早くに使えるまでになってるとは、知らなかったー」とそれだけおっしゃった。
3日目の8月11日 、学長代理として指揮をとっていた古屋野教授の許可を得て帰宅。台所跡から骨片だけの状態となった緑の遺骸を発見し、その骨片を拾い埋葬した。8月12日、子供と義母が疎開していた三山(市内西浦上)に行き、そこに救護本部を設置して被爆者の救護に当った。
9月10日頃 、昏睡状態に陥る。直前、辞世の句として「光りつつ 秋空高く 消えにけり」を詠じた。9月20日、傷口からの出血が止まらず再び昏睡状態に陥る。このため救護班は解散。マリア会の田川神父に告解をして終油の秘蹟を受けた。その後、出血が奇蹟的に止まった。本人によると、本河内のルルドの水を飲み、「マキシミリアノ・コルベ神父(かつて診察したことがあった[34])の取次ぎを願え」という声が聞こえたようなので、それに従ったという。
10月15日 、三山救護所で救護活動の合間に「原子爆弾救護報告書」(第11医療隊)を執筆し、長崎医大に提出。その後25年間所在が不明だったが、長崎放送の田川裕記者によって1970年(昭和45年)に発見された。

1946年(昭和21年)1月28日、長崎医科大学教授に就任したが、同年7月には 長崎駅近くで倒れ、その後は病床に伏すこととなった。11月17日、 長崎医学会にて「原子病と原子医学」をテーマに研究発表を行った。


(Wikiより)

如己堂

永井隆が死までの3年あまりの日々を過ごした如己堂(長崎県長崎市)
1948年(昭和23年)には荒野となった浦上の地に花を咲かせようと、桜の苗木1000本を浦上天主堂をはじめとする各所に寄贈。これらの桜は「永井千本桜」と呼ばれた。3月、浦上の人たちやカトリック教会の協力により、永井が療養を行うための庵が完成する。「己の如く人を愛せよ」の言葉から、庵の名前を「如己堂(にょこどう)」と名付けた。8月、大学を休職し療養に専念。1948年のニュース映画「日本ニュース」の取材に、「ろうそくがもう切れかけてるようなもんですけれどね、最後までやっぱり光になって、ばーっと光ることができると思います。」と語る。
10月18日、来日中のヘレン・ケラーが見舞いに訪れる。予告なしの不意な訪問であった[39]。1949年(昭和24年)5月27日、昭和天皇に謁見。5月30日、浦上公民館で日本に運ばれていたフランシスコ・ザビエルの聖腕に接吻し、ローマ教皇特使としてギルロイ枢機卿の見舞を受けた[40]。当初は聖腕と特使が如己堂に来ることになっていたが、永井はそれを辞退して公民館まで出向いた。
8月1日 、長崎市長から表彰を受ける。9月30日 長崎医科大学教授を退官。12月3日、長崎市名誉市民の称号を受ける。

1950年(昭和25年)5月14日、ローマ教皇特使として大司教のフルステンベルク(Maximilien de Furstenberg)が見舞いに訪れ、ロザリオを下賜される。11月29日、永井がルハンの聖母像を欲しがっているのを知ったアルゼンチン大統領夫人エヴァ・ペロンにより、長崎市に送られたルハンの聖母像が長崎に到着。聖母像は大小2体で、大きいものはペロン夫人から長崎市、小さいものはブラジル在留日本人から永井個人に贈られた。

逝去

1951年(昭和26年)2月には白血球数が39万を超えて危険な状態となる[43]。4月1日に浦上四番崩れで石見国津和野藩(現・島根県鹿足郡津和野町)に配流されたキリシタン守山甚三郎等を中心とした『乙女峠』の原稿を書き始め、4月22日に脱稿した。この原稿は誤字があまりにも多かったため、永井本人が驚く程であった。3日後の 4月25日には右肩内出血により執筆不能となり、これが絶筆となった。
死ぬ前に医学生に白血病の最終段階を見せて、病気への知識を深めるのに役立てたいという永井の希望により、5月1日に長崎大学付属病院に緊急入院。この日まで入院を伸ばしたのはイタリア医師会から送られた聖母像を待つためであった。当初は容態が意外に良かったので、家族は夕の祈りの後に一度家に引き上げた。午後9時40分になって目まいを訴え、一時意識不明になった後で午後9時50分に意識を取り戻し、「イエズス、マリア、ヨゼフ、わが魂をみ手に任せ奉る」と祈り、駆けつけた息子の誠一から十字架を受け取ると「祈ってください」と叫んだ直後に息を引き取った。

遺言により、翌日5月2日の午後1時半から5時半まで松岡、林教授により遺体解剖が行われ、死因が白血病による心不全であると判明した。脾臓は3410g(正常値:94g)、肝臓は5035g(正常値:1400g)腎臓は左350g、右355g(正常値:左右140g)と肥大しており、心臓は白血病による筋肉組織の破壊が既に始まっていた。腹水は3100ccもあった。

5月3日に先ず浦上天主堂で山口愛次郎司教司式による死者ミサが捧げられた。同日に長崎市は市公葬を行うことを決め、5月14日 9時から浦上天主堂で市公葬が執り行われて2万人が参列した。田川務長崎市長が総理大臣の吉田茂等300通の弔電を1時間半にわたって読み上げた。正午に浦上天主堂の鐘が鳴ると全市の寺院、工場、船舶の汽笛が一斉に鳴り響き、市民は1分間の黙祷を捧げた。その後、亡骸は長崎市坂本町にある国際外人墓地に緑夫人と共に葬られた。
(Wikiより)