夜伽の灯 亜紀子
左義長の跡の小黒き帰郷かな
母がりの父の蝋梅咲き満ちぬ
枯園や鶇は黙し考へる
北風吹くや古屋くまぐま泣きにける
門までの木道冬萌え車椅子
呼べば父のまぶた動きぬ冬ぬくく
霜の道地より銀漢立ちあがる
冬尽くや螺子止まるごと人の逝き
夜伽の灯寒し宿題する吾子に
句帳手に父が居さうな雪浅間
荼毘果つるまんさくに日の移りきて
帰るさの鶇かひとり弾みをる
さうさうと日照雨過ぎゆく芽吹き前
蕗のたうみな空向いて胸ひらく
ころころとよく笑ひたる鳰の恋
夜伽の灯 亜紀子
左義長の跡の小黒き帰郷かな
母がりの父の蝋梅咲き満ちぬ
枯園や鶇は黙し考へる
北風吹くや古屋くまぐま泣きにける
門までの木道冬萌え車椅子
呼べば父のまぶた動きぬ冬ぬくく
霜の道地より銀漢立ちあがる
冬尽くや螺子止まるごと人の逝き
夜伽の灯寒し宿題する吾子に
句帳手に父が居さうな雪浅間
荼毘果つるまんさくに日の移りきて
帰るさの鶇かひとり弾みをる
さうさうと日照雨過ぎゆく芽吹き前
蕗のたうみな空向いて胸ひらく
ころころとよく笑ひたる鳰の恋
「だまし絵」展 亜紀子
市立美術館にかかっていた「だまし絵」展を見に行く。古典的絵画から、コンピューター制御の現代アートまで、古今東西の視覚のトリックを使った様々な作品が並べられている。生憎の雨ながらそこここに梅が咲きほころび、すれ違う人々の顔も何となく明るい。
最初の壁に掛けられていたのは十六世紀ミラノ出身の画家ジュゼッペ・アルチンボルドの描いた二枚の肖像画。緻密、精巧な筆致で実物そのもののように見えるその絵が「だまし絵展」にあるのは、人物の顔が幾つもの「物」を組み合わせて作られているからだ。「司書」という人物は何冊もの本や、本の埃をはらう毛叩きや栞の組み合わせで拵えたもの。もう一つ「ソムリエ」は顔も体も樽や瓶、グラスに漏斗などなどワインに関わる物や道具だけで合成。ワインの道具の知識が私にもっとあれば、さらに深く絵の仕掛けを味わえるのだろう。それにしても書物の塊のような司書の顔はあまり利口そうでない。大樽の腹を突き出したソムリエは赤い帽子の反射ゆえか赤ら顔でいかにもワイン好き。人物像を彷彿させる肖像画というべきか、静物画というべきか。これらは画家が頭の中で組み立てたものか、あるいは実物を実際に組み立ててから描いたものか。ワイン男の絵を仔細に眺めると、陰影の付き方が自然で本物を構築してから写生したような気がするが、果たしてどうだろうか。
ごちゃごちゃのワイヤーが白い壁にくっきりと一匹の蚊や蜥蜴の影を結ぶラリー・ケイガンの作品、同様にごたごたの黒い物体が鏡の中に重厚なグランドピアノの影を現す福田繁雄のオブジェ。幻影にあれっと騙される面白さ。また「大山蓮華」と題された作品はどこを探せど幻影すらない。ふと上を見上げれば一輪の大山蓮華の花がこちらを見下ろしている。しかもそれが木彫と知る。そうかと思えば「無題」と書かれたプレートでは今度こそ本当に白い壁しか見出せない。無ということかしら、それではあまりに人を馬鹿にしていると思いきや、随分と間の抜けた方向に蝿のような蜂のような虫が一匹止まっている。再びプレートに戻って確認すると「無題」作品の材料は針金、粘度、綿毛、毛、プラスチックに塗料とちゃんと記されていた。
物や事に騙されるには、それ以前の自分の体験の記憶が必要である。「これ」は過去に照らし合わせて「こうあるべき、こうなるべきだ」という思い込みをはぐらかされて引っ掛かるわけだ。会場の中ほどで二歳になるやならずの女の子が大泣きして父親を困らせていた。小学生くらいになると親子でトリック明かしを楽しんでいる。泣いていた子は騙されるには経験不足で飽きてしまったのだろう。子供に悩みや不安がない、あるいは少ないというのも同じ原理かもしれない。自分の過去の経験と結びついて、またあれと同じくらい辛いことになりそうだと思うと、さらに先々が不安になるのだ。考えてみれば、悩みとはトリックに引っ掛かった心の幻影に過ぎぬのかもしれないが、人は年を経るほどにその嵩も増していく。
