ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




土門拳旧居跡。中央区明石町2。2008(平成20)年11月5日

佃大橋通りを佃大橋へ登っていかずにその下の通りから南へ入る横丁を入った奥、都営明石町アパートの裏に、横丁から西へ入っている路地に沿って戦前に建てられた民家が並んでいた。長屋のように見える家で、実際に二軒長屋式の家もあったかもしれない。同じような外観なので、借家として建てられたと思われる。
横丁から3軒目が土門拳(どもんけん)の住んだ家だったのだが、訪れた日には2・3軒目の家は取り壊されて、更地になってしまっていた。2008年7月、当ブログに「九ちゃんのママ」から情報をいただいてすぐに赴いていたら間に合っただろうか? 
上写真の路地入口の角にあった家は2017年まではあったようだが、今は路地奥の家もなくなって、時間貸駐車場になってしまった。



路地奥の民家。左:2008(平成20)年11月5日、右:2008(平成20)年12月19日

『Cradle(クレドール)』という出羽庄内地域文化情報誌(山形県酒田に「土門拳記念館」がある)の2013年5・6月に「土門拳の肖像」という特集を組んでいて、その年譜に「1938(昭和13)29歳 明石町に転居」「1966(昭和41)57歳 麹町に転居」とあり、土門拳は28年間、明石町で暮らした。
『SPOON』という、やはり酒田・庄内の地域情報誌の2007年11月号に、土門拳の長女で土門拳記念館館長の池田真魚氏(1940(昭和15)年生まれ)のインタビュー記事が載っている。「2階屋の1戸建てなんですけど、落語に出てくる長屋みたいなものですね。1階に6畳と3畳、2階に6畳があって、2階は、土門の書斎兼寝室兼客間なんです。そこに、おばあちゃんと両親と子どもたちが住んでいたんです。」と、明石町の家についても語っている。
土門拳の弟子で堤勝雄という写真家がいる。平泉の中尊寺が出している『関山』という雑誌の平成17年(2005)2月号に「古寺巡礼と中尊寺」という記事を寄せている。氏は昭和38年夏に弟子入りし、明石町の家に住み込みで働いたらしい。撮影依頼の電話受付、撮影の許可依頼、スケジュールの調整、チケット・宿の手配、すべてのマネジメントを任されたうえ、家事までやった。勿論土門が撮影するときは重い機材を担いで助手を務める。「築地明石町の二軒長屋に住む土門邸の一日は……」「二階の書斎兼寝室」「風呂屋の仕舞湯で背中を流し、冷たいミルクコーヒーを一気に流し込んで一日が終わる」などとある。土門家から路地を抜けて鉄砲洲川のあった大通りに出ると、その角に「明石湯」があった。1970年まではあったようだ。

路地の奥の奥の民家。2008(平成20)年12月19日

路地の奥は鍵型に曲がり、そこから両側に4軒ずつの民家が並んでいる。こちらはほぼ(たぶん7軒が)今も残っていると思われる。左の写真は曲がり角までいって覗き込んだもの。これ以上踏み込めない雰囲気だ。

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