清水英雄著 『雪解川』—自費出版とともに—
亜紀子
橡誌創刊以来ずっとお世話になっている清水工房の創業者清水英雄さんが創業五十周年を記念して『雪解川』を上梓された。奥さんとの二人三脚、ゼロから始められた印刷工房と、奇しくも橡と同い年、今年は三十五周年の出版部門揺籃社の歴史が繙かれている。時代の要請とともに、工夫を重ね多くの出会いと協力を得つつ変遷発展してきた様が、誇示も卑下もなく、飾らずありのままに語られる。宮沢賢治に傾倒したという清水さんの精神の在りどころ、時に反骨をみせる人と形が事実の叙述の上に自ずと浮かびあがる。
橡についても頁が割かれている。近年の印刷、出版業界の目覚ましい変化を知ると、三十五年前、当時は二千部からあった橡の発行も、工房側からすると決して容易い仕事ではなかったことが分る。また業界に絡めて社会情勢の変化、エピソードも当然記されているのでここ五十年の社会史になっているのも面白い。なによりも面白かったのは橋本義夫氏に始まった「ふだん記」運動という日記、個人の記録の普及運動のなかで出版された書籍の紹介とその著者たちの話。特別の人ではないごく普通の人たちが自分のことばで綴った自分の足跡が、どれも決して普通でない、かけがえのない歴史であることに目を開かれる。
清水さんは毎月ライトバンを運転して安中まで納品に通ってくださった。私も時折お目にかかることはあったが、あの清水さんがこうした自分史をお持ちとは想像もしていなかった。創業四十周年を機に引退を決意、引き継ぎを進め五年をかけて完全に引退された。
趣味の写真歴は長いそうだが、七十歳を機に書と俳句を始められた。引き継ぎの最中に東日本大震災が起き、関東一帯は計画停電に見舞われる。当時の清水さんの一句
節電のこと足る明かり街おぼろ
ちょうどあの時、東京で帰宅難民になって一夜を明かした私はその日のうちに全てのコンビニの棚から食料が失せてしまったのに衝撃。戻ってきた名古屋のモールに溢れかえる食品が燦々と光り輝くのを見て猶衝撃を受けたのを思い出した。清水さんは橡のお仲間ではないけれど、星眠が生きていたら喜んだに違いない。清水さんはその後ボランティアとして相馬、石巻へ足を運ばれている。
あとがきに“守りに入ると人間小さくなる〜「執着」という自縛〜アナログ時代には個人の創意工夫が通用したが、デジタルでは誰が作っても表面上は同じものができてしまう。あとは資本力の差しか残らないのか。”という呟きの一節がある。執着と資本、印刷出版業界に限らず、今の世の大方を支配している力だろうか。
この『雪解川』を私は八月のひと日、JR飯田線の豊橋、飯田間の往復の車中で読んだ。飯田線は東三河から天竜渓谷を縫って信州辰野へ至るローカル線。途中に駅舎の他には周囲に何も無い“秘境駅”をいくつか擁し、鉄道愛好家に人気がある。二両編成の車両。鉄オタらしい少年たち、今はあまり目にしない分厚い時刻表を手にしている。年格好は同じくらいだが少し他人行儀の言葉づかいなのは学校の先輩後輩か、あるいはネットか何かで意気投合したのか、岡谷まで行くらしかった。列車が渓谷に差し掛かり、緑が迫ってくる。保線工夫の数人を遣り過ごす。各駅停車ののろのろ電車でも、人のすれすれを通過するのはひやっとする。秘境駅は今はこうした工夫の利用駅なのかもしれない。車内を絶えず移動して案内をする若い車掌。無人駅ではホームへ降りて切符を売ったり、切ったり。制服の女の子たちは部活通いだろうか、夏休みで定期が切れているのかもしれない。こんなに忙しい車掌さんは見たことがない。小さな谷間の小さな集落に月遅れの七夕竹が揺れている。民営になった今もこの線が稼動しているのは有り難い。飯田で降りて、駅前でカレーを食べて小一時間過ごし、帰りは一日二往復ある特急で戻る。立秋を明日に、地上はまだ猛暑に蒸しかえっていても月の色は清々しい。あ、地球の面を一皮外へ出れば異常気象とは無縁なのか。気象ばかりでない。この一皮の内側で、あれこれの問題が千年、万年と相変わらずに解かれぬのはどうしてなのか。