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ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




サイトウ理髪店。台東区鳥越1-26。2005(平成17)年4月8日

鳥越のおかず横町の北、蔵前橋通りからの横町と清洲橋通りからの横町との四つ角。サイトウ理髪店の建物は切り妻屋根の家を看板建築にしたもの。戦後に建てられたような感じだ。鳥越2丁目は空襲で焼失した区域だが、1丁目は被害を免れて、いまだに関東大震災後に建てられた商家や長屋が残っているという一般の認識だが、サイトウ理髪店の一角は空襲の被害の境界線上にあったようだ。
下の写真は上写真の右の横町を入って振り返ったところ。手前の2軒は二軒長屋かもしれない。最近、建て替わってしまったようだ。床屋の左、四つ角に面した古そうな家は「渡辺紙器」の表札がある三軒長屋の建物。


2003(平成15)年11月16日

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馬場歯科医院。台東区鳥越1-24。1987(昭和62)年6月7日

鳥越のおかず横町の中心辺りを北へ行ったところ。写真では看板建築の二軒長屋が3棟ほど並んでいるように見える。それがGoogle古地図の昭和22年の航空写真では1棟の六軒長屋に見える。現在は「クレストサカガミ」(1999年10月築、7階建て)というマンションに建て替わっている。
写真手前の角が馬場歯科医院。『下町残照』(村岡秀男、朝日新聞社、1988年、1500円)に昭和62年4月に撮影した写真と、馬場医師に取材した記事が載っている。治療中の写真もあって、上の写真を撮ったときも開業していただろう。昭和7年の開業だから昭和62年では馬場氏は75歳くらいかと思われる。
驚いたのは、開業時の施設がそのまま使われていることだ。椅子が95円、日立の機械が380円したそうだが、歯科医院の施設はなるべくなら新しいものが望ましいと誰もが思うのではないか。どんなに便利な道具ができても、使い慣れた道具を離さない人はどこにでもいる、ということなのだろう。とにかく『下町残照』にある診療室の写真は歴史博物館の特設コーナーをみるような感じである。そこに、2つの棚に、拳から頭くらいの大きさの石がごろごろと積まれているのが写っている。趣味のコレクションなのだろうか?



鳥越バーバー。1989(平成1)年2月12日

馬場歯科医院の二軒長屋の片方は「鳥越バーバー」。これも『下町残照』に取り上げられている。昭和4年に月島から移ってきたという。洋風のレリーフを施した黒い壁板などの内部は当時のまま。現在、18番地に同名の店があるから、そこへ移ったのだろう。

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小黒商店、大宮モータース。台東区鳥越1-22。1989(平成1)年2月12日

写真左の家は清洲橋通りの佐竹通り南口交差点付近の裏通りにあった商家。出桁造りで、2階の前面をベランダにして木の手すりをめぐらしている。2階両端にある雨戸の戸袋は銅板貼り。1階の引戸を除いて白っぽくペンキで塗られていて、一見、洋風にも見えてしまう。現在は住宅に建て替えられている。
写真右の大宮モータースの家は今も残っているが、看板は外していて商売はやめたらしい。


浅井商店。鳥越1-24。1989(平成1)年2月12日

小黒商店の向かいの路地を入ったところ。銅板貼り看板建築の四軒長屋だ。元は五軒長屋だったと思われる。浅井商店の看板の店は駄菓子屋だろうか? 長屋の建物は手前の3軒が残っている。浅井商店は廃業したが壁の看板がさび付いたまま残っている。

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成和堂、東シャツ。台東区浅草橋5-22・23。2013(平成25)年4月29日

蔵前橋通りの、清洲橋通りに近い辺りの裏通り。向かい側は浅草カトリック教会を再開発したCSタワーの高層マンション。看板建築が並んでいるが戦後の改装になるものもありそうだ。右写真の「東シャツ」の看板の後ろに隠れている家は、出桁造りのような和風の長屋の1軒で、原形に近い姿で残っている。
左写真のトタン貼り看板建築は右写真の左奥にも写っている。「フナショクパン」の看板の店は、その看板に「成和堂」の文字が残っている。最近はあまり見ないフナショクパンの看板だが、製造していた会社が2005年で製パン業から撤退したという。



