ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




三鈴堂眼鏡店の長屋。千代田区神田神保町1-7。1983(昭和58)年9月

靖国通りに面した洋風の商店長屋。元々は11軒長屋だった。写真左の平べったいビルが横丁の角に立つ小宮山書店のビルで、長屋が建て変わったもの。その右の田村書店、野崎屋刃物店も建て変わっているようだ。以下3・4軒、正面を改装していて、四方堂書店、奥野書店、三鈴堂眼鏡店、ミューズ社レコード店の4軒が建築時からあまり変わっていない。



四方堂書店。1986(昭和61)年9月23日



長屋の裏。1985(昭和60)年8月4日

長屋の裏側は店ごとにてんでに増改築されている。写真中央の青い壁の家が奥野書店、その右の白い壁の家が四方堂になるようだ。

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三慶商店。千代田区神田神保町1-19。左:1983(昭和58)年9月、右:1985(昭和60)年7月21日

三慶商店の旧店舗はすずらん通りの冨山房ビルの斜向かいにあった。主に中古の楽器を扱う店。角にあって建物の2面を見せていて、横丁の側は全面ショーウインドウになっている。洋館風店舗建築といったらいいだろうか? 1999年11月に建物は取り壊され、その後ビルに建て変わった。三慶商店の隣は「はちまき」というてんぷら屋で、タイル張りの建物は今も健在。その隣が現在の三慶商店で、当時も住宅地図では三慶になっているから倉庫にでも使っていたのかもしれない。



やっこ。神田神保町1-25。1991(平成3)年

すずらん通りから三慶商店の角を南に入ったところ。左奥がすずらん通りを越えて靖国通りに出る。「やっこ」という飲み屋の隣はやはり「つねか」という飲み屋。このあたりはすずらん通りの裏手の飲み屋街。


三慶商店の後ろの家
神田神保町1-19
1992(平成4)年5月5日

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文房堂。千代田区神田神保町1-21。左:1985(昭和60)年8月4日、右:1986(昭和61)年6月1日

左の写真はまだアーケードがあった頃のすずらん通りで、文房堂のある東の入口付近。
文房堂は1887(明治20)年に創業された洋画の画材店。写真のビルは関東大震災前の1922(大正11)年の竣工。1990年に改築されたがファサードは保存された。
文房堂のビルは塔屋が目立つビルのはずだったが周りを高いビルに囲まれて塔は見えなくなってしまった。右の写真は駿河台下交差点の向かいからすずらん通りの入口を見たもので、ビルの隙間からやっと塔屋が見えている。文房堂と書泉ブックマートの間のビルがヴィクトリア・レコードセンターになっている。


文房堂
1987(昭和62)年1月1日

文房堂ビルの裏は向かいが駐車場だったので、少し離れてビルを見ることが出来、塔屋も眺められた。

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湯島印刷。文京区湯島3-2。1987(昭和62)年頃

前の坂道は清水坂という。右手に下ると蔵前橋通りの清水坂交差点。横に入る道路の角に妻恋神社の看板があるが、そちらが妻恋坂で、妻恋坂と並行する蔵前橋通りのほうは新妻恋坂である。このあたりは神田川のすぐ北側で本郷台地の南端になる。この台地に東のほうから西北の方向に谷が入り込んでいるため坂道が多いわけだ。樹木谷坂のいわれが樹木谷から、というから樹木谷といっていいだろう。その谷筋を蔵前橋通りが通っているのでこの通りを横断する道路は蔵前橋通りへと下って、そこを超えるとこんどは上がりになる。


常松動物病院
湯島3-1
1987(昭和62)年頃

蔵前橋通りから路地を入ったところで、正面の階段を上がると妻恋坂。妻恋坂を少し下ると立爪坂が現れる。写真の右側の家は千代田区外神田。どういう経過でこんな細い道が区の境になったのだろう?

