ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




中沢屋酒店。神奈川県足柄上郡松田町松田惣領1259。2016(平成28)年4月22日

御殿場線に乗り換えるため小田急線新町田駅に降り立ったついでに、「ロマンス通り商店街」をちょっとばかり歩いてみた。その商店街は御殿場線と小田急線の間を東西に通っている、道幅も適当な、まあまあ商店街らしい通りだが、賑わっているとはいえない。駅から離れるにつれ、商店街らしさも薄れる。
「ロマンス通り」という名称の由来と、いつ頃から称しているのかが気になる。やはり小田急のロマンスカーから来ているのだろうか? 新宿―小田原の特急を「ロマンスカー」の名称で運行を始めたのは1949年10月、戦後まもなくの時期だ。3000形車両を投入したのが1957年7月。

ロマンス通り商店街には古そうな商店の建物が点々とあるのだが、いつ頃の時代のものなのだろう? 関東大震災でかなりの被害を出したということだから、昭和初期の復興期が、この町にもあったのかもしれない。


内藤履物店。松田町松田惣領1263。2016(平成28)年4月22日


中村陶器店。松田町松田惣領1315。2016(平成28)年4月22日

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





小田急新松田変電所。神奈川県足柄上郡松田町松田惣領1357。2016(平成28)年4月22日

小田急新松田駅にある変電所。Googleマップに「秦野電気システム管理所松田事務所」とあるが、これは小田急の電気系統の点検などをおこなう部署のようだ。小田急小田原線が開通したのは1927(昭和2)年4月1日で、新町田駅もそのとき開業した。変電所はそれ以前に建ったわけなので、大正15年頃かと推定できる。
神奈川の近代建築>小田急新松田変電所』によると、RC造2階建、設計は小田急電鉄で、相武台前駅の変電所が同じ仕様による建物だそうだ。相武台変電所には建物の正面、2階の中央にアーチの出入口があるので、新松田変電所にもあったのを塞いでしまったのかもしれない、としている。また、近代建築では足柄上郡唯一のRC造の建物だという。
新松田駅の駅舎は平屋の寄棟屋根に破風のような屋根を乗せて、ちょっと古い駅舎にみえるが、1980(昭和55)年に建て直された割と新しいものだ。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





聖路加宿舎。中央区明石町8。1987(昭和62)年9月15日

現在、聖路加ガーデンとなっている街区の南の通りに沿って建っていた聖路加国際病院の看護婦宿舎。昭和38年の航空写真に写っている。昭和35年頃に建ったのだろうか? L字型平面の角に玄関、その奥に階段室があって、その屋根の上に水槽が載っている。その上の避雷針と思われるものの形が面白い。昔の漫画のロボット、あるいはブリキの玩具が頭に付けているアンテナみたいだ。



都職員明石住宅。明石町14。2004(平成16)年11月6日

1枚目写真の右奥へいくと、隅田川の堤防沿いの道路に突き当たる。今は「墨田川テラス」という川沿いの遊歩道に整備された。隅田川に出る手前にあるのが写真左の薄茶色のビルで、「中央区明石町区民館」。集会のための部屋を用意した施設だ。「リサイクルハウスかざぐるま明石町」があるのが特徴。
写真中央が「都職員明石社宅」で、手前のル・コルビュジエ風の建物が玄関ロビーに当たる共用部分、後ろのビルが本体になるのだろうか?
写真右にわずかに写っているのが「警視庁東京水上警察署明石寮」。その左のビルの隙間から隅田川対岸の月島のマンションが見えている。その手前の門の表札は「新明石住宅」で、水上警察署明石寮の裏に建っていた。
現在、都職員明石住宅は広場のような公園に、水上警察署明石寮は建て直している最中かと思う。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





土門拳旧居跡。中央区明石町2。2008(平成20)年11月5日

佃大橋通りを佃大橋へ登っていかずにその下の通りから南へ入る横丁を入った奥、都営明石町アパートの裏に、横丁から西へ入っている路地に沿って戦前に建てられた民家が並んでいた。長屋のように見える家で、実際に二軒長屋式の家もあったかもしれない。同じような外観なので、借家として建てられたと思われる。
横丁から3軒目が土門拳(どもんけん)の住んだ家だったのだが、訪れた日には2・3軒目の家は取り壊されて、更地になってしまっていた。2008年7月、当ブログに「九ちゃんのママ」から情報をいただいてすぐに赴いていたら間に合っただろうか? 
上写真の路地入口の角にあった家は2017年まではあったようだが、今は路地奥の家もなくなって、時間貸駐車場になってしまった。



