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ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




桶新氷室。江戸川区南小岩3-18。2005(平成17)年3月19日

千葉街道の小岩郵便局交差点の南東角。小岩中央通り五番街を南へ延長した通りとの交差点である。その通りは「小岩用水」の流路を埋めて造った道路で、ベニスマーケットが建ってしまった五番街の埋め立ては昭和37年であるが、延長通りはそれ以前に埋め立ては完了していたと思われる。昭和38年の航空写真では、下小岩用水(千葉街道のすぐ西をほぼ平行する。一部は下小岩親水緑道に)と千葉街道の間のわずかな部分が未開通だ。
「桶新氷室」とその左の平屋の建物とは今も残っていて、「東不動産」は廃業したようだが桶新氷室は続いている。
平屋の洋風な看板建築が目を引く。両側面まできちんと造ってある。どんな商売をしていたのか分からないのが残念だ、



平屋の看板建築。南小岩3-18。2005(平成17)年3月19日

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東京都公園資料館。千代田区日比谷公園
1986(昭和61)年8月17日

日比谷公園内にある元公園事務所。1990(平成2)年3月に東京都の有形文化財に指定され、今は建物の前に東京都教育委員会が平成2年12月に設置した説明板がある。そこに書かれているように、1910(明治43)年11月に公園の管理事務所として建てられた木造2階建てドイツ・バンガロー風の建物。設計者は東京市営繕課の技師、福田重義。東京市に入ったばかりの頃の作品になるようだが、そんな試しにやらせてもらったのかもしれないような作品が今に残されたのが面白い。
1976(昭和51)年、資料館にするため内部を改装したが、躯体と外観はいじっていないようだ。
1999年以降は老朽化と耐震性能上の問題ということで閉鎖されてしまったが、2005年に結婚式場として使えるようにした。明治の建物ではあるが、どうも内部はだいぶ改修されていそうで、見学するほどのことはないような気がする。
福田重義の作品では「横浜市開港記念会館原案(1913年)」が有名。1930年に東京市を退職して独立後の作品に「三楽病院(1933年)」がある。当ブログ『三楽病院/駿河台2丁目 』にあるので、誘導しておく。

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帝国ホテルライト館。千代田区内幸町1-1。1961年配布の絵葉書

上の写真の画角で撮った写真は、幾つかがネット上に上がっている。母の写真アルバムに「松竹料理教室テーブルマナーの会/1961年9月17日於帝国ホテル」という集合写真があるので、上の絵葉書はそのとき持ち帰ったものと推定した。新館が写っていない。1950年代前半の写真だと思う。
下の新館の写真は珍しいだろうと思っていたが、これもネット(ジャパンアーカイブズ>帝国ホテル第二新館)に出ていた。1958(昭和33)年に竣工した「第二新館(東館)」で、ウィキペディアによると、「高橋貞太郎設計。鉄筋コンクリート造、地上10階、地下5階、客室数450。1980(昭和55)年インペリアルタワー建設のため解体」ということである。
「第一新館(別館)」は1954(昭和29)年に敷地の北東に建てられた。下の写真では第二新館のちょうど後ろに隠れて見えない。ウィキペディアによると、「高橋貞太郎 設計。鉄筋コンクリート造、地上7階、地下2階、客室数170」で、第二新館と同時に解体されたようだ。


帝国ホテル第二新館。千代田区内幸町1-1。1961年配布の絵葉書

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日比谷三井ビル。千代田区有楽町1-1。2008(平成20)年11月5日

