橡の木の下で

俳句と共に

草稿03/22

2010-03-22 11:34:43 | 一日一句
遠方より新句集を贈らるる

集中の鳥や獣に春来る  亜紀子

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草稿03/22

2010-03-22 11:12:14 | 俳句とエッセイ
バハサの詩

 近所に地元の国立大学の官舎がある。国外からの客員の先生の家である。だいぶ古くからあるらしく玄関の前の立ち木が大きい。今は黄色に塗られた二階建ての四角い建物が三軒並んでいる。三年余り前、そのうちの一軒にオーストラリアからの言語学者が家族と共に引っ越してきた。小学生の息子さん二人がうちの子供と同じ集団登校のグループに入り、朝の見送りの時にそのお母さんと親しくなった。
 お母さんはインドネシア人であった。ドイツ・スコットランド系のご主人がフィールド調査でインドネシアに滞在中知り合って、結婚後オーストラリアに移られたという。二人の男の子は、肌はお父さん似で白く、瞳・眉・髪の毛はお母さん似で深い茶色。学年を本国での実際より一学年下げた二年生と六年生に編入したせいもあるだろうが、体は縦横大きく、頸一つ分同級生より抜きん出ていた。体だけでなく、お兄ちゃんは気持ちも大人びていた。来日してすぐ、下の子とお母さんが風邪をこじらせ、お父さんと二人で家事をしているというのを聞き、慣れぬ土地で大変だねとねぎらうと、誰でも一年の間には一度や二度は風邪もひく、其れも一時のことでいずれは治ってしまうもの。どこに住もうと同じ事ですよと答えたので驚いた。
 官舎は家具類は備わっておらず、またコンピューター回線も引かれていない状態で、それらの交渉事を手伝って家に寄せてもらうことも増えた。時にはお昼を一緒に作ってインドネシア料理を教えてもらい、時には夕方お互いの門先にお惣菜を届けることもあった。
それでも、生活が落ち着いて来るとあちらも外での用事が増え、私は私で自分の子供達の世話が中心で、だんだん疎遠になり、道で会えば挨拶してちょっと立ち話するくらいの付き合いになった。
 そんなある夕方、教えて欲しいことがあると尋ねて来られた。長男が学校の体育の授業の前に友達と行き違いがあって悶着が起きそうになった時、後から来られた先生に一方的に叱られて、かっとなって暴言を吐いたということだった。先生はその態度に非常にがっかりされ、さらに叱られたという。息子はその暴言を反省している。こういう時はどうしたら良いのか。息子が何かしでかしたのでなくて、始まりは誤解なのだが、このまま放っておくべきか、日本の母親はどうしているかというものだった。そして何より問題なのはもうずっと息子は日本の学校に馴染めないで、泣きながら帰りたいと毎日訴えているということだった。
 本国では友達がたくさんいて、勉強も運動もよくできる、快活なサッカー少年だったとのこと。こちらに来てからは言葉の壁か友人もできず、授業についていけず、すっかり変わってしまったというのだ。お母さんとしては自分の側の主張をしたいのでなくて、とにかく息子が学校生活を楽しく送れることが願いだという。私などに相談に来るくらいであるから、切羽詰まっているのだろうと思いきや、始終落ち着きは失わず、折々おおらかに笑顔を見せる人であった。
 最終的に先生に謝り、誤解された点は正されたようだった。しかしその後も二年生の次男はどんどん日本の小学校に慣れていったのに比して、長男は問題をかかえたまま、中学に上がる際にホームスクーリング(自宅学習)を決心したという話であった。お父さんは研究者であると同時に教育者でもあるし、お母さんもインドネシアで高校の先生だったそうである。教えるということに関して心配はないとのことだった。心配の種は友達をどこで作るのかということだった。
 ところが、四月になると地元の中学校の制服で、公立中学校に通い始めたのだ。勉強は帰国後取り戻せるだろうが、この時期に男の子が大勢の同級生との接触を持たないことを心配されたのだろう。よく頑張って遅刻すれすれに一人登校する彼の姿とすれ違った。いつも、歯をくいしばっていた。それからの約二年間、一度子供とお母さんだけで帰国されてはみたが、やはり家族皆でと、再び戻られ、その後は比較的落ち着いて生活されていたように見えた。お母さんからときどき電話をもらったり、子供会の行事で顔を会わせたりするようにもなった。
 たまには二人でお茶をしようということになって、自転車で新しくできた喫茶店へ出かけ午前中を過ごしたときに、俳句の話をした。インドネシア語の詩を教えてと頼むと、自作の詩でなければいけないと思われて、とても恥ずかしがりながらも、教えてくれるという。その詩をどうするのだと聞かれて、私の属している同人誌に紹介するよと答えると、面白そうに笑う。インドネシアは小さな島ごとに言葉が違うそうである。公用語はバハサ、彼女はバハサの他に三つの言葉を操るそうで、ご主人の言語学の良き助手を務めている。
 彼女の育ったところでは昔ながらの住宅に住み、近隣の誰もが気軽に寄り合わせて親しく家族のような付き合いがあったそうで、それをとても懐かしんでいた。夢は引退したらそんな田舎に住むことだと言う。実際の故郷はすでに近代化して、建物も、周囲の植物相も昔の面影はないそうであった。あと三ヶ月でオーストラリアに戻るということも話された。次男はオーストラリアであっても、日本であっても変わりはないが、長男には帰国は良いことだろうという。帰国といって、お母さんにとってはホームランドではないのだなと思いつつ話を聞いていた。
 今日が日本を離れるという日の朝、手書きの自作詩をバハサと英訳で届けてくれた。一度、バハサで朗読してくれた。日本語と同じくローマ字読みすればよいと言われたが、彼女の文頭で詰まった音や、女性らしい声の繰り返しの音のニュアンスは私には出せない。
 いつも、南の太陽の笑顔で、前向きに生活する人の心の鍵を見たような詩であった。

Hidup ini….
Hidup ini …..penuh dengan cerita             
Ada cerita suka ada cerita duka
Tetapi hidup adalah….sebuah penantian
Menanti waku kita untuk kembali

Sampai saat ini…masih ada cerita
Walau entah untuk berapa lama
Pada-Mu Tuhan hamba bersyukur
Karena Engaku masih memberiku umur


This life
This life full of stories
There are good stories
and there are sad stories
But this life is full of waiting
Waiting for our time to meet the God
Right up until now
there are still many stories
Although we never know just how many
To You God as a humble servant
I offer my gratitude
Because You still give me life
               by Eni

人生
人生は物語で満ちている
良い物語も
悲しい物語も
けれど人生には望みが満ちている
いつの日か神にまみえるという望み
今この瞬間から先にも物語がある
いったい幾つあるのか分からぬが
神よ、あなたの僕は感謝を捧げます
あなたのおかげで
今もこの瞬間を私は生きているのだから

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