橡の木の下で

俳句と共に

「荒梅雨」令和2年『橡』9月号より

2020-08-28 11:26:13 | 俳句とエッセイ
 荒梅雨   亜紀子

大人びて無口になりぬ巣立ちつ子
姦しや鴉一家も朝餉どき
子を宥めすかしつ来鳴く四十雀
つばくらめ口元がまだをさな顔
鬼百合も雨にかうべを垂るる日々
荒梅雨や一日甍の雨を見る
顔洗ひたるよな月が梅雨のひま
こころもち今夏熊蟬覇気のなき
胡麻つぶの飛蝗食ひをる子蟷螂
肉を食ふ蟷螂は良き花圃の番
思はざる路地に百合咲く札所寺
蟬ひとつ呟く窓の白みゆく
夕蟬のけふが寂しと鳴きつのる
歩く夜々ふたつ大きな梅雨の星
灸花いささか人を拒む性


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「また会おう」令和2年『橡』9月号より

2020-08-28 11:22:06 | 俳句とエッセイ
 また会おう   亜紀子

 梅雨最中、今年も各地から雨の被害が報告された。庭では長引く雨にしびれを切らした蝉の羽化が始まる。その大方は熊蝉で、朝刊を取りに出ると抜け殻がいくつもぶら下がっている。木の葉の裏というのが昨年までの定位置だったのが、今夏の変身場所には草花が選ばれている。まだ蕾のままの百合の茎、アガパンサスの花弁、ミントやランタナの細茎に木苺の葉。どれも地面から幾ばくも離れていない低い位置。湿った草むらに散在する空蝉を眺め不思議の感。これもコロナの影響か。
 いや、蝉にコロナウイルスは関係がない。日照時間や気温の問題なのだろうが、何か変わったことがあるとつい「コロナ」と思ってしまう。何となく気分の冴えない時にはこれもコロナ籠りのせいだわと呟く。実際のところコロナはあまり関係ないとは思うのだが。
 籠りがちで新聞をはじめ身辺にある活字に時間をかけるようにはなった。家族の元に毎月届くJAFの冊子。その巻頭エッセイ「幸せってなんだろう「。ブレイディみかこが”We will meet again.”怒涛のコロナ禍の英国でこの四月にエリザベス女王が行ったビデオスピーチの一節を取り上げていた。第二次大戦中に流行った歌の文句とのこと。ブレイディ氏が保育士として働きながら、英国の政治、経済、社会について現場から実際に即し洞察した著『子どもたちの階級闘争』や『ぼくはイエローでホワイトでちょっとブルー』は橡にも多くの読者がいるのでは。彼女は人をよく見、よく聞き、その背後にまで思いを寄せる。べとつかず、歯切れの良い文体の芯から筆者の人としての心の在りどころ、カタカナ語でいえば、ヒューマニティーが滲み出る。
 さて前述のエッセイに話を戻そう。英国人は女王の「わたしたちは再び会います。」に皆落涙したのだそう。ブレイディみかこは都市封鎖中でもネットで繋がっている(会っている)のに何故泣かされるのかと思ったそうだ。しかし人間が真実人間を信頼するには嗅覚、触角、味覚など五感の交歓が重要な鍵になると知る。共に餌を食い、匂いを嗅ぎ合う狼の群れのように。オンラインの繋がりと、会うこととの違い。それを本能的に知っているから皆涙したのだろうという。技術がどんなに発達しても人を幸福にするのは「会う」喜び。そして筆者自身ビデオ通話を切るたびに「絶対また会いましょう」と女王みたいなことを言っているのに気づくという。
 コロナからは離れるが、永遠の別れに臨んで「また会おう」と言ったのは遠藤周作ではなかったろうか。実際に言ったかどうか記憶定かでないが、キリスト教者として遠藤は死をそう捉えていたように覚えている。
彼はキリストの復活を信じていたから。エリザベス女王の言も同様の観点から解釈すると王室シンパでなくともいささか胸が切なくなる。晩年父星眠は電話を切るときに「また会いましょう」とよく言っていた。会える望みのないであろう人々に。それは重くはなく、さらりと星眠流の言葉つきで。
 「ロングタイム・コンパニオン」(一九八九年)という映画を久しぶりにネットで観た。これもコロナの暇といえなくもない。話はコロナ禍ならぬエイズ禍。八十年代初頭から原因不明の病として主にゲイコミュニティーを恐怖と悲しみに陥れたHIV。ウイルスの正体が分かり薬剤が作られたが、それまでに多くの人々が亡くなった。恋人や、仲間が恐れ慄きながら支え合うそのヒューマニティーの物語。私の贔屓の俳優は残念ながら話の早々に亡くなってしまう。映画の最終シーンで海辺を歩く主人公の一人が“(自分は生き残ったが、)亡くなった皆のところに居たい”と言うと、別の者が第二次大戦のように?と返す。そして向こうから亡くなった仲間たちが続々と笑顔で歩いてくる幻影。贔屓の俳優も混じって。やがて再会の幻は消え砂浜が続く。
 また会おうとは我々の切実な願い。我々の存在理由。それを巧妙に断ち切ろう切ろうとするコロナは感染症の中でも相当厄介だ。
 不意に一期一会という語が浮んだ。また会おうという思いの表と裏かとも思う。

