自然讃歌余滴 亜紀子
林間旅情星眠47pの文の題は復刻版では「自然讃歌」に変えてあります。原文が馬酔木にのった時は波郷さんから与えられた題「自然讃歌」だったのですが本書を編むとき遠慮して変えたのです。しかし時間も経過しているので「自然讃歌」を採用。
昭和五十五年『自然讃歌』の復刻版が出された折に、俳句を始めたばかりであった私に父は初版本を一冊くれた。初版は昭和三十一年六月に発刊。千部限定版。限定といっても千冊はなかなかの数に感ぜられ、当時の俳句の隆盛が思われる。私が生まれる三年前のことだ。父はこの世に存在していない私にこの本を与えることは想像していなかったろう。私も含め四人きょうだいの誰にも敢えて俳句を勧めることのなかった父である。『自然讃歌』初版本をもらったのは結局私だけだった。
冒頭はその本に挟まれていた父の小さなメモ書きである。七、八センチ四方の薬屋の宣伝用のメモ紙のペラに赤いボールペンの小さな文字で綴られている。原文のママ。私はこのメモのことをすっかり忘れていた。父とこの件について何か話した覚えもない。俳句を志すからには話が通じるだろうと見込んでメモを記してくれたのかもしれないのに、情けないことだ。
遠慮の意味を改めて考えてみると、遷子、民郎、星眠、公二の四人の合作である一冊に、星眠の随筆の題そのものを付することを遠慮したということだろう。星眠が中心のような錯覚を与える。しかし復刻された時には父は還暦に近く、波郷さん、遷子先生は物故。かの若かりし日々は山のあなた。もはや遠慮云々という関係も越えたということかと思う。
波郷先生からいみじくも出題された「自然讃歌」をまへに、これは裏返せば人間讃歌にならなくてはと考へたが、間もなく、それは大それたことだと気付いた。そして、その何れをも讃美し得なかったやうだ。恥かしいことだが、私の不徹底な、不実な行き方の所為であらう。
(二十六年七月)
結びの文章である。この夏の終りの掛け値も値引きも無しの父の感慨だろう。この文末に対する標題が「林間旅情」では読者はいささか、あれっ、と肩すかしを食らう。発刊から四半世紀たって原題に戻ったわけ。すなわち四半世紀の間文章と題との整合性を考え続けていたともいえる。いかにも父らしいと思う。
星眠の俳句にもこの整合性、言葉の結びつきの一貫性ということが常に感じられる。詩的な飛躍がどんなに大きくとも、矛盾はない。読み手は納得させられる。言い換えれば、読む側に親切である。「私」を主張しようとするのでなく、常に読み手を念頭におき、「私の思い」を押し通そうとするのでなくむしろ「読み手の抱く思い」に心砕くようなところ。その中に自ずから「私」が表われてくる。俳句的行き方と思う。父に倣い「私」に拘泥しそうになったら、いったん捨て身の覚悟をして浮かぶ瀬を見出そうと思うのだけれど、なかなか五七五に実践できない。
馬車の荷の硫黄かがやき蝶生る
翅澄みて蛾は春曉の野にかへる
鬱々と噴煙あをし夜の蛙
汗の胸葛のあらしの沁みとほる
驟雨來ぬたやすくけぶる落葉松に
ゴルフ場星合の夜の草匂ふ
郭公や道はつらぬく野と雲を
お花畑ゆふべ眞紅の霧を噴く
さそり座の澄む夜雪溪四方に滿つ
雪蟲を得し手袋の紺ふかし
雪嶺へ戸口のくらさ獵夫住む
湖凍り林をのぼるオリオン座
遲月に野狐來てみだす狐舎の雪
星眠(自然讃歌より)
追記・「林間旅情」に当る「自然讃歌」は復刻版では49頁に収録