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ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




上堀靴下。文京区千駄木2-34。1989(平成1)年5月5日

不忍通りの団子坂下交差点を東へ入ったところ。三崎坂(さんさきざか)の通りで、右奥が団子坂下交差点。そこからよみせ通りの入り口までの短い間だが「団子坂下柳通り」という商店街になっている。周囲は戦災で焼失した区域だ。
1986年の地図では「上堀靴下KK、五十嵐会計事務所、土屋油店(丸善灯油の看板)、佐々木麗芳堂……」。奥のビルは「ダイヤハイツ千駄木」(1984年3月築、8階建て27戸)。
今は「ツインパレス」(1992年築、9階建)と「千駄木リリエンハイム」(1993年築、10階建て50戸)の2棟のマンションに替わった。



勉強堂パン店。千駄木2-34。1900(平成2)年6月17日

1枚目写真から左(東)へ続く家並み。店は入れ替わっているが写真の3棟の建物は今もそのままだ。1986年の地図では「個人宅、沢田機械/大神化学、パン勉強堂」。現在は「ペチコートレーン(カフェ)、ひいらぎや(懐石料理)、甘味処百(もも)」。
写真中央下に昭和59年に設置された「枇杷橋跡」の案内板がある。正確な場所は少し左、信号の交差点である。枇杷橋は藍染川に架かっていた橋で、流路は大正末から昭和初期に埋め立てられて暗渠になった。橋の北は「よみせ通り」南は「へび道」と、不忍通りの裏通りのようになっている。また、本郷と谷中のそれぞれの台地との谷底になるわけで、団子坂と三崎坂(さんさきざか)の境でもある。

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O邸。文京区千駄木3-5。1989(平成1)年2月26日

千駄木の高台の屋敷町は大正末から昭和初期にかけて分譲されたという。普通に分譲住宅というイメージからはかけ離れた規模であるが、今でも同じような敷地面積を持つ屋敷が広がっている。『東京路上細見1』(林順信著、平凡社、1987年、1900円)から引用すると、「もと駒込林町と称した一帯は林町の屋敷町といわれていた。今もなお、千駄木の屋敷町として知られており、以前よりは幾分区画が狭くなったところもあるが、都心にあって贅沢な面積をもつ家が続く」。
上写真は南北の道沿いの塀、下写真は東西の道沿い。屋敷の南側に広い庭がある。下の写真に写っている建物はO邸の隣のT邸らしい。現在は建て直されて、塀も新しい家に合わせたのか造り直された。


O邸。千駄木3-5。1990(平成2)年6月17日



Y邸。千駄木3-6。1989(平成1)年2月26日

日本家屋のお屋敷。玄関の脇に洋館が付属しているが、現在、それは取り払われた。また、ブロック塀は建物にふさわしいようなものに造り替えられている。

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山脇邸。文京区千駄木3-7。2000(平成12)年5月3日

ブロック塀と下を板張りにして瓦を乗せた土塀で遮られて平屋の建物は屋根しか見えない。『たてもの応援団>山脇邸〈茶室睡庵〉』には、「茶人であった山脇善五郎氏の築地の家が関東大震災で被災したため、震災直後、ここに建てられた茶室を持った住宅。……設計者は数寄屋師の笛吹嘉一郎で、材料一切を京都で刻んで運んだというだけに、繊細な造りとなっている。」とあり、ぼくは知らない人物だが「昭和のはじめに山脇巌とともにバウハウスに留学した山脇道子さんの実家でもある。」ということだ。
また、『東京都の近代和風建築』(東京都教育庁編集、2009年)では、大正13年竣工。「笛吹嘉一郎は京都で大河内山荘をはじめ多くの数寄屋建築を手がけ活躍した人物」とある。

山脇邸の後ろに見えるアパートは「足利銀行帯月寮」。このお屋敷町には銀行家も住んだというからその跡地に建てたものだろうか。現在は取り壊されて駐車場になっている。下の写真右奥へすぐのところに「足利銀行思斉寮」というのもあったようだ。