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選後鑑賞令和2年「橡」9月号より

2020-08-28 11:12:58 | 俳句とエッセイ
選後鑑賞    亜紀子

井戸水をかけられ涼む波止恵比須  喜多栄子

 恵比須様は陸では商売繁盛や五穀豊穣、海にあっては大漁と航海安全の神様。波止に祀られているのは漁師の守り神だ。東日本大震災で流され行方知れずとなっていた気仙沼の恵比須像が、復興のシンボル新恵比須像建立と時を同じくして発見され海底から引き上げられた不思議のニュースは今年の初め。
 掲句は長崎の神様。長年人々から崇められ、愛されてきたのは同様だ。お暑いでしょうと、柄杓で井戸水を浴びさせてもらう恵比須さん。港の暮らしぶり、その音までが聞こえてくる。
 ところで、調べてみると長崎市深堀町には佐賀鍋島藩由来で昔からたくさんの恵比須さんが祀られている由。砂岩で作られた像は補強のためにカラフルなペンキで色塗りされている。在わす場所によって「波止」「浜」「屋敷」と三つに分類されているとのこと。掲句の波止恵比須は石の祠入りでペンキは施されていないようだ。

風鈴や古きドラマの若き顔     奥村綾子

 一読「お茶の間」の語が浮かんだ。畳に卓袱台、縁側の風鈴の音も涼しく。麦茶やビールを手にテレビドラマに興じる家族団欒のひと時、あるいは一人くつろぐ宵。しかしそれは過ぎ去った日々。「古きドラマの若き顔」に全てが語られ「風鈴」の語は動かない。

逃げ残る毛虫高枝に首振れる    田村美佐江

 毛虫焼きは虫が孵化した直後、まだ集団でいる間に行わないと効果が薄い。知らぬ間に大きくなってあちらこちらへと移動してしまってからでは厄介だ。掲句の毛虫も少し成長していたようで、焼き尽くしたつもりが高枝の葉裏で首をもたげている。次はどこを食べようかと頭をゆらゆらさせる様が、毛虫にそのつもりはなかろうが、してやったりとこちらをおちゃらかしているようにも見える。

紫陽花の小毱順繰り揺れてをり   志水美穂

 紫陽花には額咲きや洋風の房咲きなど色かたち様々あって楽しい。ここでは一般的な手毬咲き、しかも小柄な花が道に沿って咲き続いているようだ。風の毱つき遊び。作者の足取りも弾んでいる。
 コロナ籠りの雨がちな日々の中、掲句に心の持ち方を学びたい。

虫啣へ親のあと追ふ四十雀     郡裕子

 四十雀は随分と人の生活に馴染むようになった。身近な場所で営巣し、子連れで庭先へやってくる。作者も日々親しく小さな一家を観察していると思われる。
この子が咥えた餌は自力で取ったものか、親が与えたものか。そろそろ親離れの時期なのかも知れない。

落とし文の作製中をまのあたり   内田一枝

 星眠先生の落し文の句を探してみた。

落し文卵一粒封じあり 
拾ひけりポーロ像下の落し文 
さりげなく霧の岩根に落し文
解きがたき落し文なり人をまつ 

どの句もすでに文書き終えて封じられたもの。林を歩いていて落し文の揺籃を見つけることは間間あるかも知れないが、掲句の作者のように只今作製中の虫に出会うのはよほど運が良いのでは。
 落し文の主は小さな甲虫。様々種類があるようだが、基本は餌となる葉をしっかり巻いた揺籃の中に卵を産み、孵った幼虫はしばらくはその巻葉を食べて成長する。
揺籃の作り方、事後処理の方法、虫によって違いがあるとのことだ。何れにしても小さな体で、糊も糸も使わず、手足と口だけで作られる森のスマートメール。じっくりと実際を見てみたいもの。 

 


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令和2年「橡」9月号より

2020-08-28 11:08:43 | 星眠 季節の俳句
波が掃く風葬窟の盆道は  星眠
             (青葉木菟より)

 昭和五十二年、奄美群島への旅。掲句には民謡の調べがある。一連の作品中、次の句も。
    徳之島・戦艦大和鎮魂碑
海へ供華歌ひ了せぬ蟬ばかり    
            (亜紀子・脚注)


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草稿08/28

2020-08-28 10:20:19 | 一日一句
鈴虫の夜や隣り家の小窓より  亜紀子

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