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橡の木の下で

俳句と共に

草稿12/27

2014-12-27 09:09:06 | 一日一句

松の依る青き真竹の太柱  亜紀子


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「太陽の塔」平成27年「橡」1月号より

2014-12-27 09:09:04 | 俳句とエッセイ

  太陽の塔   亜紀子

 

文化の日博打に栄えし国やある

爽涼と太陽の塔手を広ぐ

太陽の塔のうそぶく秋の風

澄む池やあけぼの杉の影浸し

錦秋の野路ゆく人を越さず行く

秋冷の幹ならび立つしじまかな

容赦なく紅葉をまへに枝打たれ

寒いねといへば尾をふる鶲かな

一朝に紅葉のしとね蛇いちご

月のなき夜を香るなりラ・フランス

鵯烏椋鳥も傘なき冬の雨

水鳥の沈思に寄するさざれなみ

 


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「蔦の家」平成27年「橡」1月号より

2014-12-27 09:09:02 | 俳句とエッセイ

  蔦の家   亜紀子

 結婚して最初に暮した札幌の街角に全身蔦に覆われた古い家があった。もう二十年余り昔のことだが、周囲は条里に沿って近代的な建物ばかりが立ち並び、青葉に隠れた赤い屋根の木造二階屋は一種異様、だが妙に洒落た趣があった。家人はその佇まいの贔屓で、そこを通るたび誰が住んで居るのか居ないのか覗いてみるのだった。空き家ではないようだったが、結局住人の影を見ることはなく、札幌を離れてからは蔦の家のことは忘れていた。それから五年程して名古屋に戻り、しばらくはアパート住まいであったので庭の草木で遊ぶ余裕はなかった。つてがあって家人の職場近くに小さな一軒家を借りることになると、まず庭の土起こしに始まり、小さな人達にもスコップを持たせて芝や草木を植えた。家は築三十数年でだいぶ古ぼけている。そこで思い出したように壁に蔦を這わせることになった。橙色の瓦屋根がどこか札幌のあの家の雰囲気に通じるようでもあった。大家さんが大らかで何でも好きにさせてくれる。蔦はお隣のブロック塀から越境しているのを切らせてもらい、挿し芽で増やして周囲に植えるといつの間にかどんどん繁殖し始め、やがてほぼ一軒丸ごとを呑み尽くすようになった。

 春夏秋冬、蔦の壁にはそれぞれの表情がある。真紅の尖った芽吹きに季節が動き出す。青葉茂れば鳥や動物の隠れ家にもなり、花は地味ながらたくさんの虻蜂を寄せる。紅葉は日当りと温度、水のバランスが悪いようで、残念ながら余り綺麗にはならない。しかしながら時折ひと蔓ふた蔓が真っ赤に走る。冬、すっかり裸になりながら僅か縋り付いた枯葉がからからと鳴る。小さな家そのものが水を吸って生きているかのようでもあり、四角な部屋の内側に居ながらにして刻々変わる季の移ろいを楽しんでいた。

 七年前から同じ市内にもう一軒別の家の世話が必要になって、爾来家人と分担で二つの家のお守をしている。蔦の家の方を私が担う。蔦は緑のカーテンとして夏場の室温を下げ、直射日光から外壁を保護し、省エネルギーに貢献するという家人の意見に飛びついたのであったが、どうも次第に不都合な真実が顕れてきた。蔦の繁殖力は凄まじく家を離れ塀を伝い近隣へ越して行くのを常に見張っていなければならない。大阪中之島で見た蔦のぶら下がった橋よろしく、屋根から下りた蔓の重みで裏手の雨樋が外れてしまった。町内で似たように蔦の繁茂していた家では雨漏りして大変だったと聞く。そういえば毎夏夜になるとカナブンが天井から降って来る。蔦は瓦の下に入り込むのだそうだ。蔓伝いに天井板の隙間から屋内の明りを目がけて来るのかもしれない。因みに蔦の葉はカナブンの大好物だ。極めつけは大工にモルタルの外壁が傷むと指摘されたこと。これはもう取り除くべきかと思ったのだが、しばらくは家人の抵抗にあい、自分も愛着があるため躊躇していた。

