橡の木の下で

俳句と共に

「一服の涼」令和6年「橡」9月号より

2024-08-28 17:27:24 | 俳句とエッセイ
 一服の涼   亜紀子
 
滝音や明日に始る王位戦
暑に喘ぐ小さき体の雀どち
片蔭に犬を休めて人集ふ
ケータイに一服の涼山便り
相席の扇子忙しや蕎麦すすり
水上の燕のブルーインパルス
帰宅の戸月下美人の匂ひくる
尺取虫に尺を取られて丸裸
芋虫を小箱にかこふ無聊かな
芥子粒の蝿虎の子がちよんと跳ね
恐るべき日盛に咲く百日紅
病舎より投句電話や蟬の午後
黙々と歩くを枷に蟬の朝
ロードスの散歩もかくや朝の蟬
禅林の広きに蟬の声ばかり

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「記号接地問題」 令和6年「橡」9月号より

2024-08-28 17:23:22 | 俳句とエッセイ
 記号接地問題    亜紀子

 いきなり雷鳴二つ。ずずんと深く重い響き。これは近い、降り出すぞと思う間も無く、ざざあっと来た。あ、やっぱり。ぱっと脳裏に過ぎったのが昔田舎で毎夕聞いていたあの雷と雨音。思い出そうとして思い出せる感覚ではないものが一瞬に甦った。懐かしい上州の夕立。しかしながら、今日の夕立と決定的に違うのは、今はまだ朝が始まったばかりということ。しかも雨は思ったほどは降らずに上がり、午前中の気温はまたぐんぐんと上昇。
 何十年も昔の田舎。午後の気温の高まりに山々に沿って立ち上がった入道雲はやがて倒れ大夕立に。そして一雨去ると涼風が立ち、静かな夕暮れを迎えたものだった。エアコンなどない暮らし。丸くて重い扇風機が回っていた。網戸一枚で心配もなく。母は夕餉の支度。新聞紙に広げた枝豆をぱちんぱちんと鋏で切る手伝い。父は若く、野球放送に耳傾けて。贔屓は大洋(現在の横浜ベイスターズ)。弟と私は阪神。食卓にツマグロヨコバイが飛んでくるのが面倒だった。
 今朝の雷二つに私が思い出したのはこのような光景だが、現代の子供たちが大人になった時に思い出す景色は全く違うものだろう。「雷」「夕立」いずれも季語だが、同じ言葉でも人それぞれその語の立脚点は異なる。
 七月東京例会の詠草に

麺打ち板あはれに暗き春厨

という句があった。惹かれる何かがありそうだが、それが何なのか分からない。採光の悪い厨、使い古された麺打ち板、置いてきぼりのような春の一日。蕎麦打ちが中高年の男性諸氏の間でブームになったと聞いたことがある。一念発起、こだわりの手打ち蕎麦屋を開業したもののコロナ渦中に廃業、そのうたかたの夢のあとかしらと穿った考えさえ浮かんだ。果たして作者は欠席で詳細を伺うことができなかった。
 その後、作者ご自身から詳しい説明の便りを頂戴した。古民家を見学した折の嘱目吟。片隅に立て掛けてあった大きな麺打ち板が目に留まる。昭和二十一年秋、作者は旧満州から一家四人で引き揚げ、父親の実家に落ち着くも、親族三家族が共同で食事の生活。夕食はいつも叔母が手打ちのうどんを大鍋で煮込んだものだったそう。その時の場面が頭をよぎり一句になったとのこと。「何か」の正体が見つかり、あはれの意味するものが分かったような気がする。 やはり「何か」がそこにあり、「何か」を纏っていたことは確かだった。
 麺打ち板という一語でさえ、それを使う人によって持っている意味は随分と異なる。その語が根を下ろして張っている場所が違う。言葉は具体性では写真には敵わない、そして写真も実物そのものには敵わない。思い出も言葉にできるが、本人の体験には敵わない。俳句はそれを言葉にして伝えようという試みなのだから苦労である。
 認知科学の世界で「記号接地問題」という未解決の問題があるそうだ。元々は人工知能の問題として考えられたものという。人は言葉によってその語が差し示すものを知ることができるのだが、真に知ったと言い得るにはそのもの丸ごとを自身の身体的経験として持っていなければならないのでは?という問い。言葉は抽象記号だから、記号で記号を理解しただけで本当にその対象そのものを理解したと言えるのかと。この問いは言語がどのように獲得され発展していくのかという言語学の問題にもなる。
 それはそれとして、俳句の上で考えてみれば、先ずは作者の実際の“身体的経験”が感動。これが一番大切。これを人に伝えるにはどこかに具体性が色濃く感じられるような語が必要だろう。そしてお互いに記号で理解し合うためには相手の根に触れるような言葉を選ぶことも重要。はて技術はともかく、いつも戻ってくるのは、経験を積むこと、誠実に日々を送ることだろうか。
 談林調、漢語といった記号に遊んでいたような芭蕉もやがて自身の身体的経験に発する俳句を詠み、晩年はこなれた言葉でより一層深い境を表現できるようになった。道遥か。

