愛知池一周 亜紀子
愛知池と呼ばれる人造湖がある。愛知県尾張地方と知多半島に用水を供給している愛知用水の調整のための小型のダムだ。上流にある木曽川水系の三つのダムから送られる水を溜めている。水はここからさらに下流域の農業、工業地帯に回される。日進市、みよし市、東郷町の三自治体にまたがる池の周囲は七・二キロメートル、周遊できる管理道路は長距離ランナーの練習のメッカとなっている。平成六年の国体のボート競技場となってからは、漕艇の練習や大会場としても利用されている。
たまたま時間を得てひとり池の周りを歩いてみた。名古屋市内の地下鉄が地上へ出て、名鉄の豊田線に乗り入れると周囲の緑がぐんと多くなる。日進市の米野木駅で下車して徒歩七、八分で池の入口へ。駐車場があり、域外のランナーはここまでは車で来るようだ。女子フルマラソンに出たこともある名古屋橡会のHさんもここで練習していると聞いた。土日は混雑しているそうだが、今日は平日なので数台が駐車しているのみ。栗の花の真っ盛り、どこからか頬白の囀り。静かなものである。
池に沿って少し歩くと、緑の堤に茅花が揺れ、さらに眼下には代田が光っている。開けた空に雲雀の途切れぬ歌声。田畑、住宅、工場が散在している様子はいかにも都市郊外の景色である。小川に小橋、その向うだろうかスキャット混じりの葭切の歌も切りもなやだ。
足を止めることなく進んでいると、動物園でもあるのかと思うような賑やかな声がする。鳥の声らしい。湖畔の木々の茂りの間から小さな島が見えてきた。道が回りこんで島の真ん前に来ると、そこは鵜のコロニー。立ち木の高いところに小枝を組んだ巣がいくつもあり、一羽ずつ黒い川鵜を載せている。別の鵜が池の方から飛んで来る。巣上の鳥は声をたてる様子は見えないのだが、島全体が揺れるような姦しさは不思議。こちらから見えぬ角度の場所で、既に雛が孵っているのかもしれない。道をちょっと逸れて、小高い広場にコンクリート製の観音様が林越しに鳥たちを見下ろしているのがお誂え向きだ。
桜の並木はすっかり青葉となって小径に陰を作っている。春先に歩くのも楽しいだろう。ほど近いところで老鴬。どこにいるのかと探していると水の方から不意に甲高い谷渡りのような声。ああ、鳰が顔を出している。今度は林の方からケッ、ケッ、ケッと大きな声がする。時折止んで、またすぐ鳴き始める。珍しい鳥がいるのかもしれないとしばらく木立ちの中を覗く。一向にそれらしい姿は見つからない。思い出した、あれは雨蛙。
柵の外に楝の木が淡い花を咲かせて並んでいるのは実生で自然に育ったものだろう。暗い篁のさらに奥、大瑠璃らしい声。あるいは黄鶲だろうか。水に沿うこんな道がどうかすると外の一般道に並び、頭上を過ぎった四十雀の声がひっきりなしの車の音に変わる。日常の思いが無意識に頭の中へ戻って来る。もしも緑の中を歩き続けていれば、そのまま日常も忘れ続けてしまうだろうか。ふわら、ふわらと三筋蝶が通り私の問いかけを軽く流して消えていった。
湖畔の道が名鉄の高架下をくぐる。池のくびれに掛かり、米野木駅とみよし市の黒笹駅を繋ぐ鉄橋。周遊散歩も終盤。とうとうほとんど人に行き会わなかった。
焦燥に駆られる若者がいる。焦燥にはそれなりのゆえがあり、一方でゆえなしとも言える。得体の知れない辛さ。誰に替わってやることもできず、替わりのないことは本人が一番知っている。傍の者ができるのは究極にはただそこに居るということだけ。そこ、ここの池の面に突き出した朽ち木の上で亀が甲羅を干している。ぴくりともしない。私は、亀に似ている。
池を後にして、遅い昼食をとる。インド、ベトナム、タイ料理を出す店。大手メーカーの工場の並ぶ場所柄、外国籍の働き手が多いのだ。インド系の若者がベトナム・ランチセットを運んでくれた。