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ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




浅草中映会館。台東区浅草2-10。左:2008(平成20)年4月2日、右:1988(昭和63)年5月14日

左の写真などはつい最近撮ったような気がするのだが、写真のビルは2012年夏に解体され、2013年12月13日にドン・キホーテ浅草店が新築開店した。
『ウィキペディア>大勝館』によると、映画館だった大勝館が1971(昭和46)年10月に閉館。建物は取り壊され、翌1972年12月に浅草中映会館が建築された。3・4階がボウリング場で、一般には建物も「中映ボウル」と言っていたようだ。1977年にアポロ(地階、成人映画)、キャピタル(2階、洋画名画座)、ロマン(2階、成人映画)の3つの映画館が設けられた。1981(昭和56)年にボウリング場と映画館が閉鎖されると、建物周囲を鉄塀で囲い廃ビルになってしまった。たった10年で終わってしまうとは、浅草の集客力は当時かなり深刻だったのだろうか。その後、2001年から2007年まで大衆演劇の「浅草大勝館」として興業を行った。

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左:セキヤ、台東区浅草1-25。右:ポップ・イン、浅草1-23。1988(昭和63)年5月1日

上の写真は2枚とも六区の南端辺りから左右の横町を撮ったもの。左写真の後ろのビルはROXビル。松竹の劇場や映画館があったところに1986年に新築オープンした。手前の低層の建物は1986年の地図ではセキヤ(業種不明)と伊勢屋(洋品)。戦前は「大東京」という映画館があったところで、建物疎開で取り壊され、戦後5軒の商店が建った。それらの建物は今も残っている。写真の2軒は今では、とんかつの「さぼてん」と中華そばの「日高屋」に替わっている。

右写真はにくまんとシューマイが有名な「セキネ(関根)」の建物の右側で、「ポップ・イン」という喫茶店。セキネは元々はパン屋だったという。写真では奥に「ゲームセンター/ナゴヤ」の看板が見える。1966年の住宅地図では手前から「セキネ菓子店、ラッキーボール/ナゴヤパチンコ、花月食堂」で、その頃から変わっていない。今は喫茶店が「PRONTO」、ナゴヤが「アミューズメントA」というゲームセンターだったのが最近「磯丸水産」という店に替わったようだ。



左:金玉堂。浅草1-40。1988(昭和63)年5月14日
右:ろばた焼き 荒磯。浅草1-41。1985(昭和60)年1月

金玉堂としたビルは昭和40年頃に建てられたものかと思うが、今も外観をきれいにして残っている。写真右の通りが「浅草公園通り」で、陶器の金玉堂の店舗は写真のビルの公園通りの向かい側にある。写真のビルは倉庫に使っていたのだろうか?
平成9年4月、公園通りの新仲見世から北の街路を緑の煉瓦敷きに替えてその部分を「公園通りグリーンロード」と改称した。公園通りの名称は戦前の「公園劇場」から来ているそうで、公園劇場は新国劇の沢田正二郎の公演でにぎわった。戦時中に建物疎開で取り壊されたという。グリーンロードの居酒屋「沢正」の看板には「浅草公園劇場跡」の字を入れていた(『浅草そぞろ歩き~公園通りと浅草グリーンロードの巻~』)。今、ストリートビューを見ると、同じ居酒屋だが「弥太郎」という店に替わっていた。

右写真は伝法院通りから六区へ向かう通りで、今は「浅草六区通り」の表札のある灯篭が置かれている。写真右手に「ロックフラワーロード」の表示がある街灯が写っている。『浅草そぞろ歩き~浅草六区通りの巻~』によれば、平成17年3月31日に名称を変更した。荒磯の建物は戦前築の洋風看板建築に見えるが、もちろん戦後のもの。現在は3階建てのビルに建て替わった。その両隣の建物は残っている。

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地下鉄雷門ビル。台東区浅草1-1
1988(昭和63)年5月1日

地下鉄浅草駅の雷門通りの出入り口があるビル。東京地下鉄道(会社名、現・東京メトロ)が1929(昭和4)年に建てて地下鉄食堂を営業した。『消えた建築>営団雷門ビル』によれば、「設計者:東京地下鉄道工務課/解体年:平成 18年3月…営団の事務関係が入っていたようです。(忘れ物取り扱い所も入っていました)」。建て替わったビルはGoogle地図では「東京メトロ浅草駅事務室お忘れ物取扱所」で、用途は変わっていない。そのサイトでは建物名称は「営団雷門ビル」だが、1986年の住宅地図では「地下鉄ビル」。「雷門ビル」と言われることが多かったようだ。
『帝都復興せり!』(松葉一清著、平凡社、1988年、2400円)に、『東京地下鉄道史』(昭和9年)によるとして、開通当時(上野-浅草間の開業は1927(昭和2)年12月30日)の地下鉄は人気がなく経営状態を改善しようと、関西の小林一三の方式に習って、本業とは別に食堂を営んだという。建設当時の地下鉄食堂の写真はネットでも見ることができる。『帝都復興せり!』ではその外観を「最も大衆化された異国情緒」と言っているように奇抜なもので、写真の、装飾をすべて取り去った姿からは想像もつかないようなものだったらしい。
塔屋を隠すように広告塔にしている。『1960年代の東京』(写真=池田信、毎日新聞社、2008年、2800円)の、1964(昭和39)年の写真では塔屋を囲った白い箱の周りにナショナルのマークを取り付け、白い箱に「ラジオ」「テレビ」の文字を置いている。
写真左の商店街の入口の文字は「観音通商店街」。今はそのアーチもアーケドごと改修されたのだろうか、「かんのん通り」の表示だ。1986年の住宅地図では「メトロ通り」。

