ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




銀座タクト。中央区銀座6-9。1985(昭和60)年6月2日

中央通りの1本西の裏通り(すずらん通り)で、向かいは交詢社である。今でも同じ場所にタクトワンビルが建って、その地下に「TACT」がある。老舗のライブハウスということだ。
TACTのHPには、「昭和33年音楽喫茶『タクト』が開業。数々のスターが誕生し、歌謡界の登竜門的存在として若者を中心に注目を集めるようになりました」とある。ライブハウスはそれが出来始めた頃は音楽喫茶といっていたのかもしれない。
楕円形のボードには「今日の出演/バッキー白片とアロハハワイアンズ」、四角いボードには「楽しいショーとドリンク!」と書かれている。

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明禮ビル。中央区銀座5-11。1985(昭和60)年6月2日

前の通りは銀座のみゆき通りで、右手へ行くとすぐ昭和通りに出る。戦前はビルの左手は三十間堀で、木挽橋が架かっていた。明禮ビルの向かいに公衆トイレがあり、橋際の名残のような感じがしなくもない。
1階中央の出入り口の上に「明禮ビル」の表示があり、その右の青い日よけのある入口が2階の「麻雀・萬中」への入口なのだろう。左にも「NTN平和産業株式会社」のドアがある。右のピンクの日よけは「ブラジレイロ」。




豊玉ビル
銀座5-11
上:1986(昭和61)年8月31日
下:1984(昭和59)年10月21日

明禮ビルの角を北へ入ったところ。上の写真で左の3階建ては明禮ビル、右の3階建ては「松坂屋第三事務館」。

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松坂屋第2別館
中央区銀座5-9
上:1985(昭和60)年5月11日
下:1986(昭和61)年8月31日

晴海通りから三原通りへ入るとすぐ、三原小路という路地があるが、そのすぐ先の所。住宅地図では写真左手のビルは第三太陽ビル、右手の家は「竹中工務店工事事務所」。肝心の古いビルは空き家なのか空白だ。「廃景録」での名称をそのまま使わせて頂く。
昭和30年頃の火保図では「松坂屋商事部」、昭和7~11年の火保図では「銀東アパート」が建っていて、それは木造のようだ。そこで、このビルは昭和10年頃に建てられたらしいと推測できる。

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足立ビル。中央区銀座5-12。左:1986(昭和61)年5月11日、右:1988(昭和63)年10月9日

昭和通りの三原橋交差点の近く。北側の白鶴ビルと南の本州ビルにはさまれて小さなビルに見えるが、奥行きがあって裏通りまでとおっている。
『日本近代建築総覧』によると「足立鋼業K.K.(旧エタニットK.K.ビル)、S6頃」である。
三笠会館といったほうが分かりやすい。白い壁と瓦でスパニッシュのような印象を受ける。
足立ビルのきれいな写真や突っ込んだ解説をしているサイトとして、「街の風景>銀座散歩>足立ビル」と「廃景録>消えた近代建築>オフィスビル>足立ビル」を挙げておく。
「廃景録」には「もともとアンパンで有名な「木村屋総本店」として建てられたそうです。設計者は和田順顕」とあり、確かに昭和10年頃の火保図を見ると「木村屋總本店」である。当時は木挽町5丁目。
和田順顕の作品は、当ブログでは神田駿河台にあった日本医師会館を取り上げている。


足立ビル・裏側
1987(昭和62)年10月4日

昭和通りの1本西の裏通り。足立ビルは軒にロンバルディア帯をめぐらしてはいるが、表側とは違って普通の箱形のビルだ。

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らんぶる
中央区銀座5-4
1986(昭和61)年5月11日

場所は外堀通りのすぐ東の裏通り(ソニー通り)で、日動火災のビルの裏になる。細い路地との角にあったから撮影位置を選べば建物の2面が撮れたわけだが、どうも考えが足りない。
喫茶店のジャンルで名曲喫茶というクラッシクのレコードを聞かせる店だということは知っていたが、入ったことはない。昭和23年の開業だというから建物も1948年に建ったものなのだろう。開店から10年くらいはレコードはSPの時代である。交響曲だったら両面で3枚位が必要だった。再生装置がどういうものだったのか気になる。やはり蓄音機だったのだろうか。

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秀吉ビル。中央区銀座5-5。左:1986(昭和61)年5月11日、右: 1987(昭和62)年5月31日

前の通りは銀座の並木通りである。『日本近代建築総覧』に「建設年:S3、設計者:三沢良三、施工者:日本鉄筋ブロック合資会社」となっている。
『東京百話(人の巻)』(種村季弘編、ちくま文庫、1987年)に丸山三四子の「東京マネキン倶楽部」というタイトルのエッセイが収録されている。原典は時事新報社の『マネキン・ガール』(昭59)という本である。筆者は昭和6年に上京してきて、秀吉ビルに事務所を置いていた東京マネキン倶楽部のマネキン・ガールを勤めた人である。そこに少しだけだが秀吉ビルに関して書かれているので紹介する。
「秀吉ビルを建てたのはアメリカ帰りの歯科医で、2階にあった東京マネキン倶楽部の向かいで秀吉歯科医院を開業していた。帝国ホテルに泊まった外人がホテルからの紹介で来るような医院である。4階に秀吉氏の住居があったが、やがて新宿に自宅を建てて移った。」という内容である。
上の写真には「労働大臣許可/銀座マネキン紹介所」の看板がかかっている。東京マネキン倶楽部と関連があるのかどうかわからないが、歯科医院もやはり入居しているのが面白い。


2002(平成14)年5月4日

左の写真では秀吉ビルの北にあったプリンスとketelsがビルに変わり、南の坂口ビルの外壁が改装されている。

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七宝ビル。中央区銀座5-6。1985(昭和60)年頃

晴海通りの銀座四丁目交差点のすぐそば。すずらん通りに入る角に安藤七宝店の旧ビルがあった。現在もビルを建替えて盛業のようだ。その右手は住宅地図ではギンゴビルと洋書のイエナと近藤書店が入るビルだ。
安藤七宝店はそこのHPによると、明治13年の創業で本店は名古屋にある。東京支店は明治23年の開設だが場所は記されていない。大震災で店が消失後、昭和5年に再建された。現在のビルは平成元年の完成で「銀座七宝ビル」という名称である。




上:七宝ビル
1986(昭和61)年5月11日


左:メイル洋品店
銀座5-7
1987(昭和62)年5月31日

晴海通りからすずらん通りに入ったところで、七宝ビルの向かい。晴海通り側に和菓子のあけぼのと鹿乃子がある建物である。住宅地図には「銀座電機・メイル・あけぼの・鹿の子・アップルハウス・ハリウッド」となっている。戦後じきに建てた仮店舗が昭和の末まで残ってしまったものだと思う。


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左:秀和印刷。中央区日本橋蛎殻町1-29。1987(昭和62)年頃
右:民家。1987(昭和62)年5月5日

新大橋通りの南の裏通り、当ブログ前回の堀内商店の並びの裏側は細い路地だが、その南の道路。左の写真右が秀和印刷、秀和印刷の袖看板に隠れているのが右の写真の和風木造の民家。昭和30年頃の地図では写真左から「太陽不動産、松本クリーニング、からきや工務店」。



ホームラン(麻雀荘)。日本橋蛎殻町1-30。1987(昭和62)年5月5日

秀和印刷の向かいにあった。建物全体の写真を撮っていないのだが、注目するほどの家ではなかったとしてもやはり残念だ。平屋だったような気もする。そんなことさえ憶えていられないらしい。
昭和30年頃の地図には「金村マーヂャン」となっている。

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