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ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




日本キリスト教団西片町教会。文京区西片2-18。1988(昭和63)年3月13日

中山道(国道17号)に面したゴシック様式の教会。『レトロな建物を訪ねて>西片町教会』によると、1935(昭和10)年に完成した木造2階建ての建物で、設計者は伊藤為吉。
現在の建物を見ると、上の写真と比べていくつか変化が見られる。歩道沿いの塀がなくなり、右の玄関の前にガラス張りの箱のような庇を造った。窓枠が取り換えられている。これらの改修の時、タイル張りの壁面もクリーニングされたのかもしれない。
伊藤為吉(1864文久4年~1943昭和18年)はウィキペディアに項目がある。建築家としての仕事は教会堂が多いようだが、仕事をした時期が早いので現存する建物はほとんどないようである。「1933年大阪に「研究所」を設け、無限動力機関の発明に没頭する」とある。永久機関のことだと思うが、工部大学校で機械工学を学んだという人がいったいなにを思いついたのだろう?



旧高野瀬歯科医院。西片2-18。2007(平成19)年2月24日

西片町教会から数軒北の並びにあった歯科医院だった建物。『近代建築散歩(東京・横浜編)』(2007年、小学館)に「日本ナショナルトラスト事務所(旧高野瀬歯科医院)建築年=1910~20年(大正期)。近代建築の保護にも取り組む日本ナチョナルトラストの事務所」で載っている。単純な外観だがなんとなく惹かれる建物だ。2012年頃と思うが、3階建ての住宅に建て替えられた。

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荒井履物店の四軒長屋。文京区西片2-24。1986(昭和61)年5月

言問通り(の延長)にあった看板建築にした長屋。右へいくとすぐ本郷通りとの本郷弥生交差点である。長屋の平面は右側が鋭角の細長い三角形で、荒井履物店は奥行きがない。長屋の裏手には今でも戦前築の六軒長屋が2棟向き合って残っているようなところだから、写真の長屋も戦前からあるように思っていたが、昭和22年の航空写真では写真がぼけていて確認できない。疑ってみると、戦後の建築のようにも見えてくる。
1986(昭和61)年の住宅地図では、左から「鈴木、松浦、おふくろ(居酒屋?)、荒井履物店」。現在は取り壊されて時間貸しの駐車場になっている。

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吉田屋。文京区西片2-25。1988(昭和63)年1月30日

中山道(国道17号)の本郷弥生交差点の北西角である。写真では古い商店が3棟並んでいる。戦前からの建物には見えないが、戦後の改修によるものかもしれない。店は左から、「豊田書店」、かばん修理の「吉田屋」、「石井寝具店」。
弥生散策』によると、吉田屋は昭和22年に本郷3丁目で開業、昭和56年に現在地に移ったという。本郷に店を持つ以前から軍隊に図嚢(ずのう。地図などを入れるはこ型の皮のかばん)などを納めていたらしい。吉田屋が西片に移ってくる前の昭和49年の地図では「小林洋服店」だ。
現在は豊田書店の建物が3階建てのビルに、石井寝具店が住宅に建て替わった。しかし吉田屋の特徴的な建物が変わらないので、全体の景観もあまり変わったように思えない。

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橋本家住宅。文京区西片2-8。左:1988(昭和63)年10月10日、右:2000(平成12)年5月5日

1998(平成10)年に国登録有形文化財に指定されていて、文化庁の『国指定文化財等データベース』によれば、1933(昭和8)年の建築の洋館。解説文に「木造2階建の洋館で玄関回りを除く階下をモルタル塗、階上をドイツ壁とする。見切りをとらずに仕様を変える外壁仕上げは珍しい。玄関上部バルコニー手摺りの親柱意匠も特徴的。寄棟を切り落とした袴腰型の妻面に木部を現してハーフティンバー風とする」とある。
ドイツ壁とは、モルタル塗りの表面を小さい凹凸があるように仕上げたもので、大正から昭和初期にはやったようだ。近年はほとんど行われないという。装飾的に壁の一部だけ(戸袋など)をドイツ壁にしている場合も見かける。ドイツで一般的なのかどうかは知らない。
西片町会』によると、「医学者の住居」として建てられたという。また、『歴史・文化のまちづくりニュース』には「当初は橋本医院としての併用住宅」としている。