路地奥の民家。左:2008(平成20)年11月5日、右:2008(平成20)年12月19日

『Cradle(クレドール)』という出羽庄内地域文化情報誌(山形県酒田に「土門拳記念館」がある)の2013年5・6月に「土門拳の肖像」という特集を組んでいて、その年譜に「1938(昭和13)29歳 明石町に転居」「1966(昭和41)57歳 麹町に転居」とあり、土門拳は28年間、明石町で暮らした。
『SPOON』という、やはり酒田・庄内の地域情報誌の2007年11月号に、土門拳の長女で土門拳記念館館長の池田真魚氏(1940(昭和15)年生まれ)のインタビュー記事が載っている。「2階屋の1戸建てなんですけど、落語に出てくる長屋みたいなものですね。1階に6畳と3畳、2階に6畳があって、2階は、土門の書斎兼寝室兼客間なんです。そこに、おばあちゃんと両親と子どもたちが住んでいたんです。」と、明石町の家についても語っている。
土門拳の弟子で堤勝雄という写真家がいる。平泉の中尊寺が出している『関山』という雑誌の平成17年(2005)2月号に「古寺巡礼と中尊寺」という記事を寄せている。氏は昭和38年夏に弟子入りし、明石町の家に住み込みで働いたらしい。撮影依頼の電話受付、撮影の許可依頼、スケジュールの調整、チケット・宿の手配、すべてのマネジメントを任されたうえ、家事までやった。勿論土門が撮影するときは重い機材を担いで助手を務める。「築地明石町の二軒長屋に住む土門邸の一日は……」「二階の書斎兼寝室」「風呂屋の仕舞湯で背中を流し、冷たいミルクコーヒーを一気に流し込んで一日が終わる」などとある。土門家から路地を抜けて鉄砲洲川のあった大通りに出ると、その角に「明石湯」があった。1970年まではあったようだ。

路地の奥の奥の民家。2008(平成20)年12月19日

路地の奥は鍵型に曲がり、そこから両側に4軒ずつの民家が並んでいる。こちらはほぼ(たぶん7軒が)今も残っていると思われる。左の写真は曲がり角までいって覗き込んだもの。これ以上踏み込めない雰囲気だ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





中央区立第二中学校。中央区明石町1。1987(昭和62)年1月15日

明石小学校の北に隣接していた、大正15年に「京橋高等小学校」として建てられた校舎である。
高等小学校とは1886(明治19)年に尋常小学校(修業年限4年)と高等小学校(修業年限4年)が設置されて以来、制度の変遷があり、明治末には尋常小学校は6年間(義務教育)、高等小学校は2年間となる。尋常小学校を卒業した後、余裕のある家庭の子が高等小学校に進学した。1941(昭和16)年、国民学校令により尋常小学校は国民学校(初等科)に、高等小学校は国民学校の高等科に変わった。

京橋高等小学校の校舎は『東京市教育施設復興図集』(昭和7年、東京市役所編纂、勝田書店発行)によると、施工は竹田組で、工期は大正14年11月2日~大正15年11月25日。学校の創立は明治44年11月で、20学級とある。竹田組は半年ほど先行するが、大正14年6月15日~大正15年8月28日の工期で隣接する明石尋常小学校を建てている。
写真中央の玄関から左は増築による。増築と言っても戦前のことになるだろう。



左:第二中学校・正門、右:東側出入り口。1990(平成2)年1月21日

戦後、京橋高等小学校だった校舎は、区立第二中学と都立京橋高校とで使われた、としてよさそうである。学校の名称や場所が変わっていくので、その点が複雑である。
戦後の学制改革により昭和22年に中学校が発足する。中央区では10校が開校、そのうち京橋地区は「明石中学」「明正中学」「文海中学」の3校。『中央区の地名の由来』を参照すると、明石中は常盤小学校内に開校し、昭和31年に現在の銀座中(銀座8-19)のところに落ち着く。なぜ「明石」なのかが不思議だが、明石小に併設するつもりで名称を決めたら、そこが占領軍に接収されてしまったからだろうか? 接収が解除されたのは昭和28年7月。明正中は明正小学校(新川2-13)内にあった。明正小は昭和21年から26年まで京華小学校(八丁堀3-17)に統合され、校舎は空襲の被災者を収容したらしい。明正中が開校したのは京華小内だったのだろうか? 
文海中学は明石小内に開校、ということだが、当時の明石小は京橋高等小学校だった校舎を使っていたと思われる。以降、区内の小学校に分教場を置き、昭和28年に京橋高校(校舎は旧京橋高等小)内に移転した。
昭和43年に、文海中と明正中が統合して「第二中学校」に、明石中は「第一中学校」になる。1984(昭和59)年に、第一中学校と第二中学校が統合して「区立銀座中学校」になった。文海中→第二中が京橋高等小の校舎だった建物にあったのは、昭和28~59年ということになる。

一方、都立京橋高校はというと、『中央区の地名の由来』によると、「東京市京橋区女子実業学校」(都立晴海総合高校のHPでは「東京市立京橋区女子実業補習学校」)が明治44年に京橋高等小学校に間借り移転してくる。大正7年「東京市京橋区実業補習京橋女学校」と改称。昭和2年「東京市京橋区京橋専修女学校」と改称。昭和7-11年の火保図に「専修女学校/明石町高等小学校」とあり、跡づけられる。そして昭和24年に「都立京橋高等学校」となった。1963(昭和38)年に晴海に移転する。これ以後、京橋高等小だった校舎は文海中→第二中が単独で使用したのだろう。京橋高校は平成9年に、都立京橋商業高校と統合して「晴海総合高等学校」になった。

掲載した写真はすでに第二中学は銀座中学になった後なので、「旧第二中学」が正しい。第二中が出た後は区の施設が入っていた。1986年の住宅地図では「区立築地小学校/区立京橋朝海幼稚園」だが、築地小の建替えのため、一時移ってきていたもの。平成6年1万分の1地形図には「シルバー人材センター」とあった。教室の一つを使っただけかもしれない。2002(平成14)年に解体された。今は、「UR都市機構ラヴェール明石町」(2004年6月築、22階建て199戸)という賃貸マンションが建つ。

建物は佃大橋通りの側が正面だったと思われる。その肝心の面を撮り損ねたようだ。そちらは『廃景録>中央区立第二中学校』および『都市徘徊blog>中央区立第二中学校 』で見ることができる。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )



   次ページ »