マスク 亜紀子
年末に帰省した娘が派遣のアルバイト登録をして一ヶ月の間に何度か仕事に通った。早朝家を出て、市営地下鉄と私鉄を利用し職場の最寄り駅で他のアルバイト人員と集合。そこからは皆一緒にバスに乗せられ作業場へ。大きな配送会社で朝から夕方まで伝票に従い段ボール箱に商品をひたすら詰めるという業務。二月のバレンタインデー用の雑貨がほとんどだと言う。うまく箱に収めるにはそれなりの工夫が要るそうで、八時間から九時間、思ったほどには退屈しなかったそうだ。
時節柄、風邪やインフルエンザが心配だからとマスクをかけて出かけた。一日目を終えて帰宅した娘のマスクを捨てる時に目を疑った。マスクの外側は真っ白なのに、内側に真っ黒の汚れが三カ所。一瞬考えて、即納得。鼻の穴の形のが二つ、口のサイズのがその下に。マスク越しに吸い込んだ塵を内側に吸着したらしい。作業は広い倉庫の中で行い、周囲はひっきりなしに大型トラックが往き来しているそうなのでおおかたディーゼルの排ガスではないかと思う。長居しちゃいけないよと。翌日からは午前、午後用にと二枚以上のマスクを携行して出て行った。午前、午後ともにマスクの内側は真っ黒の模様付き。分かったのは、そこが鉄鋼メーカーの町で、黒い塵は排ガスではなく製鉄所から出るものらしいということ。同じバイトのベテランの言では半年続けていたら目がアレルギーになったそう。
マスクは風邪の予防にはならないよとは聞かされていたが、コークスだか、鉱滓だかの粉塵がいとも簡単に透過するのだから細菌やウイルスは言わずもがな。またそれ以来信号待ちの交差点に立っていると、目にはさやかに見えねども、往来の車の排ガスも辺りに充満しているように感じられ、息をするのが憚られるような気持ちになった。
そうこうしている間に休暇を終えた娘は家を去り、あとには新型コロナウイルス感染の大騒ぎが始まっていた。中国湖北省の武漢で十二月初旬に最初の報告がなされて以来、中国もWHOもまごまごしている間に蔓延。当局が事の重大性に気付き市民の移動を制限した時既に遅く、春節の人民大移動の第一波五百万人は武漢を離れてしまった後だった。世界中に飛び火するのは必至。当初、中国、WHO共に株式市場を眺めながら情報を小出しにしてたんじゃなかろうかと勘ぐりたくなる。
いったい、この感染は収束するのかどうか、令和二年三月あたま、この文章を書いている時点では先が見えない。季節の流れで収まっていくだろうか。このところ従来のインフルエンザすら季を忘れて流行するのだから分らない。というより、温暖化で季節の方が狂っているのかもしれないが。専門家の推奨する予防法は人混みを避け、手洗いをしっかり行い、十分な睡眠、食事を取って普段から養生するというごく当然のこと。マスクの予防効果はどうも不明。罹患して咳が出るなら必要だろうが、そもそもその状態で人の中へ入っては駄目だろう。
使い捨ての紙マスクはどこを探しても品切れ。ウイルスには効力がないにしても、花粉症としてはちょっと困った。この春は花粉の量が少ないらしいというのは不幸中の幸い。
マスクして往診しをり遷子の忌 星眠(青葉木菟)
医師迎ふ子豚の顔や流感期 星眠(営巣期)
橡集三月号にマスクの別の使い道としてこういうのもあった。
マスクしてカルロス・ゴーン逃亡す 片岡嘉幸
ゴーンさんも新型ウイルスの前では遠くなった感があるが、山河集には
外つ国へ逃げるが勝ちか除夜の鐘 原田清正
これは何ごとかと思いきや、ゴーンと除夜の鐘。笑いは免疫力を高めるというから、朗らかに行こう。