先日(2018.03.29)開業した「東京ミッドタウン日比谷」建設のため取り壊されたビル。写真右の空き地は三信ビルの跡地。「日比谷パティオ」という公園様の広場になっていたようだが、その工事を進めているところだろう。
日比谷三井ビルの建設は1957年9月に着工、1960(昭和35)年8月に完成した。高度成長期が始まる時代である。31m(100尺)の高さ制限がある頃で、床面積を拡大しようと、ステンレスとアルミを多用したという。また部屋や廊下の間仕切りは従来の壁ではなく、広いフロアをパネルで仕切る現代的な方法の嚆矢になったビルらしい。完成時では日本有数の巨大ビルだった。発注者=三井不動産。設計=マツダ平田設計事務所、横川工務所。SRC造9階地下5階建。
日本橋の三井本館から三井銀行(現三井住友銀行)本店がここに移ってきた。あの偉容を誇るビルであっても業務自体はやりにくかったのかもしれない。コンピュータはまだ入っていなかったと思う。


三信ビル、日比谷三井ビル。1985(昭和60)年11月22日

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三信ビル。千代田区有楽町1-4
上:1986(昭和61)年5月18日
左:1985(昭和60)年11月22日

先日(2018.03.29)「東京ミッドタウン日比谷」が開業した。三信ビルと日比谷三井ビルとを再開発して35階地下4階建の高層ビルにしたものだ。そんなにオフィスの需要があるものなのかと、不思議でしかたがないが、どうもいくらでもあるらしい。

三信ビルの建て主は三井合名と三井信託で、「三信」とは「三井信託銀行」の略称である。テナントも主に三井の関連会社だったらしい。8階には「三友倶楽部」という三井の厚生施設だか社交施設だかが設置されたという。
三信ビルの工事着工は昭和3年(1928)7月、竣工は1929(昭和4)年12月。SRC造8階地下2階塔屋1階、設計は横川工務所(松井貫太郎)、施工は大林組。
外観が独特でただのオフィスビルにない魅力を発している。壁面や窓などの曲面は「表現派」の影響というのがよく言われる。たしかに、表現派の建物に感じるちょっと異様な、あるいはSF的なものは感じられる。外観についてはいろいろ言い方があるようだ。

「外観の単調さ、平滑さを嫌い、さまざまな様式を集めて、個性的な表現を試みた特徴ある建物である。コーナーを丸め、中央部にふくらみを持たせた外壁は、当時流行の表現主義を基調にしているが、ルネッサンスやゴシックの手法も見られる。」(『建築探偵術入門』(東京建築探偵団著、文春文庫、1986年、480円)。
「基本的には簡素化された様式主義の範疇に属している。しかし、外壁の曲線のうねりの大胆さは、表現主義の影響とみて妥当であろう。」(『帝都復興せり!』(松葉一清著、平凡社、1988年、2400円)。
「セセッションとゴシックを折衷した外観」(『看板建築・モダンビル・レトロアパート』(伊藤隆之著、グラフィック社、2014年、2,800円)。
「スパニッシュ風のアールデコ様式」(藤森照信、『東京人No.152』2000年)。

東西に長い形で、1枚目写真の角度で見ると、アメリカの大陸横断列車を引っ張るディーゼル機関車のようにも見える。ぼくは1930年前後の工業製品のデザイン(飛行機、自動車、機関車など)が好きなのだが、このビルにも同様なものが見て取れる。
また、このビルは吹き抜けのアーケード、2階の回廊、半円形のエレベータホールなど、内部が素晴らしかった。

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小曽木質店。文京区千駄木5-5。2000(平成12)年5月5日

不忍通りの団子坂下交差点から西へ、本郷通りの向丘二丁目交差点へ向かう都道452号(白山神田線)から駒込学園近くの裏手に入ったところにあった質屋の蔵。都道はこの辺りでは「大観音通り」という表札が外灯に付いている。駒込学園前交差点の西北に「駒込大観音(光源寺)」があり、その交差点のすぐ東を北へ入ったところ。
周囲は戦災で焼失した地区である。写真の土蔵はその造りのため焼け残って戦後もずっと使い続けてきたものかと思う。周辺は一戸建て住宅が密集する住宅地で、小曽木質店の敷地も、現在は数棟の住宅に替わっている。

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