路地。浅草橋5-22・23。2013(平成25)年4月29日

1枚目写真の家の横を入ったところで、蔵前橋通へ抜ける路地。かつてはこの辺りでなら普通に見られた路地の光景がかろうじて残っている。

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斉藤輪業。台東区浅草橋5-29。2013(平成25)年4月29日

写真左奥が蔵前橋通りで、斉藤輪業の前の道路は蔵前橋通りの裏通りになる。この裏通りが関東大震災後に埋め立てられた鳥越川の流路だった。写真左手、蔵前橋通りに沿って流れてきた鳥越川は、写真のところでクランク状に曲がって裏通りへと流れていた。写真手前から中央の角の家の方へ柳島橋が架かっていた。現在も蔵前橋通りから写真の裏通りへ入るところの道幅だけが無駄に広いのは、鳥越川の流路だった痕跡である。
斉藤輪業のホンダの看板は、浅草橋2丁目の宇田川自転車店と同様なものだ。



とんかつ藤芳、三軒長屋。浅草橋5-17。2013(平成25)年4月29日

1枚目写真の蔵前橋通りから入る横丁をそのまま南に行くと、都立忍岡高校の北の通りへ出る。藤芳の二軒長屋はその通りへ出る手前、三軒長屋は通りへ出てすぐのところ。忍岡高の前の通りは、10年位前までは歩道はなく、パーキングメータが並んでいた。



三軒長屋、パソコン教室輝来俐。浅草橋5-19。2013(平成25)年4月29日

1枚目写真の横丁に残っている古い長屋。左写真の三軒長屋の右端は光野紙截所。元は四軒長屋だった。右写真も二軒長屋だったのが1軒をつぶして駐車場にしている。なくなった家は1966年の地図では「山清鉛店」。白い看板建築風の家はパソコン教室輝来利(きらり)。戦後に木造長屋の1軒を建て直したものと思う。角を曲がると、隣に元の長屋の1軒残っている。

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石原易占、渡辺畳店。台東区浅草橋5-16。2013(平成25)年4月29日

鶴の湯のはす向かいの路地。この辺りはビルに建て替わった家がほとんどだが、古い木造家屋がところどころに残っている。路地の両側に古い家が残っていると戦前の面影が感じられるのかもしれないが、空襲から免れたこの辺りでも、もはやそういうところはほとんどないようだ。

下左の写真の看板建築の五軒長屋は鶴の湯がある裏通りにあるが、今は長屋の左2軒がビルに建て替わって三軒長屋になってしまった。下右の写真のペディメントの飾りが目立つ看板建築は羽山抜型の並びで、現存。


羽山抜型、ペディメントのある看板建築。浅草橋5-18。2003(平成15)年11月16日

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鶴の湯。台東区浅草橋5-27。1992(平成4)年5月2日

左衛門橋通りから蔵前橋通りの近くの横丁を入ったところにある銭湯。昭和2年の創業なので、宮造りの建物もそのときのものと思える。
建築時からあるものなのかどうか判らないが、外観のあちこちに鶴のモチーフが見られるのが面白い。屋根の妻かもしれないが、千鳥破風の壁には鶴が屋号が書かれた掛け軸をくわえて飛んでいる鏝絵がある。背景の空色が他の漆喰壁全体に及んでいる。玄関の唐破風には松の枝に2羽の鶴が休んでいる図柄の懸魚(げぎょ)。暖簾にも鶴の絵。築地塀の窓(?)は松の模様で、鶴といえば松である。
浴室の、普通は富士山のペンキ絵の壁が南洋の海を描いたタイル絵らしいが、いつ頃製作されたのだろう。



左:ひまわり。浅草橋5-26。2003(平成15)年11月16日
右:寺内糸店。浅草橋5-27。2011(平成23)年12月18日

ひまわりと寺内糸店は1986年の住宅地図にあった名前。鶴の湯の並びですぐそばである。ひまわりは取り壊されて駐車場になってしまった。
寺内糸店の建物は二軒長屋で、商売はすでにやめている様子だ。1966年の地図では「冨士書房」で寺内糸店は鶴の湯の向かいになっている。
下の写真、米澤製作所の三軒長屋は蔵前橋通りのすぐ裏の通りにある。この辺りは帽子の関係の家内工業所が多いから、米澤製作所は帽子の木型も作っているのかもしれない。