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実盛坂。文京区湯島3-19、21。1989(平成1)年頃

写真中央下に写っている階段はその右の家に入るためのもので、実盛坂はその左の崖の間にあるはずだ。モルタル壁の日本家屋は住宅地図で「ミクラホテル」。
最近、実盛坂を訪れてみたら、階段の下は古いままだったが10段くらい上がったところから左右に広げられていた。



木むら旅館。湯島3-15。1987(昭和62)年頃

写真右側の道路は奥(南)へ行くと三組坂の通りへ出るが「ガイ坂」という。湯島3丁目の南部はホテルが多く立つ。軒並みラブホテルという一角もある。

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魚て津。文京区湯島3-25。1989(平成1)年頃

昌平橋通りの中坂交差点付近。写真左端の長谷川ビルがその交差点に面している。その右から、魚て津(鮨)、相澤牛乳店(明治牛乳湯島販売所)、池田紙店(文具)。明治牛乳は壁を塗りなおし看板も変わったが、この家並みの建物は今も変わらない。


藤田歯科医院
湯島3-25
1988(昭和63)年頃

1枚目の写真の西の裏通り。現在は歯科医の看板は外されたが建物は残っている。

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台東電機車庫。文京区湯島3-27。1988(昭和63)年頃

写真左の坂道は湯島の中坂。坂道もこの辺りで傾斜もなくなり、すぐに昌平橋通りの中坂下交差点に出る。写真中央の電柱の位置に標高6.0mの等高線がかかる。坂上で15m位。
平成初年までは、まだ木造日本家屋の元商店や民家が並んで残っていた。


中坂の民家
文京区湯島3-27
1988(昭和63)年頃

1枚目の写真の家の並びで1ブロック坂を上がったところ。今もほとんどこのままの姿を見ることができる。

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文京区立湯島小学校。文京区湯島2-28。1988(昭和63)年11月6日(3枚とも)

この写真を撮影した1988年11月は解体工事中で、校舎の3分の1くらいはすでになくなっていた。それでもフェンスで仕切られて狭くなった校庭に入ることができた。西側の教室ではまだ授業が続けられていたのかもしれない。
学校の沿革は「文京区教育センター>かわってきた文京区>学校のうつり変わり」で、古い写真とともにいくらかは知ることができる。写真の校舎は大正15年3月に完成している。復興小学校の中でも初期に造られた校舎ようだ。円柱を壁から半分突き出させて壁面を飾ったり、軒を二重にして壁面と曲面でつないだりと特色を出している。


左:学校の南の道路から。右:学校の北の道路から。

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スミー美容院。中央区新富1-18。1987(昭和62)年頃

写真右のデンヨーのビルが新大橋通りの入舟町交差点に面している。写真手前の角の床屋は、写真左端に「パーマ・スミー美容室」の看板があるから、「スミー理髪店」とでもいったのだろうか? その右が鈴木金物店。



ハウス商会。1987(昭和62)年頃

新大橋通りの西の裏通り。写真右に1枚目の写真の床屋。そこから左にハウス商会(不動産)、旧・昌平堂印刷、生美堂印刷所。
この並びは旧住所では入舟町2丁目で、写真の通りが新富町との境界だった。大震災までは入船川という堀川が桜橋川と築地川を結んでいて、そこで町を分けていたからだ。現在の写真の道は入船川の西の河岸の道で、建物は埋立てた川の上に建てたようだ。



ハウス商会。1987(昭和62)年5月

鉄砲洲祭りでの少女たちの踊り。これは手古舞という踊りなのだろうか?『現代では花街が断絶した地域においては、地域の若い女性が扮する場合が多く、又、小中学生以下の少女(稀に少年)が扮する場合も多い。』(ウィキペディア)に該当するのだが。

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旧宮川医院。中央区新富1-7。1986(昭和61)年9月7日

平成通りの1本西の裏通りにあった。写真左の家は入口に「GEDOL」という社名の表札をつけているが、ちょっと変わったファサードだ。昭和25年頃の地図では宮川医院となっていて、なるほどと納得できる。戦前の地図でも「医院」である。写真右の民家の方はその地図では「待合」だが、その建物ななだろか?


新光貨物新富倉庫
新富1-6
1991(平成3)年4月21日

この建物は「丸新青果店」の2枚目の写真に写っている。1985年にはあった「丸金工機株式会社」の袖看板がはずされている。

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