ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




いく恵、朝日新聞販売所。台東区東上野6-10。1991(平成3)年6月30日

当ブログ前回の三共バーナーの通りである。国際通りの雷門1丁目交差点から西へ入って昭和通りに出る通りで、西浅草では「菊水通り」の名称がある。
写真の3軒の家は恐らく3軒長屋だ。おにぎり屋の建物はまだ残っている。



坂東報恩寺の並び。東上野6-10。1991(平成3)年6月30日

1枚目の写真の東のブロック。写真右奥の瓦屋根は俎板開きが有名な坂東報恩寺。2軒長屋は元の建物の半分くらいが残ったものらしい。

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新光でんき。台東区東上野6-9。1988(昭和63)年5月1日

東上野6丁目は清洲橋通りの東、浅草通りの北。写真の家並みは東上野5丁目の上野下アパートの北にある竜谷寺という寺の向かい側である。旧町名だと浅草北清島町。当ブログのカテゴリーでは「浅草」に分類すべき場所だが現町名が東上野だから「上野・谷中」に入れた。
東上野6丁目の2・3・8・9・11・12番地と10番地の南側は空襲による焼失を免れたようだ。恐らくここを境に隅田川を越えた荒川の辺りまで一面の焼け野原になったのだろう。よく見ると今でも戦前の建築と思われる木造の家が見つかる。
写真左端が交差点角の野中ビルという5階建てのビル。その隣から親光でんき、ビューティショップ(クリーニング)、民家、民家、喫茶ピッコロ、松楽(居酒屋だと思うのだが「大盛大サービス/煮込みとライス/ドカベン○○」の看板)。
現在は清洲橋通りに沿っては、2002年2月に竣工した「住友不動産上野ビル8号館」というビルになった。9番地のほぼ3分の2を占める。



三共バーナー。1991(平成3)年6月30日

清洲橋通りから野中ビルの角を東へ入ったところ。住宅地図では右から、吉沢事務所、三共バーナー、車庫。

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純喫茶藤、喫茶TOP。千代田区神田神保町2-19。1985(昭和60)年8月4日

靖国通りの南の裏通りで、右奥が白山通り。さくら通りの旧相互無尽の裏である。
昨日、出かけた帰りに神保町によって『1960年代の東京』(写真:池田信)と『隅田川の向う側』(半藤一利著)を購入したのだが、ついでに写真の建物がまだあるかと確認に行ってみたら消えて駐車場になっていた。Googleマップの航空写真には写っているがストリートビューだとシートに覆われて解体中である。ついこの間も写真を撮ったのに、と思ったらそれは2006年3月のことですでに3年前のことだった。
上の写真は純喫茶藤の並びにまだ何軒か古い家が写っているので出しておく。住宅地図では純喫茶藤がアサヒ商会となっていて、その右が千歳テーラー、2軒おいて共栄梱包とパンナビ。



1枚目の写真では純喫茶藤の日除けがひどい状態だがそれが取り替えられている。建物右の店にのれんが写っている。飲食店が入っていたのだろうか。写真左の旧相互無尽(第一相銀別館)との間の家が写っている。1987(昭和62)年2月22日

純喫茶藤の石張りにした壁面と、TOPの入口が分かる写真。「図書出版・論創社/図書出版・木魂社」の看板がかかる。1991(平成3)年6月30日

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文銭堂。千代田区神田神保町1-13。1985(昭和60)年7月21日

神保町のすずらん通りの白山通りに近い街区。右奥のビルが白山通りを渡ったところの神田神保町ビル。そこは撮影時の2年位前には救世軍本営の中世の城みたいなビルがあったのだが写真を撮りそこなった。
写真左に莉須凡(和風喫茶、文銭堂の経営らしい)がちょっと写っていて、以下、文銭堂(和菓子)、包子餃子(スヰートポーヅ)、青銅(喫茶)、コンチ(喫茶)、山形屋紙店、清光堂(洋品)、廬山菜館、揚子江菜館、東明徽章工芸、白山通りとの角が理髪一番。山形屋は自社ビルの建築中なので仮店舗として家を借りているらしい。



1枚目の写真の家並みを逆方向から。現在、同じ建物で同じ店というのは包子餃子と東明徽章。1987(昭和62)年11月8日

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かっぱ橋本通り。台東区北上野1-5。1991(平成3)年6月30日

写真手前の通りは昭和通りから入って国際通りに出る「かっぱ橋本通り」である。提灯の飾りつけは「下町七夕まつり」のものだろう。このイベントは昭和63年に始まっている。写真の家は昭和通りにも面している街区にあり、現在も残っている。



