Nonsection Radical

撮影と本の空間

みんな一緒

2013年03月28日 | Weblog
3月いっぱいで長年聴いたラジオ番組が終了する。
色々な事を教えてもらい、色々な事を考えさせられた情報番組だった。
ラジオでもテレビでも新聞でもマスコミというのは数多くの人を対象に情報を送り、それで引きつけられた人に宣伝広告を流して対価を得るという極めて単純な”仕事”だ。
広告宣伝に適した人を集め、大量に商品を販売する手助けをする。
そのためには商品に適した人を集めなければならない。
そうなると当然大きな層をなすいわゆる”一般大衆”を相手にする事が効果的だ。
社会の中程に位置する(そういう調査は細かく行われている)人々が関心を持つような番組を作り、拒否反応を起こさない番組を作り、時には半歩ずらした番組で”斬新な”とか”過激な”とか言われる程度の話題を提供するのが良い番組なのだろう。
そうなるとその層からはずれる人達はどうなるのか?
無視されるのだ。
少数者の嗜好は商売にならないのだ。
その人達の考えや意見を取り入れたものは、多数にとっては心地よいものではないし、つまらない。
それでも少数者の嗜好も実は程度の差があっても”普通”の考えなのだ。
ただそういう普通さも、これまで色々な問題はあっても、まあそれはそれとして置いておいて、とりあえずはこのままで良いではないかと思う人達からは“過激すぎる”と思われてしまうのだ。
それが女子柔道の問題のように顕著化するのは、まあこれまで通りというのではニッチもサッチもいかなくなった場合だけの特殊なケースだ。
つまり女子柔道ではこれまでは、暴力でもセクハラでも勝てさえすれば問題にしなかったのだが、これまで通りのやり方ではもう勝てない事が明らかになったから、勝てる方法で指導して欲しいという声になったのだ。
マスコミも同様にこれまで通りのやり方で、これまで通りの人を対象に情報を提供して”勝てれば”良いのだろうが、現状は女子柔道並みだ。
スポンサーもモノが思ったほど売れないし、マスコミも視聴率や部数などの数字が伸びないので、”やり方”を変えた方がイイのではないかと思案している。
ところが大衆は「もっとしごけ」とこれまで通りのやり方を要求するのだ。
それが”保守化”である。
新たなものは求めない、変わった事も拒否し、わずかな差異を問題視して咎め、もっと従順にと自らを縛ろうとする。
そしてドンドン異端を排除しようとする。
その結果、どの番組も、どの記事も、当たり障りのない凡庸なものになってしまう。
しかし、それを望みながら、もっと面白いものをと要求するのだ。
少数者の考えるような”特殊”なものは拒否するが、何も変わらない程度で”スゴい”ものを要求する。
それに対応するようにマスコミは”スゴそうな”ものを作ろうとするが、そんなものがあるはずもない。
むしろわずかな差異をあげつらい、違いを問題視し、それをスゴいものを扱っているように迎合して流す。

これまでテレビと違ってラジオは小規模なマスコミ(ヘンな言い方)だったので、比較的少数者向けの番組を作る事が出来たと言われるが、現在ではその”解放区”も問題にされて次々に消滅している。
少数者の小さな意見も、”大衆”やスポンサーにとって許し難いものになっているようだ。
はじめに記したように、ラジオも商売でやっているので、そういう意向に逆らう事は出来ない。
お茶を濁して適当なもので適当なお金を得る時代になっている。
その結果、少し他の人と異なる(それでも十分社会的範疇に入るのだが)事に興味を持つ少数の人達の憩いの場所がなくなっていくのである。
それで「みんな一緒」という共有観を維持するのだ。



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コメント
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