ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




いなば矯正歯科。静岡県伊東市和田2-3。2015(平成27)年1月18日

タムラ洋菓子店の交差点から県道110号に入って東へ、250mほどのところ。県道110号は海岸沿いの国道135号の波止場入り口交差点から西へ、内陸の旧国道を結ぶわずか700mばかりの道路だ。
建物は歯科医院ということもあってか、下見板の洋風な外観。正面だけを見ると、改修されてのことだろうが、普通の住宅に見える。瓦の寄棟屋根の庇と壁を漆喰の曲面でつないでいるようだ。そういう造りもあってか、文明開化の擬洋風の建物を連想させる。



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中村畳表店。静岡県伊東市和田1-10。2014(平成26)年2月28日

玖須美温泉通りの、伊東玖須美郵便局の斜向かいにある割と大きい出桁造りの商家。右奥(西の方向)に玖須美温泉通り商店街のアーケードが見える。店名の看板が見当たらないので営業しているのかどうか心配である。「中村畳表店」はどこかにあった町内地図で見当を付けたもの。



平屋の商店。伊東市和田1-10。2015(平成27)年1月18日

玖須美温泉通りの大川洋品店の横を南へ行くと県道110号に出る。そこの三叉路の角にある、商店だったと思われる家。せめてなにを商っていたか知りたいわけだが、商売の痕跡はさっぱりとなくなっていて推測のしようがない。看板建築のようにした壁の下に庇を造っているが、その先端には蝶を並べたような模様の帯になっている。

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大川洋品店、玉屋洋菓子店。静岡県伊東市和田1-6。2014(平成26)年2月28日

玖須美温泉通り商店街の東端。商店街のアーケードは写真の四つ角から西へ始まっている。銅板張り看板建築はこの辺りではごく珍しい。東京だと錆びた銅板の色が黒っぽくなっていることが多いが、空気がいいせいだろうか、きれいな薄い青緑色だ。大川洋品店と玉屋洋菓子店が入っている。
下2枚の写真は1枚目写真の右奥へ行った玉屋の並び。「浜新道関処」は居酒屋だと思うが「浜新道」は玖須美温泉通りの昔の名称。鉄道が開通する以前は、観光客は船で伊東港からもやってきて、浜新道は賑わったという。
浜新道関処の右は奥に民家があり、次いで理容ユミタの平屋の看板建築。関処の建物に沿ってコンクリートの板で蓋をした下水溝が左へカーブしながら奥へ続いているのが気になる。川の跡だろうか?


浜新道関処、理容ユミタ。伊東市和田1-6。2014(平成26)年2月28日



ギフトショップ・リボン、大川板金店。伊東市和田1-3。2014(平成26)年2月28日

理容ユミタの前をさらに西へいくと四つ角の角に「ギフトショップハリカチェーン・リボン玖須美店」。そのまま西へ行くと「大川板金店」の出桁造りの家がある。


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永井印刷。中央区日本橋人形町1-4。1987(昭和62)年5月31日

手前の通りは芳町通り。左へ行くとすぐ人形町通りとの人形町交差点。現在はパチンコ百億のビルを中心に周囲の家屋をまとめて「人形町センタービル」(1994年3月築、9階地下2階)が建ち、百億もそこの1・2階に入った。それが昨年2月15日で閉店して、今はローソン、磯丸水産(海鮮料理)、トレーニングジム等になっている。
永井印刷は『大正元年日本橋区地籍地図』に写真とほぼ同じ位置、当時の元大坂町に「永井活版所」の記載があるがはたしてそれなのかどうか。昭和30年頃の火保図では「三葉印刷KK」である。



永井印刷、清心丹薬局。日本橋人形町1-4。左:1990(平成2)年12月16日、右:1986(昭和61)年9月7日

左写真の永井印刷から奥へ、相模屋豆腐店、清心丹薬局住居、同店舗。百億の左後ろの縦長窓は人形町郵便局。永井印刷の、横丁の向かい側の塔屋のある建物は中村眼鏡店だった家。
右写真は清心丹薬局のほうから芳町通りのほうを撮ったもの。

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萬武染工所。中央区日本橋人形町1-5。左:1985(昭和60)年4月29日、右:1986(昭和61)年10月12日