O邸。西片2-4。2000(平成12)年5月5日

橋本家住宅から南へすぐのところにあった家。古い航空写真で見ると、母屋から南に突き出ている部分を洋館にしたように見える。『落合道人>旧山手の西片町を歩いてみる』に全体を撮った写真が載っている。

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東京大学コミュニケーションセンター。文京区本郷7-3。2019(平成31)年4月19日

本郷通りの赤門のすぐ北に、通りから見えている古いレンガ造りの建物。2004(平成16)年に改装・増築されて「東京大学コミュニケーションセンター(UTCC)」となった。「大学と社会の双方向的な連携を推進する拠点施設」ということだが、一般の見学者なら、公式のグッズを販売しているショップとみればいいようだ。
ネットでは「1910(明治43)年に人力車の車庫として建てられ、その後、図書館製本所として使われた」という記述が目に付く。『東大新聞オンライン>COLUMN 2018.10. 』の「本郷キャンパス建築めぐり 東京大学コミュニケーションセンター編」によれば、図書館の製本所として建設された、ということで、説明にも説得力がある。「製本」とはいっても、雑誌の合本や修理の作業だという。大震災後、今の総合図書館が完成すると、製本所は不要になり車庫に転用されたとしている。だとすると、人力車は関係なかったのかもしれない。



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東京大学医学部2号館。文京区本郷7-3。2019(平成31)年4月19日

本郷通りの赤門から東大に入ると、正面奥に建っているのが医学部2号館(医学部本館)。建物の前に洋式庭園の広場を置いて、建物の正面全体を眺めることができる。正面は西を向いていて、午後になれば日が当たるから誰でもきれいな写真が撮れる。
内田祥三設計のRC3~4階建で、1936(昭和11)年の竣工だが、一部未完成のままである。中庭が二つある「円」形の平面プランが、左側面(北側)が前部だけで工事が終わっている。とりあえず間に合うから残りは後で、などと言っている間に戦時になってしまったのだろうか?

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東京大学理学部2号館。文京区本郷7-3。2019(平成31)年4月19日



東京大学理学部2号館。本郷7-3
2019(平成31)年4月19日

東京大学本郷キャンパスの南西部分(本郷通りと春日通りに沿っては民間のビルや商店などが並ぶが、その裏手)は、大震災後の1926(大正15)年に前田侯爵家との土地交換によって拡張された(『淡青』(東京大学広報紙)36(2018.03))。そこに「東京大学理学部2号館」と「医学部1号館」との、外観がほとんど同じに見える建物が並んで建っている。
内田祥三設計のRC3~4階建てで、理学部2号館は1934(昭和9)年、医学部1号館は1931(昭和6)年の完成。建物平面の四つの角を矩形に切り取った部分を四半円の平面部分でつないだような造形が特徴だ。ゴシック様式にはないようなデザインに思える。特に対角線の位置にある2カ所の階段室の外観部分は、縦長の窓が階段状に並んでいて、モダン建築を見るようである。





東京大学医学部1号館。本郷7-3
2019(平成31)年4月19日

医学部1号館のすぐ東に建っている14階建てのビルは「医学部教育研究棟」で2002年の竣工。現在は、医学部1号館はその教育研究棟と一体で運用されているという。

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東京大学史料編纂所。文京区本郷7-3
2019(平成31)年4月18日

建物は「東京大学総合図書館」で、その正面から見て右後ろに伸びている横側が「史料編纂所」という部署が使っている。つまり「設計者=内田祥三、施工者=大林組、建設年=昭和3年(1928)、構造=RC3階建」になる。
東京大学資料編纂所』によると、料編纂所は「古代から明治維新期にいたる前近代の日本史史料を研究する研究所です。国内外に所在する史料の調査・収集と分析をおこない、これを日本史の基幹史料集として編纂・公開しています」ということだ。
『東京大学本郷キャンパス』(東京大学出版会、2018年、2800円+税)には「(総合図書館の)隣の史料編纂所は大日本帝国の公的な歴史を編む場所であった。/その真下に位置する明治新聞雑誌文庫(1927年開設)は少し変わった存在で、大日本帝国のあり方に再考を迫った法学部教授吉野作造を中心に1924年に結成された明治文化研究会の後押しによって生まれた。いわば獅子身中の虫のようなところがあり、文庫の世話役には宮武骸骨というそれにふさわしい在野にして反骨のジャーナリストが雇われた」と説明されている。戦前は、史料編纂所は日本の歴史を肯定的に見るのに対して、明治新聞雑誌文庫は反対の立場だった、ということだろうか? 