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神谷ビル(神谷バー)。台東区浅草1-1
上:1988(昭和63)年5月1日
左:1986(昭和61)年10月26日

浅草通りと江戸通り(雷門通り)が交差し、馬道通りが始まる吾妻橋交差点に昔と変わらぬ姿を見せているのが神谷バーのビル。上の写真では右から雷門通り沿いに、神谷ビル、弘隆ビル(大和証券雷門支店)、尾張屋、地下鉄ビル、観音通り入口、浅草タウンホテルと並んでいる。30年経った今も建物では地下鉄ビルが建て替わっただけだ。弘隆ビルはカラオカ店が入って正面はその店の広告を取り付けて別のビルのような外観だ。
神谷バーは『近代建築散歩 東京・横浜編』(小学館、2007年)では、「1921(大正10)年の建設、設計・施工は清水組、RC造4階建て」。『清水組二百年作品集』を見ると、1921年には神谷バーの記載はなく、1939(昭和14)年に「神谷酒場改修(神谷バー)」が出ている。建てたのが清水組なら1921年の方に載せるのが普通だと思うがどんなものだろう。正面のデザインは大正期の建築らしく、なんとなくセセッションを思わせるものがある。あるいは単に「モダン」なのだろうか? 
東武電車の駅を降りてまず見るのは横側なのだが、それがビルの裏側のような感じで残念な景観だ。最初からそんなものだったのかもしれないが、正面と同じタイル貼りにしたらどうだろう。
神谷バーと創業者の神谷傅兵衛については、『浅草の百年 神谷バーと浅草の人びと』(神山圭介著、踏青社、1989年、1500円)という本があるので紹介しておく。

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上左:昭和測器。台東区小島2-6。2003(平成15)年11月16日
上右:岩崎商店。小島2-6。2011(平成23)年12月18日
下左:岡田商店。小島2-11。2003(平成15)年11月16日

小島公園の南を通る裏通り。「測量機械」の看板が「昭和測器」で、「ヨシダ」の看板は昭和測器の右のガレージのような建物についている。昭和測器の右から後ろにかけてが「株式会社ヨシダ」の敷地で、写真からは判らないが昭和測器の裏にヨシダのビルがあったのかもしれない。今は昭和測器の建物が撤去されてヨシダのビルは建て替えられたようだ。銀杏の木は残されている。
1枚目写真の裏通りを右奥(西)に行くと清洲橋通りへ出るが、右写真はその手前の路地との角にある仕舞屋。
3枚目写真のショーウインドーに反物が見えている家は、2枚目写真の家の角を北へいったところ。

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高橋梱包資材。台東区鳥越1-20。1989(平成1)年1月29日

鳥越おかず横町の裏の通りにあった仕舞屋の2棟。写真左の家は最近、居酒屋に改装して使っている。右の家は2003年撮影の写真ではすでに住宅に建て替わっている。「高橋梱包資材」というのはその家に架かっている表札で、撮影時はなんだったか知らない。前面1・2階の上の壁が漆喰のようで、町屋の造りとしては珍しいかもしれない。家の幅いっぱいにとったベランダと木製の手すりが目を引く。


ビーバー。鳥越1-19
1988(昭和63)年12月31日

1枚目写真と同じ通りでひとつ東のブロック。写っている建物は不思議と今も変わらない。手前の銅板貼り看板建築の家は「ビーバー」という居酒屋で、路地との角にあるので建物の横も見せている。現在は住宅に改装されたが銅板の正面は残されている。隣はモルタル仕上げの看板建築の二軒長屋。現在、手前のほうが住宅に改装されて正面の壁も改修されている。楕円形の袖看板はなんだったのだろう? もう一方のほうは1階を車庫にしたので引き戸はシャッターに替えてしまっている。

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上:台東デザイナーズビレッジ。台東区小島2-9
2011(平成23)年12月18日
左:区立小島小学校。1992(平成4)年6月6日