 ところが戸外の片付けをしていた今夏の終りに、庇から下りている雨樋のパイプがひび割れているのに気が付いた。パイプと壁の隙間に立ち上がっていた蔦が太くなって隙間に収まり切れず、プラスチックのパイプを押しつぶしたのである。蔦の幹は大人の二の腕程もある。見れば同様の何本かの幹が家中を八岐大蛇さながらに取り巻き締め付けている。いかん、いかん、このままでは家が潰される。迷っている猶予はない。まだ青々とした葉が茂った状態そのままに、可能な限りの太幹に鋸を入れて分断した。日中のまだ強い日差しに曝されて、夕方には蔦の葉は一斉に萎れてしまった。一階の壁から屋根、二階の壁から屋根、余さずだらりと垂れ下がり、いっそ潔いほどの光景である。秋が終り冬が来るまでの間に大方の葉が茶色になり雨風の折りに散っていったが、ちりちりに縮れた葉っぱが網の目のように絡み付いた細蔓にいまだに取り残されている。門の外から眺めるといかにも片付かない姿である。道行く人がこのお化け屋敷に誰が住んでいるのかと不思議がるであろうか。蜂が恐くない季節になったのでお隣の八尺梯子を借りてせめて雨樋の掃除をしよう。そうこうしている間に根っこの付いている蔓から緑の葉がまた伸び始めていた。まことに強い植物である。


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選後鑑賞平成27年『橡』1月号より

2014-12-27 09:09:00 | 俳句とエッセイ

 選後鑑賞   亜紀子

 

 

閉山の尾瀬をそびらにしぐれ虹  渡辺和昭

 

 毎年十月の終り頃、尾瀬の各小屋は冬の備えを整えて閉じられる。その後の尾瀬ケ原は雪に覆われて深い眠りにつく。作者は地の利を得て折々に尾瀬を詠う。ちょうど何処かの小屋の閉められる日に湿原を歩かれたようだ。草紅葉も木々の紅葉も終って,今は枯れ色の濃淡の諧調。水芭蕉の咲く頃や夏休み時期とは打って変わって静かである。去り際に振り返れば燧ヶ岳の方角に時雨が虹を架けた。淡い虹である。晩秋の思いひしひしと作者の胸に沁みる。

 

鰯船崖の聖母に十字切る     喜多栄子

 

 長崎は漁港に適した地形を擁し、対馬海流の恩恵を得て沿岸漁業が盛ん。鰯の水揚げも多いようである。五島列島あたりだろうか、厳しい岩場に立って人々の祈りに応える聖母の像。漁師たちは舟の安全と大漁を祈願するのだろう。キリシタンの歴史を持つ長崎。掲句の漁師の姿が、小舟の上で密かに胸のうちに十字を切ったであろういにしえの漁師に重なる。

 

窓越に風のコスモス素描展    左海和子

 

 素描だけを集めた展覧会。いくつもの作品を見て巡りふと窓に眼をとめると、風にそよぐコスモスの花。優しく、いささか頼りない風情のコスモスの形、光と影、動き、あるいは色の感触、それらが窓枠に嵌められたデッサンのような気がしてくる。風、コスモス、素描の語が不思議に調和している。

 

隠れ江の石倉古ぶ石蕗の花    島田みどり

 

 隠れ江にと詠い出されて、先ずその後ろにあるだろう歴史が関知される。波穏やかな入り江の古色蒼然たる石倉はその昔の繁栄の名残。秋の日に照る石蕗の花の明るさと対照的である。これは密貿易で栄えた坊津の景色だろうか。

 

蘆刈の鴨の塒の葭遺す      金子まち子

 

 水郷近江八幡の青蘆の間を小舟で回った折り、水面からひとところ小高い場所にカルガモが群れていて、船頭さんから営巣場所だと教えてもらった。その後近江の蘆長者も鴨のために蘆を刈り残しただろうか。掲句の句意は一目瞭然。ものみな身に沁みる晩秋の景色の中で、ほの温かい心を感じる。

 

幾すぢの風の道あり稲架乾く   遠藤静枝

 

 苗の育成から収穫まで稲作の行程は長く、折々さまざまの困難との戦いでもある。苦労の甲斐も実り最期の仕上げの稲架掛けも完了、あとは好天を恃むばかりである。気持ちの良い、幾すじもの風の道。汗して米を育ててきた人にして初めて感じることのできる風筋に違いない。作者が福島の人であることを思う時、さらに深い共感を覚える。

 

霜月や猿連れ立ち畑に来る    太田順子

 

 熊、猪、鹿、そして猿など野生動物と人の暮しの軋轢が昨今とみに取り沙汰される。掲句の群猿もしかり。しかし作者は末枯れの山から人里へ出てきた猿たちに心を寄せるのである。連れ立ちという語が、我々によく似た猿の様を伝えてくれる。

 

安曇野の道祖神みな日向ぼこ   上中正博

 

 小春の一日、道祖神を尋ね歩いて安曇野の地を巡った作者。素朴でどこか懐かしい安曇野の道祖神。日向ぼこの語に穏やかな良い旅をされたことが伝わってくる。

 


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草稿12/26

2014-12-26 07:53:32 | 一日一句

風の音と鳥の呟き苑枯るる  亜紀子


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