まほろば 2015年4月1日放送分
丹羽 文雄(にわ ふみお、1904年(明治37年)11月22日 - 2005年(平成17年)4月20日)は、三重県出身の日本の小説家。
三重県四日市市北浜田にある浄土真宗専修寺高田派の崇顕寺(現在の浜田保育園)で住職を務める父・教開の長男として生まれた。母・こうは、文雄が4歳のときに旅役者の後を追って出奔した。この母への思慕と追憶が、文雄の作品世界には投影されている。母の出奔は、婿養子に来た父が、母の母つまり祖母と男女関係を結んでいたからである。丹羽はのち『菩提樹』にこのことを書き、『ひとわれを非情の作家と呼ぶ』でより平明に説明している。この原体験が、丹羽をして人間の業を見つめる作家となし、その救いを浄土真宗に求める結果となった。
1929年に早稲田大学文学部国文科を卒業後、生家の寺で僧職に就く。同人誌『新正統派』に発表した小説「朗かなある最初」が永井龍男によって評価され、その依頼で書いた「鮎」が文壇で注目され、僧職を捨てて上京し、早稲田大学時代の同棲相手の家に住んだ。新進作家として注目され、『中央公論』や『文藝』の新人特集に『贅肉』『百日紅』が相次いで掲載された。
執筆に行き詰りを感じていた時に亀井勝一郎から「(丹羽の小説は)親鸞から逃れようとしているが、結局は親鸞の足元で遊んでいる」と指摘されたことをきっかけに自らの宗教観について付き詰めて考え始め[2]、のちに『親鸞』『蓮如』などの宗教者を描いた小説を多く残した。文壇の大御所的存在で、後進との交流にも熱心であった。1950年代には同人誌『文学者』を主宰、瀬戸内寂聴や吉村昭、津村節子たちを育成した。また舟橋聖一とは自他共に認めるライバル関係だった。1956年から日本文藝家協会理事長、61年会長を兼任、69年理事長を辞任し、72年まで会長を務めた。
1977年に文化勲章受章、文化功労者。(以上Wikiより)
Aが小説を書くきっかけとなった作品が丹羽文雄の出世作「鮎」であります。小倉の古書店で手にした「藝文書院版・現代文學 丹羽文雄集」の中の冒頭の短編です。書き出しの「海棠と夕顔に雨が降っていた。熊笹の庭を渡っていくと・・・」という書き出しは今でも覚えています。それから次々と読んでいきました。「小説作法」もバイブルとして熟読しました。俳句は止めよう。これから小説だ。そう思いました。そして書いたのが「紅いもの」(原題「子である或る日」)。自伝小説です。大学の新聞で少しばかりいい評価を受け、それから自信のようなものが自然に湧いてきました。文学賞にも応募をし始めました。「出雲文学」という同人誌を発刊し、友達と活動を始めました。
「鮎」あらすじ(すごく感心しました。上手くまとめてあります)
石橋正雄の「生き方上手じゃないけれど」より
津田は実母の和緒から呼び出される。
理由は愛人の守山から入籍を求められ困っているということだった。
和緒は以前、津田が4歳のとき旅芸人と駆け落ちし津田とは離れ離れだった。
しかしその後、いろいろな男を転々としお互い一年に数回顔を合わせるようになるが今は守山の愛人だった。
津田は和緒の17歳のときの子供で母親の面影もなく何年か後に再会しても母親とは思えず年齢の離れた姉弟のように感じた。
しかし自分を捨てたという感情も湧かずそれどころか42歳のわりには色気を感じ自分でも不思議に思っていた。
和緒は過去の行為は詫びつつも津田に対し終始自己弁護で言っているほど反省しているようには見えなかった。
津田は和緒は母親としての自覚より女性の本能を維持していると感じていた。
和緒は守山の愛人としていたが本妻が亡くなったから守山から入籍して欲しいとのことだった。
困った和緒は行方を1ヶ月ほどくらましていたが守山は探していた。
しかし見つからず守山は悲しみのあまり自殺してしまう。
和緒は津田と二人で葬式に出席するが和緒は特に悲しむ様子もなくそれどころか仕方がない、といい食事も平然と平らげる無神経ぶりに津田は辟易する。
今後どう面倒をみたらいいか頭を抱えてしまう。
