橡の木の下で

俳句と共に

平成24年「橡」2月号より

2012-01-27 10:37:55 | 俳句とエッセイ

初茜       亜紀子

 

忘年の影ひとつ曳き帰りけり

ひと夜漬爪紅の美濃かぶら

蕗の薹ひとつ見つけし掃納め

魔女めきて鴉親しき落葉掻

木の実みな赤ければ冬あたたかし

裏戸より捨つるものあり雪催

サンタクロース今宵ケーキの振り売りに

藍深く雪後の天の暮れゆけり

下町の軒さしかはす初茜

真つ先に鴉の御慶厨窓

初日さす常の軒端の濯ぎもの

鵯の上げし声澄む二日かな

紋付鳥三日の庭に頭を下ぐる

病廊に短き御慶かはしけり

黒々と畝真直ぐなり九条葱

 



「木の葉時雨」平成24年『橡』2月号より

2012-01-27 10:35:17 | 俳句とエッセイ

  木の葉時雨    亜紀子 

 

 毎年師走になると、この一年があっという間だったように感ぜられる。二〇一一年はことにその感がある。今月も半ばになり、文章の題材を決めなければと思う。年末であるから何かいつもと違うものをと意気込んでいるうちに、気持ちが動かなくなった。ちょっと外へ出てみることにする。子供三人が順番に朝の家を出る。最後の娘に、午前中一杯は家を空けるから特別連絡のある時は携帯にするようにと言いおく。娘曰く、この辺りを一回りするだけでも毎日何か変わったことがあるわよ。上を見ても、足許を見ても、周りを見回しても毎日違う。へえ、詩人だね。気を付けて行ってらっしゃい。

 確かに若い人の言う通りだ。家の界隈は下町情緒濃いところで、門を出れば顔を合すご近所と一言、二言、新しいような古いような情報交換。軒ごとに丹誠込めた花鉢が並ぶ。あれこれ雑多な鉢もので、季節ごとに変わるからそのたびに目を惹かれる。小さな生け垣から生け垣へ飛び移る小鳥。今年は姿を見るのが遅くて、尉鶲の後はしばらく静かであったが、ここのところようやく目白のお喋りを耳にするようになっている。空行く雲に乗って来る季の移ろい。周りは常にただ水のように流れている。澱んでいるのはこちらの頭の中である。

 それでも場所を少し移動すると澱みが流れ出すこともある。机辺に残してあったものを片付けて、植物園へ出かけることにする。地下鉄で三十分とはかからない。

 地下鉄に乗る時は句稿を持って行く。窓に見るものがない代りに、投句葉書に集中できる。詠む(自句を案ずる)楽しみと、読む(人の句を味わう)楽しみがほとんど同じ比重であることを感じている。歩くのに右と左の足が必要なように、俳句の喜びは作ることと読むことの二つで成り立っている。剣道の先生が口を酸っぱくして教えてくださったことに、剣を振り下ろした瞬間には先に出した右足とほぼ同時に左足も着いていなければいけないそうだ。右足が左足の踏み出しの力で前へ出る感じ。重心は常時左右両足に乗っている。なかなか身体は教えどおりには動かない。平衡が崩れては、身体全体が揺れ、真っ直ぐな剣が振れなかった。今は練習をしていないのでさらにがたがたと思う。何事にも必要なのは常の練習。

 名古屋市の東山植物園は動物園と併設された、街中にしては広い公園である。丘陵地帯を利用して、園の周りは小高い森に囲まれている。この前訪れたのは春浅い日。水辺に榛の花が揺れていた。土日は家族連れで込み合うけれど、平日に一人で来れば実に閑散としている。今日は谷を抜けていく凩が身にしみる。

 少しばかりの冬の花を残す薔薇園はさっぱりと刈り束ねられて、それが寒々しい。ここも枯れ尽くした北米庭園に花水木の赤い実が聖夜飾りのように灯っている。落羽松(沼杉)の呼吸根が小人の瘤を地上に出して冷たい空気を吸っている。誰かの句に落羽松の良いのがあったがなあと、坂がかりの脇道を行くと、ハコベ、タンポポ、ジシバリなど、懐かしい草が青々とした一帯を作っていて目を見張る。冬萌、冬萌と唱えて歩けばどこかで小啄木鳥が錆びた扉を押す。万葉の散歩道へと続く木立の中で、積もった落葉の上を舞い上がる薄い朽葉色の蜆蝶を見つける。歩く先々へ、次々と舞立つ。今頃、本当かしら、蝶かしら。蛾のようにも見える。一匹捉まえて確かめようとして、ならず。そのとき大風が吹いて森が揺れた。ゴーっと遠く深い音がする。枯葉が森を出て開けた宙に渦巻いている。やがて風が止むと、ぱらぱらと木の葉の降る音が続く。