区立小島小学校は、2003(平成15)年4月に、精華小学校(蔵前4-19)と済美小学校(寿1-10)とで統合されて蔵前小学校となり、実質、廃止された。校舎は取り壊されることなく、内部を改修して、2004年4月に「台東デザイナーズビレッジ」として運営されることになった。「ファッション関連ビジネス分野での起業を目指すデザイナーを支援する施設」である。現在は早稲田大学の研究室と東京芸術大学のアトリエも入居していて、それらを含めて「小島アートプラザ」というらしい。校庭は時間貸し駐車場にしている。
小島小学校の歴史はネットでは判らない。蔵前小学校のHPに更新が終わった小島小のHPをそのまま置いておけばいいわけだから特に面倒なこともないと思うが……。
校舎は『日本近代建築総覧』では、「区立小島小学校(旧東京市小島尋常小学校)、建築年=昭和3年、構造=RC3階建、設計=東京市、施工=藤本清次郎、備考=インターナショナルスタイル。塔屋付「東京市教育施設復興図集」による」。同書によると、台東区にある清島小学校二長町小学校柳北小学校、台東小学校が藤本清次郎による施工だ。関係あるのかどうか分からないが竹町小学校は藤本組。
建物の特徴はまず、南側の先端の半円の平面とその上の円筒形の塔屋。そして窓の間の半円に突き出た柱、軒に二重にめぐらした筒状の帯。他の復興小学校ではあまり見ない特徴ではないかと思う。


台東デザイナーズビレッジ。2011(平成23)年12月18日

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上:鈴木寝具、左:民家。台東区小島2-7
1992(平成4)年6月6日

中華料理の幸楽の横を入ったところ。藤棚がある角の家は、1966年の住宅地図に「鈴木寝具」、1986年のに「鈴木フトン」となっている。見たところとても小売りの布団屋とは見えず、打ち直しなどの作業、あるいは寝具の製造をしている(していた)作業所かもしれない。家の正面に1階の庇をやぶって木が生えている。相当邪魔になるはずだが、家の人は植物が大好きなのだろうと、家廻りの植生からも分かる。
2003年に撮った写真では、正面の木と藤がなくなり、鉢植えもだいぶ整理されて、代わりにねこ車が5台置かれている。家の持ち主が変わったらしい。現在は、ストリートビューで見ると、隣のしもた屋とともに取り壊されて、駐車場と車庫に替わっている。

2枚目写真は鈴木寝具から右へ3軒目の出桁造りの家。1階左側を洋風に造っていて、そこを事務所に使っていたのかもしれない。写真右の看板建築は「寺島製缶工業」。
現在は、ストリートビューで見ると、寺島製缶は取り壊されていて、駐車場になっている。



左:土屋商店、右:前田紙器製作所。小島2-7。2003(平成15)年11月16日

土屋商店の銅板貼り看板建築は、鈴木寝具の横を行ったところ。蔵前小学校通りの北の裏通りだ。ネットでは「文具・事務用品製造・卸」とある。銅板張りの外観は波板に貼りなおされたが建物は健在。
前田紙器製作所は土屋商店の裏手、小島公園の向かい側だ。現在は小さなマンション(新御徒町駅前プラザ、2005年1月築、4階建12戸)に建て替わった。前田紙器の先の「斎藤機械工業」「吉田箔押所」の2棟の看板建築は残っている。

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甲州屋(日本蕎麦)。台東区小島2-2。1988(昭和63)年12月31日

前の通りは清洲橋通りと春日通りの間の東西の通り。最近、「蔵前小学校通り」の愛称が付けられた。写真の家並みは今もほとんど変わらない。昭和初年に建てられたと思われる三軒長屋、看板建築の二軒長屋、甲州屋の日本家屋、と並んでいる。



幸楽、丸ほ電気。小島2-1。2003(平成15)年11月16日

1枚目の右端のビルの右は横町がはいっていて、その向かいが中華の幸楽。かなり古い看板建築だが、たぶん戦後のものだ。昔の航空写真を見ると、幸楽の横の道路が空襲で焼失した地区と焼けずに残った地区の境になったようだ。昭和22年の航空写真にはすでに家が建っている。あるいはそれかもしれない。
見たところいつ閉店しても不思議ではない外観だが、ネットの情報ではかなり人気の店らしい。歩道にテーブルが出ているが、昼食時には常時利用されるという。看板など書き直している暇がないのかもしれない。

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請負山田。台東区小島1-7。1988(昭和63)年12月31日

清洲橋通りの佐竹通り南口交差点から少し北の裏通り。写真の家並みは今も変わらない。写真中央はモルタル仕上げの洋風看板建築。文字のレリーフで受けられる工事の種類が書かれている。つまり「請負山田、各工事一式、コンクリート、鉄筋鉄網、煉瓦工事、化粧タイル張、人造塗、左官職」。開口部が引き戸なので和風の家を洋風の枠で囲った感じだ。
写真左の家は撮影時の住宅地図では「木村熊次郎商店」。建物の裾に神社で見るような石張りの壁が見られる。さらにその左は銅板貼りの看板建築が仕舞屋で残っている。



伊藤製作所、フミモト口金製作所。小島1-7。2003(平成15)年11月16日

請負山田の裏側になる通り。看板建築の家が5棟かたまって残っている。家の前に鉢植えを置いているのは商売をやめた家ではないかと思う。この辺りは看板建築の商店建築であっても、家内工業所が多いようだ。

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