千賀商店。台東区北上野1-4。1989(平成1)年7月23日

1枚目の写真から次の東のブロック。写真に写っている建物はたぶん全部が今も残っている。4軒長屋の「傘・はきもの あつみや」の千賀商店は、失礼ながら廃業も遠くないと見ていたのだが、今、看板が変わらずにあるのがこの傘・履物屋である。あとの3軒の看板はなくなって商売をたたんだかテナントが入らない状態だ。千賀商店の左の森カメラ店の前に台東区循環バス「めぐりん」の「北上野」停留所ができた。
北上野1丁目の旧町名は万年町2丁目、通りの向かい(南)が万年町1丁目。「下谷万年町物語」の唐十郎の家は写真の家並みの裏の辺りではなかったかとぼくは推定している。

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萬屋履物店。千代田区神田神保町2-19。1983(昭和58)年9月

神保町のすずらん通りが白山通りを越えるとさくら通りになる。写真の家並みはさくら通りの中間辺り。左から、和紙の山形屋紙店、(路地)、市川商店、志乃ぶそば店、萬屋履物店、日清堂書店仮営業所(旧三河屋運送店)。
山形屋は1879(明治12)年の創業という老舗。今もビルの裏に明治時代からある煉瓦の蔵が残っている。
現在は、山形屋はビルに、写真右の4軒(3棟)はまとめてリーガルタワー神保町(2005年3月竣工)というビルになった。
萬屋は、『下町残照』(村岡秀夫著、朝日新聞社、1988年)に当時92歳だった店主の話を記録している。それによると、家は昭和4年に建てたもの。千代田区成立前の神田区内には85軒の下駄屋があったそうだ。昭和62年では5軒。
写真右端の家は白い板の看板からも運送店だったと分かるが2階の戸袋にも字が書いてある。左の壁は額縁のようにした中に「荷造と運送」、右の戸袋に「リヤカートラック運搬・引越荷物運搬・鉄(旧字の)道貨物客車便」。



手塚印刷。1987(昭和62)年11月1日

1枚目の家並みの続きである。写真右端が第一相銀別館(現・三井住友銀行別館)、その左が手塚印刷。この2軒は今も残っている。写真左上に山形屋のビルがすでに建っている。山形屋の銅板張りの家をちゃんと撮っておくのだった。

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矢口書店・古賀書店。千代田区神田神保町2-5。1985(昭和60)年7月21日

靖国通りの神保町交差点と専修大前交差点の中間辺り。写真に写っている範囲の建物は今でもほとんど変わりがない。靖国通りの裏手が東洋キネマがあったさくら通りで、そこへの入口ということでアーチがかかっている。それを記録したような写真だ。
矢口書店の建物は3階建てのビルに見えるが木造で、昭和3年の建築という。



篠崎運送店。1987(昭和62)年1月4日

1枚目の写真のアーチの横丁を入って靖国通りのほうを見た写真。アーチはすでになくなっている。
写真の建物は角の矢口書店から、篠崎運送店、旧小川下駄店、神戒タバコ店、ペリカン便受付所、路地の左が旧市毛青物店。路地を入ったところに中(あたり)質店があって看板がかかっている。ペリカン便の横の壁には飯田橋にあった佳作座のポスターが貼ってある。
現在は写真左の2軒がなくなったが、古い建物が3棟並んで残っているのはこの辺りでは珍しい。

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錦町警察署長官舎。千代田区神田錦町2-1。1987(昭和62)年12月31日(4枚とも)

前の道路は神田警察通りで、まさに神田警察署の向かいである。写真はまったくの逆光でシルエットになってしまったうえ庭の木が建物を隠している。見たところ、コンクリート作りの洋館の民家だ。撮影時の住宅地図だと「神田警察署建設事務所」。とすると当時は神田警察署は建設中だったらしい。1年くらい前に来ていれば警察署の旧ビルを撮影できたのかもしれない。
昭和30年頃の火保図を見ると、「錦町警察署長官舎 竹居通矢(コ)」となっているから、目の前の神田警察署の署長の官舎だったらしい。昭和22年の航空写真には四角い建物が写っている。確信はもてないが、その建物かもしれない。

警察署長官舎の敷地は奥で左右に広がっていた。正面の右の路地を入ると建物の横側が間近に見られた。門があるのが北側だが、左写真は建物の北側と西側、右写真は西側と南側である。
現在は建物が取り壊されただけで駐車場になっている。

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