丹羽 文雄(にわ ふみお、1904年(明治37年)11月22日 - 2005年(平成17年)4月20日)は、三重県出身の日本の小説家。
三重県四日市市北浜田にある浄土真宗専修寺高田派の崇顕寺(現在の浜田保育園)で住職を務める父・教開の長男として生まれた。母・こうは、文雄が4歳のときに旅役者の後を追って出奔した。この母への思慕と追憶が、文雄の作品世界には投影されている。母の出奔は、婿養子に来た父が、母の母つまり祖母と男女関係を結んでいたからである。丹羽はのち『菩提樹』にこのことを書き、『ひとわれを非情の作家と呼ぶ』でより平明に説明している。この原体験が、丹羽をして人間の業を見つめる作家となし、その救いを浄土真宗に求める結果となった。
1929年に早稲田大学文学部国文科を卒業後、生家の寺で僧職に就く。同人誌『新正統派』に発表した小説「朗かなある最初」が永井龍男によって評価され、その依頼で書いた「鮎」が文壇で注目され、僧職を捨てて上京し、早稲田大学時代の同棲相手の家に住んだ。新進作家として注目され、『中央公論』や『文藝』の新人特集に『贅肉』『百日紅』が相次いで掲載された。
執筆に行き詰りを感じていた時に亀井勝一郎から「(丹羽の小説は)親鸞から逃れようとしているが、結局は親鸞の足元で遊んでいる」と指摘されたことをきっかけに自らの宗教観について付き詰めて考え始め[2]、のちに『親鸞』『蓮如』などの宗教者を描いた小説を多く残した。文壇の大御所的存在で、後進との交流にも熱心であった。1950年代には同人誌『文学者』を主宰、瀬戸内寂聴や吉村昭、津村節子たちを育成した。また舟橋聖一とは自他共に認めるライバル関係だった。1956年から日本文藝家協会理事長、61年会長を兼任、69年理事長を辞任し、72年まで会長を務めた。
1977年に文化勲章受章、文化功労者。(以上Wikiより)
Aが小説を書くきっかけとなった作品が丹羽文雄の出世作「鮎」であります。小倉の古書店で手にした「藝文書院版・現代文學 丹羽文雄集」の中の冒頭の短編です。書き出しの「海棠と夕顔に雨が降っていた。熊笹の庭を渡っていくと・・・」という書き出しは今でも覚えています。それから次々と読んでいきました。「小説作法」もバイブルとして熟読しました。俳句は止めよう。これから小説だ。そう思いました。そして書いたのが「紅いもの」(原題「子である或る日」)。自伝小説です。大学の新聞で少しばかりいい評価を受け、それから自信のようなものが自然に湧いてきました。文学賞にも応募をし始めました。「出雲文学」という同人誌を発刊し、友達と活動を始めました。
「鮎」あらすじ(すごく感心しました。上手くまとめてあります)
石橋正雄の「生き方上手じゃないけれど」より
津田は実母の和緒から呼び出される。
理由は愛人の守山から入籍を求められ困っているということだった。
和緒は以前、津田が4歳のとき旅芸人と駆け落ちし津田とは離れ離れだった。
しかしその後、いろいろな男を転々としお互い一年に数回顔を合わせるようになるが今は守山の愛人だった。
津田は和緒の17歳のときの子供で母親の面影もなく何年か後に再会しても母親とは思えず年齢の離れた姉弟のように感じた。
しかし自分を捨てたという感情も湧かずそれどころか42歳のわりには色気を感じ自分でも不思議に思っていた。
和緒は過去の行為は詫びつつも津田に対し終始自己弁護で言っているほど反省しているようには見えなかった。
津田は和緒は母親としての自覚より女性の本能を維持していると感じていた。
和緒は守山の愛人としていたが本妻が亡くなったから守山から入籍して欲しいとのことだった。
困った和緒は行方を1ヶ月ほどくらましていたが守山は探していた。
しかし見つからず守山は悲しみのあまり自殺してしまう。
和緒は津田と二人で葬式に出席するが和緒は特に悲しむ様子もなくそれどころか仕方がない、といい食事も平然と平らげる無神経ぶりに津田は辟易する。
今後どう面倒をみたらいいか頭を抱えてしまう。