米澤製作所。浅草橋5-26。2011(平成23)年12月18日

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民家、四軒長屋。台東区浅草橋3-9。2013(平成25)年4月29日

左衛門橋通りから横丁を入った裏通りとの四つ角。和風下見板の住居が四つ角の角にあるのが珍しい。その右にモルタル壁の看板建築がある。住居として改装されているが、二階の窓の上の角に洋風の小さなレリーフと軒下にロンバルディア帯を模した飾帯が残っている。角の民家の左は看板建築にした四軒長屋。


三洋商会。浅草橋3-9
1988(昭和63)年4月10日

1枚目写真の左端がPKビル、その隣が今はナカバヤシという印刷・事務用品の会社のビル。三洋商会の建物はそのビルが建つ以前にあった建物で、写真ではよく分からないが、大きい木造建築の前面を看板建築にしたもの。三階の窓の上に屋根の軒が見えている。総3階建てに見えるが3階の窓は高さがなく、屋根裏部屋の明り取りのようである。古い航空写真を見ると、ひときわ大きい切り妻屋根が目立っている。

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三河屋貸衣裳店。台東区浅草橋3-34。1988(昭和63)年12月31日

蔵前橋通りと左衛門橋通りが交わる鳥越二交差点角のモルタル壁の洋風看板建築。現在は看板を下ろしてしまったが、2010年撮影のストリートビューには縦長の看板はないが、横長のほうはまだ架かっている。割と最近廃業したのかもしれない。この建物で最近注目されるのがホーローの右から書きの「蔵前橋通/東京日日新聞」の標示板だ(むにゅ’sのぉと>東京日日新聞と書いてある琺瑯看板)。




三五屋商店
台東区浅草橋3-9
1988(昭和63)年12月31日

蔵前橋通りの鳥越二交差点から南へ、左衛門橋通りの浅草消防署浅草橋出張所の先に今もあるモルタル壁の洋風看板建築。1966年の地図に「三五屋商店」となっている。上の写真の左手前は旧消防署を取り壊した跡。

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左:リボルト、右:池田工芸。台東区浅草橋3-11。2013(平成25)年4月29日

忍岡高校の北の通りの裏通り。同じ路地を挟んで並んでいる建物。左の白い壁の三階建ての家は割と新しい建物にも見えるが、前面の壁は銅板かトタン板を貼ったもののようで、横の壁は波トタンが使われている。寄棟屋根であり、戦前の木造家屋なのかもしれない。現在はなんの看板もないので空家かもしれないが、1986年の地図では「リボルト」、1966年では「三和工業所」。
池田工芸は、着物の残り切れなどからバッグなどに加工する工房。平成7年の創業という。



森下印材店とその裏。浅草橋3-11
左:2011(平成23)年12月18日、右:2013(平成25)年4月29日

池田工芸の裏になるが、蔵前橋通りの南の裏通り。森下印材店の裏側に右写真の家がある。壁はトタン板で石積み風に見せて、洋風な感じがする住居だ。屋上に瓦屋根の小屋を載せたように見える。屋上の物干し場への出入り口だろうか? 手前の空き地は池田工芸の建物の横を入ったところで、二軒長屋を取り壊した跡。石積み風の家の前を左に、甚内神社の横を通って横丁に出られる。


ダイトータイプ。浅草橋3-12
1988(昭和63)年4月10日

蔵前橋通りの浅草橋三丁目交差点から南へ入ったところ。写真左は洋食の一新亭。現在も写真のままの建物で盛業中だ。「洋食」と書かれた白い暖簾が出ているとうまそうに思えるのだが、ぼくの歳になるともう少しくつろげる構えの店に入りたい。店を紹介しているサイトに「創業100年以上…建物は昭和3年築」というのがあり、ご主人の秋山武雄氏のことを知った。YouTubeの『写真家 秋山武雄』で、写真とのかかわりを自ら語っていられる。
ダイトータイプ(1966年の地図では「ユリ美容室」)は、現在では取り壊されて空地だ。

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