鏡割とて甘く煮る大納言
受験子の戯ごとを言ひ寝につけり
亜紀子
平成22年「橡」3月号より
村田桑花第3句集
『冬日燦々』鑑賞 亜紀子
冬日燦々食はざれば糞るものもなし
桑花先生の第三句集『冬日燦々』はこの句から名を取られたものと思う。宿痾の手術の後を詠われて、そのものずばりである。横たわる目に窓からの冬日差が眩しく映る。術後の状態が何の観念的な修飾もなく詠われていて、読者の胸を刺す。
妻すでに涅槃のすがた新樹光
ご自身の闘病中、最愛の夫人の最期を看取られた。一年で最も美しい盛りの季節。涅槃と新樹光という語が相照らし仏の生涯が自ずと偲ばれるのであるが、「すでに」の一語にどうにもやる方ない悲しみが湧いてくる。若葉の陽光が美しければ美しいほど深い悲しみ。この句もまた先生が見られたもの、感じられたところを、あるがままに伝えている。
心優しい大人。益荒男ぶりと繊細さ、生活即俳句、悠々自適の俳句三昧とお見受けしていた先生が、ご自身の病と奥様を失うといういう事態に見舞われる。そして橡賞の受賞。本句集においては、転機という観点をはずすことができぬのではないか。しかし果たして鑑賞も作句と同様に自分の身の丈を越えることはできない。とうてい至らぬことをまずお許しいただきたい。
糠雨のいつか滴るあまどころ
衣裳方今日のいとまを針祀る
ベビーカー毛虫を轢いて行きにけり
浦に干す網幾ひろや今日の月
七草の待乳山より神楽笛
たにぐくの卵塊百の目が動く
ワイン酌む女医とナースの雛まつり
とり敢えず肥料袋の鳥威し
棚田より棚田へ落ちて水温む
秋意残して終る浅草カーニバル
繊細な自然詠、時に女性の目のような微妙な生活詠、大人君子のユーモア、絶妙な固有名詞使い。長年の俳句修練の賜物、先生の詠まれる句は多岐にわたり日々俳句にならざるものはなしの感。読者は手だれの作品を楽しむ歓びが与えられる。
最愛の夫人との永久の別離をめぐる一連の作品。
揚ひばりチルチルミチル雲に入る
たまさかに濤のとどろく良夜かな
病む妻にとんぼ返りの月見旅
妻の吸ふ酸素ゆ春の水音す
遅日今日生きし証しの黄金の尿
ががんぼが窓に足掻きて妻逝けり
天も地も涙もろくて走り梅雨
自らの闘病を描いた作品、またその後。
秋思湧くこのかばかりの病巣に
蓮破れ余生躓きはじめけり
口腔ふかく牡蠣剥くやうに削られし
切つても切つても病根残る枯葎
鼻孔より蛇出るやうに胃管抜く
新走りと聞きて病む身を忘れけり
相見ざるままの別れや名残り雪
花一片弾き出さむと蟻地獄
師恩天恩生きて五月の栄に逢ふ
これらの作品も生きてある限り俳句にならざるものなしの行き方であることには変わりはない。ただここには既成のものが何もない。その時、先生の感じられたところをいかにそのままに伝えるかの工夫がある。観念や説明でない、その刹那の思いそのものが言葉となり、忘れられない句として読者の胸に残る。この残るものをもし観念としての言葉に変えるとすれば、二人の人間の魂の美しく強い関り・支え合いであり、生きるということの辛さ・雄々しさであり、村田桑花先生という一個の人間そのものということになろうか。
村田桑花先生 大正8生 平成23年12月27日逝去
『冬日燦々』平成21年12月発行