人形町通り商店街の1本西の裏通りにあった銅板張り看板建築の家。左写真の白い壁の家が現在は日本橋人形町郵便局が入るビルになっている。
後ろは入母屋屋根の3階建て。普通は前にあるベランダが横についている。写真ではなんの商売をしているのだか分からないが、出入り口左の出窓のような部分の壁(右写真ではベンチが立てかけてある)に「萬武染工所」の木の看板が下がっている。『下町残照』(村岡秀夫著、朝日新聞社、1988年、1500円)によると、昭和60年の取材では店主は6代目。江戸時代は「おん紅どころ、萬屋武兵衛」と称した。廃業する前は絹糸を染める仕事を主にしていたという。
1987(昭和62)年に取り壊して現在の「萬武ビルディング」(6階建てオフィスビル)が1990年5月に完成した。
左写真右の家は料理屋だか料亭のように見える。昭和30年頃の火保図に(当時の住所は芳町1丁目6番地)「吉鶴」というそれらしい名前があるが、住宅の記号がついている。

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理容 浪花軒。中央区日本橋人形町2-26。1982(昭和57)年8月29日

写真左のタクシーが走ってくる通りは芳町通りで、左端に写っているビルは「NTT茅場兜電話局」の新館。そのビルの手前、浪花軒の向かい側には、大正14年に建った旧館があった。写真手前の通りは大門通り。
当ブログ前回の太田屋染物店の左のビルの二階が浪花軒という理髪店なのだが、写真の浪花軒はその旧店舗である。大門通りの斜向かいに移ったわけで、昭和61・2年のことである。写真の建物は戦後すぐ、間に合わせに建てられたバラックが残っていたのかもしれない。正面の写真を撮っておかなかったのが残念だ。現在は「オリコ人形町ビル」という9階建てのオフィスビルが建つ。
店のHPには「since1887」とあり、明治20年創業である。『大正元年日本橋区地籍地図』(中央区沿革図集[日本橋編])に、写真と同じ場所、浪花町一八番地に「理髪浪花軒」で記載されている。
浪花軒の後ろに日通のマークがある建物は「日本通運人形町支店/ヤマトインターナショナル東京支店人形町別館」。日通が建つ前は「人形町大映」と「人形町武蔵野館」という2棟の映画館が並んでいたところだ。昭和40年頃にはなくなっていたような気がする。現在は「NEX人形町ビル」(1991年7月築、12階地下2階)というオフィスビルに建て替えられた。

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太田屋染物店。中央区日本橋人形町2-7
1987(昭和62)年5月31日

当ブログ前回の小林果実店の建物の大門通り側の隣の家。モルタル仕上げの看板建築だが、商売にふさわしい和風の表面のデザインが施されている。モダンなデザインにも見えるが、和風のファサードの看板建築は割と珍しいと思う。軒下の中央のマークは富士山の下に「太長」の字を入れたものらしい。その下の字は、1行目が読めなかったのだが、samatsutei様にコメントでご教示いただき、「美術/染物あらひはり」と判明した。
バイク呉服屋の忙しい日々>洗い張り職人 太田屋・加藤くん(1)(2013.05.19)』に太田屋のことが紹介されていた。甲府市の松木呉服店から発信しているブログである。洗い張りの仕事がどういうものかなんとなく分かるが、同時に着物を着ることが贅沢なものなのだな、ということも分かる。当記事によると「太田屋」という屋号は初代が修行した浜町の店の名前で、明治25年に暖簾分けしての創業である。今は四代目という。需要を見込んで芳町の花街に出店したわけだ。創業時から戦前までは大変な忙しさだったのではないかと想像できる。
太田屋は、今は近くだが甘酒横町の裏手に移っているが健在。マークの文字が「大増」と変わっている。

下の写真は太田屋を中心にした家並み。写真右端が芳町通りとの交差点で、その角に小林果実店、同じ建物の青い日よけは「パーラー桃山」、街路樹で隠れた太田屋の左は「純喫茶Doll」。上の写真ではドールがビルに建て替わっている。



純喫茶Doll。日本橋人形町2-7。1985(昭和60)年4月28日

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