木の葉時雨、こんな音を子供の頃はよく聞いた。

 少しばかり水の流れる心地がした。人には器がある。器は限りがある。限りの分かることは生きる楽しさを減ずることにはならないだろう。いずれにせよ、大きさの如何にかかわらず、精進を続けるだけ。私なりの進歩を続けること。良い句を作ること専一に。そうし続けているところに私の安心を得る

       


選後鑑賞平成24年『橡』2月号より

2012-01-27 10:31:27 | 俳句とエッセイ

橡二月号 選後鑑賞      亜紀子

 

花柊僅に咲くをこぼしをり  市川沙羅

 

 向いの生け垣の山茶花が、朝な夕な赤い花弁を散らす。掃き溜めると豪奢である。純白の柊の花はどこで散っているのだろう。小さな花だ。寒い季節に、人知れず芳香を漂わせ、柊は良い花と思う。沙羅さんの静観の境地に共感する。

 

冷まじや宇宙飛行士足萎えて 吉田暢子

 

 国際宇宙ステーションに長期滞在した日本人宇宙飛行士が十一月末、厳寒のカザフスタンに無事帰還。滞在中はロシア人、米国人の他の二人の飛行士と共同生活し、宇宙医学の実験の他さまざまな研究に携わったとのこと。地上との交信を通じて、宇宙開発の広報も担ったそうである。笑顔で地球に戻った時、一人で立つことはできなかったようだ。百六十五日間の無重力状態の影響で筋肉、骨の衰えたことと、平衡感覚が宇宙での感覚に慣れてしまったのが要因とのこと。

 さて科学の発展に邁進することが人類の幸福に寄与すると手放しで信じていいのか。この世界には今も置いてきぼりの寒々とした闇がある。とはいうものの、まさに辞義どおり体を張って希望の証明に取り組んできた宇宙飛行士のその努力は凄まじい。ひとりびとりが、それぞれに考えて、自分を信じて行動する以外に正解はないのかとも思う。掲句、一筋縄では解釈しきれない「冷まじ」の措辞に敬服。

 

凩やスカイツリーも身を捩る 木村清治

 

 高さ六三四メートルの新電波塔、東京スカイツリーは二〇一二年五月に開業とのこと。ほぼ外観が完成し、内装工事が進んでいるそうである。昨年の三月十一日、業平橋からスカイツリーを見上げる吟行の後、句会を開いた浅草の釜飯屋であの震災に合った。タワーを眺めた記憶がだいぶ飛んでしまったように思うが、掲句を拝見してあの日建築家の姉羽さんから「そり」「むくり」という日本的曲線について教えていただいたのを思い出した。ツリーの外観はこの二つの曲線によって確かに身を捩っているようにも見える。いつの間に開業前から新タワーは人々の間に親しいものになっているようだ。

 

潟橇の彼方に消えて秋日濃し 水本辰次

 

 潟橇とは干潟での伝統漁労に用いる道具。潟スキーと呼ぶこともあるようだ。ここは有明海、先の反った一枚板に乗って泥の上を足で蹴って進み、ムツゴロウやワラスボといった特有の魚を漁る。現在、伝統漁法は守られているのかどうか。干拓事業の是非は決着を見ず、消えてゆくものは多い。秋日濃しという表現は使われ易いけれど、有明海の秋日、ことに夕日は美しいそうである。実景であろう。広い干潟が夕陽に染まり、遠離る潟橇の影がまなうらに浮かぶ。

 

白鷹山双翼広げ雪被く    片倉新吾

 

 山形県西置賜郡白鷹町、東村山郡山辺町、南陽市の三地域の境の火山。白鷹山は写真で見ると裾広のゆったりとした千メートル程の山である。奈良時代の高僧行基と白い鷹にまつわる伝説があり、命名の由来と謂われている。雪を被く頃はその名のとおり白鷹が大きく翼を広げた様に見えるに違いない。固有名詞を活かして、堂々と美しい実景句になった。

 

短日や蒸し物の湯気まとひゐて 甲斐惠以

 

 どんどんと日暮れが早くなる頃、台所の窓も気が付けばいつの間にか帷がおりている。ちょっとした煮炊きにも冷たい空気に当たり濛々と湯気が立つ。誰も皆温かな料理が恋しくなる頃。