史料編纂所の反対側、総合図書館の正面から左後ろに伸びている横側は「情報学環・学際情報学府」と「社会学研究所」が使っている。
『東京大学本郷キャンパス』には、「社会科学研究所は1946年8月に創設され、図書館の2階の5室で活動を開始。1954年4月に現在の建物が完成し、引き渡された。新聞研究所は1949年の創立、1953年図書館に隣接する場所に拠点を得た」とある。新聞研究所が現在の情報学環だ。総合図書館として一体の建物に見えるが、東南の部分は戦後の増築で、1953(昭和28)年に完成した、ということだ。
さらに、南側の教育学部の建物は1955年に完成したようだ。また、図書館の中庭には今では2棟の高層のビルが建っている。これら一連の建造物群は「図書館団地」と総称される。


東京大学教育学部。2019(平成31)年4月18日

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東京大学総合図書館。文京区本郷7-3
上:2007(平成19)年12月15日
左:1989(平成元)年10月15日

『近代建築ガイドブック[関東編]』(東京建築探偵団著、鹿島出版会、昭和57年、2300円)では、「図書館 設計者=内田祥三、施工者=大林組、建設年=昭和3年(1928)、構造=RC5階建〈地下1階、地上3階、中央部のみ5階〉」。解説文は「ポーチが半円アーチ列で、これを通って玄関に入ると階段ホールの空間は素晴らしい。ロックフェラーからの寄贈建築で、英米ソからの寄付を含めて90万冊を超える図書を有する。病院に次ぐ大建築である」となっている。
『東京大学本郷キャンパス』(東京大学出版会、2018年、2800円+税)によると、外観デザインはコンペが行われ、当書には堀口捨吉、渡邊仁、吉田鐵郎、岸田日出刀の草案が載っている。結局は内田が他の校舎と調和するように同質のデザインに決めたようである。内田はかなり細かいところまで手を入れ、竣工する最後まで試行錯誤を繰り返したという。
内部設計は、閲覧室の配置を本郷通りの路面電車の騒音を考慮したり、耐震性確保のために太い柱と細かい間仕切り壁の調和に苦心した。豪華な正面ホールや階段は、ロックフェラーに「おかげでこんな立派な建物ができました」と示す意味もあったらしい。



東京大学総合図書館。2019(平成31)年4月18日

2017(平成29)年7月に「総合図書館別館」が開館した。2010年に計画され、2014年12月に着工した。総合図書館(本館)前の広場の地下なので、地表からは見えない。地下4層で、地下46メートルあり300万冊が保管できる。
別館の工事中には本館の内部の改修工事をしている。

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東京大学法学部3号館。文京区本郷7-3。2019(平成31)年4月18日

1998(平成10)年10月に国の登録有形文化財に指定された建物で、1927(昭和2)年完成、RC4階建、設計は内田祥三。
本郷通りから正門を入るとすぐ右(南)に見える建物で、安田講堂に続くイチョウ並木に対して、ほぼ同じ外観の工学部列品館と向き合っている。
4階の増築部分は1976(昭和51)年の施工による。現在は2012(平成24)年の工事により、二つあった中庭の上に4層の増築部分を乗せている。『東京大学本郷キャンパス』(東京大学出版会、2018年、2800円+税)には「中庭に立ち上がる増築棟は、コールテン鋼という素材によって1976年に施された屋上の増築と調和しつつ、大きなボリュームの分節は、内田ゴシックの持つ垂直性を継承したものとなっている。キャンパスにおける歴史の継承、展開の新たな試みである」とある。



法学部3号館・東側。2019(平成31)年4月18日

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