山脇邸。1989(平成1)年2月26日

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金井商事千駄木寮。文京区千駄木3-3。1989(平成1)年2月26日

写真右奥に2001年に国登録有形文化財に認定された島薗家住宅。つまり島薗家の隣のお屋敷。「金井商事千駄木寮」の名称は1974年の住宅地図にあったもの。個人名を出さずに済むので使用した。1986年の地図では個人名である。
写真はこの1枚しかないので、家の全体の形が分からないが、古い航空写真を見ると、角の石積み風の洋館部分は総2階建ての独立した建物のようで、その後ろにL字型平面の日本家屋があるようだ。
当ブログ前回にある2000年に撮った写真では駐車場(千駄木パーキング)になっている。現在は集合住宅、一戸建住宅、事務所ビルの3棟が建っている。

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島薗邸。文京区千駄木3-3。2007(平成19)年12月1日

千駄木の高台、高級住宅地にある島薗邸の洋館は、「たてもの応援団」の尽力によって、月2回公開されている。実はぼくは今知ったばかりだ。室内には建物や島薗家に関する資料が展示されているようである。『墳丘からの眺め>島薗邸(2007.03.17)』というサイトに詳しいので、以下、それを参考に紹介してみる。
1932(昭和7)年に建てられた。設計は川崎銀行の建物を多く手掛けた矢部又吉。施主である島薗順雄(のりお)氏のスケッチをもとにしたと推定されるという。竣工時は陸屋根の平屋で、昭和16年に2階を増築した。洋館の裏に和館が付いている。
外観は壁の色のせいかもしれないが、スパニッシュ様式に見える。矢部はドイツに留学したので、装飾などにドイツ風のところがあるという。2階の軍艦と飛行機のステンドグラスはぜひ一見したいものだ。



2000(平成12)年5月3日



1989(平成1)年2月26日

当ブログで取り上げた矢部又吉が設計した建物を以下に並べる。
日本信託銀行本店
三菱銀行横浜支店
ストロングビル
霞ヶ関信用組合

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蓬萊土地建物。文京区千駄木5-2
上:1990(平成2)年6月17日
左:2000(平成12)年5月3日

団子坂の団子坂上交差点から本郷保健所通りに入ってすぐのところ。二軒長屋の銅板張り看板建築風の家があった。「蓬萊土地建物」の看板だが、1986年の地図では写真右端の家から「コンドッティ、寿楽、フジサワ」。なんの店だったのか分からないが、1974年の地図では「中村工務店、マキ、藤沢洋服」で、藤沢洋服はテーラーだろうか? 左の写真では二軒長屋が写真左の2棟の家に建て替わっている。
左写真中央のコンドッティの右に古い民家が2棟写っている。現在はいずれもビル型の住宅に替わっている。もっと近寄ってきちんと撮っておくのだった。

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泉名アパート。文京区千駄木3-22。2007(平成19)年12月1日

不忍通りから本郷保健所通りへ上る坂道は何本もあるが、道灌山下交差点近くに「きつね坂」がある。正式に名前がある坂道かどうか分からない。きつね坂の南には「狸坂」があるから、こっちはきつね坂でいいだろうと、割と近年言うようになったように思われる。
写真の家はきつね坂の、南への横丁との角にある洋館付きの住宅。入母屋屋根の和風の家の前面に、奥行きがあまりない洋館がくっついている。洋間は1階の蔵の上にのった2階にあるのが珍しい。建物名は1986年の住宅地図による。



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穂積医院。文京区千駄木3-21
2007(平成19)年12月1日