「ログ・キャビン」という作品は丸太小屋の窓の内と外を眺める仕掛け。一面では心地良さそうなソファやクッションや壁掛けに囲まれてぱちぱちと燃える暖炉を、裏面へ回ると針葉樹の林に小止みなく降る雪を、液晶ディスプレイがそれぞれに映している。その見え方が非現実的で室内側から室内が、室外側から室外が見えるのだ。私は多分作者の意図とは別に、雪の針葉樹の映像に魅せられてしまった。かつて暮したカナダの冬、それから札幌にもこんな風景があった。白と灰色と黒色の濃淡の情景に音なき音が流れていく。どこか別の場所でも見た事がある。頭の中を探していると、はたと思い出した。『自然讃歌』の挿入写真にいくつもあったような気がする。遷子、星眠、公二、若き三人の詩人が並んで歩いている道はこんな所ではなかったか。
記憶のトリックは喜びも生みだしてくれる。俳句という言葉も、蓄えた記憶を引き出しては紡ぎ直すトリックだ。日々、広く経験し、深く生きること。身のうちに蓄えを増やすこと。それがこの技を磨くことになる。
選後鑑賞 亜紀子
島人の島より島へ買初めに 平石勝嗣
地図を見ながら想像してみる。ここは鹿児島県甑島列島と思われる。上甑島・中甑島・下甑島がフェリーと高速船で結ばれている。距離は近くとも水を挟むと島というのはそれぞれ独自の風習なり文化を持っているらしい。あるいは同じ島内でも港ごとに異なるものがあるのかもしれない。松の内の穏やかな日和、輝く潮路。船に乗っての買初めが駘蕩としてめでたい。最近の航路は寄港地が集約化されているとあるので、昔の島人の暮しを思い出しての作であろうか。
白鳥の群一列に橋潜る 太田三智子
胸をそらし首を伸ばし、優美な一群の白鳥たちが橋の下を滑るように潜っていった。王侯貴族の風情である。その水面下では二本の足が絶えず水を掻いているだろう。白鳥は力強い大鳥である。
羽黒坊大き雪沓並びをり 村山八郎
出羽三山のひとつ羽黒山。山岳信仰の聖地は古来より多くの修験者や参拝者を集める。並ぶ大きな雪沓の主は尋常の人間の物ではないような気配。
ひと日ごと家族増えをり雪だるま 森谷留美子
子供の居る家の庭先だろうか。大きな雪だるま、中くらいの、小さいの、毎日人数ならぬだるま数が増えていく。雪国雪だるまファミリー。子らの声も聞えてくるような。
雪だるま星のおしゃべりぺちゃくちゃと
松本たかし
チューリップ芽ぐむ一鉢母の辺に 布施朋子
高齢の母親は静養中なのだろうか。春まだ浅き窓の外は枯れ色。小さな顔を出したチューリップの芽の一鉢を枕辺に。静かに弾んだ一句の調べが、慰めと春待つ心持ちを伝えている。
一吹の法螺の音渡り涅槃西 木下多恵子
野も山もいまだ眠っている。護摩法要開始の法螺の音。春を告げる一吹きのごとく、木々の間を風に渡り、固い芽を呼び覚ましていく。
佐保姫の訪れ告げて鼓滝 足立紗麗
鼓滝というからには、良い滝音のする所と思われる。冬季は水も少なく、あるいは凍っていて、その音をひそめていたのだろう。いよよ迸る水音が春到来を告げている。
雪降れば仔犬の如き嬉しさも 町井玲子
これは普段は雪のない地の感慨。自分なども庭かけ回る犬同様な気持ちになることがある。しかしながら年とともに手放しで喜んでは居られなくなった。積もれば相当の不便が生じる。嬉しさもの「も」のニュアンスに様々な解釈の余地を残している。
窯出しの百のぐい飲山笑ふ 川南清子
芽吹き始めた里山。窯から出したあまたのぐい飲みが並べられた。庶民的な懐かしい調子の焼き物だろう。
ぐい飲みの口もみな上を向いて笑っている。
子の文の温く短く春きざす 呉座谷ゆき
短い一文に温かな心を示すことのできる我が子は深い心の持ち主である。