お勧め図書
『 「何回説明しても伝わらない」はなぜ起こるのか?』    
           今井むつみ 日経BP社
『言語の本質』
         今井むつみ・秋田喜美 中公新書     
             

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「選後鑑賞」令和6年「橡」9月号より

2024-08-28 17:18:00 | 俳句とエッセイ
選後鑑賞      亜紀子

上ル下ル都大路を雷奔る  細辻幸子

 七月、京の都は祇園祭一色。十四日から始まった宵山はお天気の急変に見舞われていたようだ。そうでなくても大賑わいのこの時期、碁盤目状の都大路は北へ(あがる)、南へ(さがる)、皆雷帝と共に走りおおわらわ。それもまた楽しく。

瓶一つ病ひに効くと枇杷酒かな  市田あや子

 病に立ち向かう作者か。医療に頼るのはもちろん、食べる物も、飲む物も良いと聞けば試してみる。一本の瓶に何か非常に強いものが感じられる。病に負けまいとする者の気概。

みがきたる玉ねぎ揃ひ出荷待つ  田村美佐江

 むちっと固く張った形の良い玉ねぎ。どの玉も艶良く。いかにも美味しそう。満足のいく出来だろう。リンゴのような果物を出荷前に磨くという話は聞いたことがあったが、なるほど玉ねぎでも同様とは初めて知る。そういえばスーパーの品は確かに綺麗だ。土や汚れを落とすブラシの付いた磨き機があるらしい。あるいは集荷場のベルトコンベヤーに乗せられて磨かれるのだろうか。 
血が澄むと新玉葱をもはら食ふ  星眠

豪快に蛸のぶつ切りカルパッチョ  長井恒治

 昔ながらの芋たこなんきんも美味しいが、新鮮な蛸をオリーブ油やレモン、ハーブで調味してイタリア風にいただくのも乙な味。ところで、カルパッチョは薄くスライスした生の素材を味つけしてさっと食べるものらしい。一方同じような調理方法でマリネがある。こちらは調味料に漬け込んで味を染み込ませたもので、薄くスライスするとは限らない。掲句のカルパッチョ、豪快なぶつ切りだから正確にはカルパッチョとは言い難いのかもしれないが、多分長く漬け込んだものではなく、サラダ風にさっと和えてすぐ食べる印象だからマリネとも言い難い。所詮イタリア語はイタリア語、我々の母語ではないのだから細かいことは言わず、掲句の調べの生きの良さを頂戴したい。
 ところで作者は輪島の人。隆起した輪島港の復旧はどこまで進んでいるのか。漁業の再開の見通しは如何に。

萩くぐる暮らしの水や宿場町  中野順子

 水豊かな古い宿場町。家々の前に小流れが巡らされているか、あるいは運河が通っているのか。さやかな萩叢の陰を流れていくその水が、日々の暮らしの中で今なお活かされている。徒然に歩いてみたい。

ラフティング緑の山に谺して  小林昌子

 翠巒深き渓流を下る。真白の水しぶき。響き渡る若人の歓声。気持ちの良きことこの上なし。

木天蓼の車窓になびく峠越え  善養寺玲子 

 ドライブの車窓だろうか、電車の車窓だろうか。花季には葉の一部が白くなるので、遠くからでも目に留まり木天蓼と知られる。掲句の作者もその白い葉が靡く様に注目されたことと思う。初夏の峠路の気分の高まり。

泥染師の膝まで泥や梅雨しとど  小泉洋子

 泥染めは奄美大島特有のものらしい。いわゆる大島紬の代表的な染色方法。車輪梅のタンニンと泥の鉄分を何度となく繰り返し反応させ絹糸を染める。完成された紬の深みと艶はこの上なく上品で美しい。その染めの工程で染師は泥田に膝、いな膝上までも泥に浸かって作業する。折しも梅雨の雨に打たれているようだ。着物に手を通す人はこれを知るや否や。



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令和6年「橡」9月号より

2024-08-28 17:14:05 | 星眠 季節の俳句
夏爐焚き馬臭も塵もなかりけり 星眠
               (営巣期より)

 昭和五十年の旅、山形・封人の家と題して。旧有路家住宅。江戸初期から庄屋を務めていた旧家。馬産家でもあり、芭蕉が滞在した折に詠んだ
 蚤虱馬の尿する枕もと
は夙に有名。
                          (亜紀子・脚注)



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草稿08/28

2024-08-28 17:10:46 | 一日一句
祈る手をみ空にひらく蓮の花  亜紀子

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