不忍通りの道灌山下交差点の裏手にあった医院。閉院してからかなり経つ感じである。庭木で建物がどんなものなのかさっぱり分からないが、戦後に建てたものだ。グーグル古地図の昭和22年の航空写真を見ると、医院のある場所は空襲の被害を被ったように見える。
左の写真は門の中を覗いたもの。古い、医院の看板を目にして、塀の看板では分からない医院名を記録しようとして写したものだ。「穂積醫院」と旧字で書かれているが、住所は「文京區駒込林町九三番地」なので、昭和22年に文京区が成立した後に作られた看板だ。
現在はモダンな住宅に建て替えられて、塀も造り直されているのだが、門柱は残してある。位置も写真のままかもしれない。

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望月電機商会。文京区千駄木3-26。2007(平成19)年12月1日

不忍通りの道灌山下交差点のすぐ南。二階建て木造の家は今も残っている。写真右から、住宅、タクミ酒店、路地、望月電機商会、小西商会(建築金物・機械工具)。
写真左のビルは「野村ハイツ」というマンションだが、今は「グランプラス千駄木」(10階建56戸、2013.10築)に建て替わっている。1974年の地図では駐車場で、その奥の裏通りに面して野村さんの家がある。野村ハイツの「野村」だろうか? 



茂原帽子店。千駄木3-26。2007(平成19)年12月1日

1枚目写真の「野村ハイツ」の南の家並み。「タスキン ターミニックス」の看板の家は戦後まもなくの建築かと思える。その左に二軒長屋が残っていて右の家には「茂原帽子店」の看板を揚げている。現在、タスキン(以前は「三愛製版」)の家は普通の住宅に建て替わったが、二軒長屋は残っている。茂原帽子店の看板は塗りつぶされて、商売はやめたらしい。


茂原帽子店。千駄木3-26。2007(平成19)年12月1日

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マツシタ印刷。文京区大塚6-10
1987(昭和62)年2月22日

坂下通りに「君の湯」という銭湯がある。入り口が千鳥破風、その後ろに入母屋屋根で瓦を乗せた、戦前に建てられたと思われる日本建築の銭湯だ。1986年の住宅地図では君の湯の左が「萩本酒店」(出桁造りの商家と思われる)と「大日本愛国党本部」で、その左が写真の「岸野/マツシタ印刷」である。萩本酒店の後ろは「愛国党寮」。マツシタ印刷を含めて少し広い範囲の写真を撮らなかったことを後悔することしきりである。
1974年の地図では、写真の建物は「□(サ?)ンバートKK東京営業所」その右に「愛国党本部」、その右に路地があって、萩本酒店、薬湯君の湯。サンバートと愛国党の後ろの家が「赤尾」さらに後ろに「愛国党」「愛国党寮」の小さい家、という記載。
ネットで大日本愛国党を検索しても大塚の本部がどういうものだったか分かる記述はほとんどない。「赤尾の人柄のよさは自宅・愛国党本部周辺の住民にも非常に慕われていた。」(ウィキペディア>赤尾敏)、「文京区大塚にあった敏の自邸は取り壊され、現在は駐車場になっている(管理は実業部門の一つ、赤尾興産が行う)。」(ウィキペディア>大日本愛国党)というのがあった。

写真の建物は『日本近代建築総覧』に「マツシタ印刷(株)(旧岸野商店)、文京区大塚6-10-11、建築年=大正14頃、構造=RC3階建」とある。正面中央の額縁に残る文字は「……製造所岸野商店」だろうか。肝心の上の文字が読めない。
現在は「エクセレントシティ文京大塚」(7階建44戸、2015年3月築)が建つ。

マツシタ印刷の左に路地が入っている。今のマンションの横から後ろへ曲がって坂下通りと平行になるが、音羽川(水窪川)の跡である。音羽川はここで坂下通りを東に渡り、春日通りに近づく。『大塚地区町会』の大塚坂下北町会の紹介記事に、「(開運坂を)降りた道路は、昔、監獄新道 と呼ばれた。その向側には川が流れ、橋が架かっていた。その名も泪橋と名づけられ、渡って出て来る人は巣鴨監獄の方をのぞみ涙ぐん だと伝えられている。」とある。

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