橡の木の下で

俳句と共に

平成23年『橡』8月号より

2011-07-27 09:42:16 | 俳句とエッセイ

梅雨茸       亜紀子

 

横顔に見惚るる鴉若葉季

越前の広々青き朴葉ずし

つれづれに鴉鳴き交ふ梅雨深し

ひと日得て梅雨の芥を焼いてをり

梅雨霧の中に高楼足垂らす

梅雨茸もこぞりて得たる菩提心

国宝裏梅雨のたつきを垣間見る

梅雨涼し明恵樹上に坐禅の図

いと小さきほまち早苗田整ひぬ

芋虫の俵仕立ての糞あまた

青梅雨のハートささめくジム・ダイン

屑背負って行く虫のあり梅雨晴間

蜂一騎青葉伝ひに狩りわたる


「醍醐味」平成23年『橡』8月号より

2011-07-27 09:38:24 | 俳句とエッセイ

 

  醍醐味     三浦亜紀子

 

 梅雨入り前、京都賀茂祭(葵祭)。山下喜子先生の計らいで上賀茂神社の社頭の儀見学の機会をいただく。喜子先生は句会でも吟行でも、いつも私を一人前のように扱ってくださり恐れ入る。上賀茂社のならの小川に沿う木陰は涼やかだが、なかなか暑い一日であった。御所を出てから下鴨社を通り、ゆるゆる市中を巡行して来た行列を迎え、社殿での一連の儀式。それぞれが飾る桂の小枝に挿した二葉葵がたらんと萎れている。

 朝から車で同行してくださっていた大谷阿蓮さんとお喋り。京都のお祭りはご自分に似てしんきくそうてと仰りながら、さっさと椅子席を確保してくださったり、いつの間に皆のお土産を取って来てくださったりと、目を瞠る。阿蓮さんは野鳥の会で探鳥を楽しまれると伺っている。観察の時は野鳥相手にじっくり腰を据えるわけで面白い。その阿蓮さん曰く、句会の後で推敲するようにと言われても、さて、どこをどう直していいのか分からない、一体どうしたものだろうと。私にも誰にもよくある事態。ことに自分では完成したつもりの一句を直せといわれても、その時には直しようがないですね、本当に困りますと二人で納得。

 夕方の帰路の新幹線で一人顧みる。私は取り敢えず批判されたところはその通りと思って直してみる。良いと思った自信作でも、読者に通じないのは何かがそこにつかえている。そう考えて再考すると道が見えてくることが多い。一種サービス精神かもしれない。伝わらなければ、意味がないのだから。父がよく俳句を詠まぬ母に意見を聞いていたのを思い出す。他人に分かってもうらおうというアプローチから推敲が進むことがあるわけ。媚びではなく、自分自身をも読者の立場に置き、もう一つ別の目で自作を眺めて糸口を見つける。それでも直しようがないときは、そのままで良いことにしている。

 ここ数年習ってきた英語の先生から、自作の俳句を英訳して説明せよという宿題をもらった。先ずそれだけの英語力がないのでいつも躊躇していたのを、ちょっと挑戦する気になった。やっぱり難しい。俳句は意味を持った言葉の塊(一句が伝えようとするテーマ、主題)であると同時に、ひとつ、ひとつの言葉そのものが決定的な必須要件でもある。それぞれの単語が内包するもの、音感、さらにそれらの組み合わせ。何故その語を選んだのか、何故この調べ、リズムなのか。こうした細かな全てが一句の鍵になる。少し長い文章ならば、一々の言葉を越えたところにある主題を他国語に置き換えて示すこともできるのかしれない。英訳を試みながら、わずか一七音の俳句では主題と単語とは密接な関係を持っていて、ほとんど同義に感じられた。切っても切れない関係。強引な私の比喩を使えば、肉体と精神は不可分というようなもの。例えば調べを訳せと言われても、どうやって。山河集の作品と他の作品とでは調べの良さに格段の違いがあるのを皆さんも感じておられるだろう。この違いは言葉そのものを離れては表すことができない。そして調べの良さが内容の良さをも規定する。英訳ということは全てを白紙にして新しいものを作るに近い作業になる。

 さて、この長い言い訳の前置きの意味はと先生に問われて、思わず出た返事は「へぼ詩人と思われたくない」であった。良いものを伝えたい。この気持ちがいつも流れている。英語俳句は上手くできなかった。蝸牛という一語ですら、そのイメージは先生とも、クラスメートの日本女性ともかけ離れ、説明なしでは伝わらない。言い負せて何をかある、読み手に任せてイメージを喚起させることがまたひとつの鍵だが、それ以前の問題のようだ。しかし見方によっては、たった一語でもまだまだ未知のイメージを耕せるということだろう。俳句はわび・寂び限定でなく、凡そ自分の頭に浮かんだものは全て詠めるということは伝わったようだ。

 喜子先生は俳句の座の喜びに折々言及される。自作、他作に限らず、一句を囲み「いいですね」とひと言交し合い頷く時。密やかな喜び、内輪の喜びではあるが、深い醍醐味。通ずるということは俳句に限らないだろう。どの世界でも、場面でも、人と人とが分かり合うとは、喜びの源泉。