修学旅行 亜紀子
末の男の子が修学旅行で岡山に行くという。ならば岡山銘菓大手まんぢゅうを買ってきてよと頼んだところ、それは何だというので、美味しい酒饅頭で作家の内田百﨤の好物だと教える。餡こものは好きじゃないし、内田何たれも知らないと言うので、お小遣いは渡すから何でも好きなものを買っておいでということになった。二泊三日で岡山の他にどこへ行くのと尋ねると、広島の平和記念公園を初日に訪れることは確からしいが後の予定は面倒くさがってはきはきしない。机の上に行程表があるよという。広島から倉敷へ行きそこで宿泊、翌日は自主研修で班ごとに岡山散策、再び同じ宿へ戻り、最終日は瀬戸大橋を金比羅さんへ渡ってから名古屋へ帰ってくるとのこと。なかなか楽しそうな旅程だが、本人は学校の旅行にはあんまり期待してないのだそうだ。それから二、三日、百﨤先生の人となりを吹き込むと息子はそれなりに面白がって聞いている。郷里岡山をこよなく愛した百﨤は鉄道で岡山駅を通る際には必ずホームに降りて足を付いたが、我が思い出の岡山を壊さぬよう駅を出ることはなかったそうだ。百﨤のユーモアに包まれた随筆『阿房列車』第一、第二の中古の文庫本を取り寄せて携えて行くよう勧めてみたところ、一人旅ならいざ知らず、友達と出かけるのに本を読んでる手はないでしょうと笑っている。『阿房列車』と一緒に頼んだ『私の「漱石」と「竜之介」』も、私が読むことになった。
『私の「漱石」』は百﨤が師漱石の思い出を綴った短文をまとめたもの。漱石の死後二十年、変わらぬ師への一途な思いと同時に、当時の若かかりし百﨤自身を懐かしみ、かすかな疼きと切なさも込み上げてくる随筆集である。私は嫁入り前に百﨤ばかり読んだ一時期があり、ちょうど出た全集を父にねだって買ってもらった。百﨤の本の挿絵を描いた風船画伯こと谷中安規の版画の展覧会があると聞けば遠くまで出かけた。
橡の同人にドイツ文学の泰斗関泰祐先生がいらした。関先生は一八九〇年生まれ、東京帝国大学独文科を卒業し教鞭を執られる傍ら多くの翻訳もなされた。俳句を始められたのは文学者として一家をなした後であり、父とは親子ほどの年の差があったが星眠に俳句入門したような形であった。たいへん謙虚な人柄でいわば息子のような父を敬いこまごまと心を砕いた書状をくださるというのを聞いていた。先生は戦前新潟高等学校の教授を務められたことがあり、新潟高校出身の父とはお互いに親しみを感じていたかもしれない。何かの折に父の文章はシュティフターに似ていると仰って、父はそれをとても喜んでいた。(シュティフターは静謐、客観的な筆致で自然と人間を描き出した十八世紀初頭のオーストリアの作家、風景画家)私自身は関先生に御目にかかることは一度もなかったが、父が先生を深く尊敬しているのは良く分った。
その関先生に内田百﨤の話をしたところあまり感心されなかったそうである。百﨤も帝大独文科出身、一八八九年生まれであるから学校では先生の一つ先輩になるだろうか。百﨤のその後の行き方が廉潔な先生にはピンとこなかったのかもしれない。先生曰く、彼の初期の作品には見るべきものがあるけれど、後のものは面白くないということだったらしい。父はそう言って私の百﨤熱にも格別感心を示さなかった。後に私自身家を出るときには本を持っていくことはせず皆実家に置いていった。関先生も亡くなりずいぶんと久しくなった頃、百﨤は面白いねと父がいうのを聞いた。文章が上手いねという。残してきた本を次々と読んでいるふうであった。今は小さな冊子を手にする力さえもない父である。たまには帰省してあの頃のことを聞いてみたいものだ。
十月の台風をやり過ごし、息子は無事に修学旅行を終えて戻って来た。たくさんの土産はお菓子ばかり、どれも岡山名物きび団子であった。カラフルな色と香りのついたモダンなものもある。フルーツの香りの団子をつまみながら「きび団子は昔ながらの味が一番だね」と怪訝な顔をしている。