goo blog サービス終了のお知らせ 
ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




難波橋(なにわばし)。大阪市北区西天満、中央区北浜。1992(平成4)年8月4日

大川(堂島川、土佐堀川)に架かる堺筋の橋。「ライオン橋」の通称が分りやすい。仕様は、『近代建築ガイドブック[関西編]』(鹿島出版社、昭和59年、2800円)では「設計=大阪市電気鉄道部技術課、施工=大林組、建設年=1915(大正4)年、構造=鉄鋼及鉄筋コンクリート造」。
大阪市>難波橋』によると、「市電の第三期線として堺筋に架けられた。橋本体は鋼製2ヒンジアーチで、中之島公園と一体となった都市景観の創造が図られ、非常に装飾的な下部工、市章を組み込んだ高欄、華麗な照明灯、親柱上のライオン彫刻、さらに公園へ降りる広い石造りの階段など、最大限の意匠設計がなされている」とある。
現在の橋は1975(昭和50)年に架け替えられたもので、『大阪市>難波橋』では「装飾部分は旧来のものが使われており、また戦争中などに撤収された照明灯の復元、御影石による歩道の改装なども行われている」とある。そもそも橋本体の構造が鋼アーチだったものが合成桁に替えられたという。アーチ橋に見えるが、あれは外観だけの飾りなのだろうか?

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





水晶橋。大阪市北区西天満2-中之島1。1992(平成4)年8月4日

堂島川の大江橋の東に架かっている歩行者専用橋。「堂島川可動堰」として1929(昭和4)年に完成した。大川、安治川は満潮時には逆流して水質が良くならないため、その流れを東・西横堀川へ導くための堰である。鉄筋コンクリート造のアーチ橋にしか見えないが、本体は堰だからその構造は鉄骨トラスではないかと思う。
当時は付近に大阪市中央公会堂(現存)、大阪府立図書館(現存)、大阪市役所(大正10年、片岡安、昭和57年解体)などの近代建築が並び、その景観に相応しい外観が求められたのだろう。
堰の構造は『ウィキペディア>水晶橋』にリンクがある『土木建築工事画報』に詳しいのだが、内容が難しそうでぼくは読んでいない。
可動堰は堂島川可動堰の他にも船場一帯に6箇所が設置され、満潮時・干潮時の時間とも関連させて運用された。可動堰の歴史と共にその辺のことが『建設コンサルタンツ協会誌>Consultanto 282号』の『おしゃれなアーチの組み合わせが美しい「水晶橋」』という記事に簡潔に載っている。
その記事によると、戦時中は可動堰の運用は中止していたが、1955(昭和30)年に堂島川可動堰他の改修工事をして運転を再開した。1978(昭和53)年に東横堀川水門の建設に伴い堂島川可動堰の運転は終わった。1982(昭和57)年に歩道橋としての改修工事が行なわれ、このとき「水晶橋」という名称も付いたようだ。可動堰本体が撤去されたのは2002(平成14)年のことである。


水晶橋。大阪市北区西天満2-中之島1。1992(平成4)年8月4日

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





淀屋橋。大阪市北区中之島1、2-中央区北浜3、4。1992(平成4)年8月4日

大阪の都市計画は、「第1次都市計画事業」が1921(大正10)年に決定し、街路や橋梁の整備を開始する。その事業の中心は御堂筋の拡幅で、大江橋と淀屋橋の架橋はそれに伴うものだ。この計画を中心になって推し進めたのが關一(せき はじめ)という人。東京なら「昭和通り」といえば後藤新平を連想するわけだが、大阪の人は、御堂筋といえば關一が思い浮かぶのだろうか?
梅田と難波を結ぶ御堂筋の幅を24間(約44m)にするというのは当時ではとんでもないことだったらしい。さらにすごいのは、同時に地下鉄を通したこと。御堂筋の開通は1937(昭和12)年5月。地下鉄はそれより早く、梅田-難波間は1935(昭和10)の開通。これによって御堂筋は大阪を代表する繁華街になった。
大江橋・淀屋橋はデザインを重視して懸賞募集したが、周囲の建物とも調和することが要求されたらしい。日本銀行大阪支店(明治36年、辰野金吾)と大阪市庁舎(大正10年、片岡安、昭和57年解体)である。1等当選した大谷龍雄の案に武田五一と元良勲が実地設計を指導した。簡単にいえば、設計=大阪市土木課、施工=大林組ということになるらしい。昭和10年4月の竣工、鉄筋コンクリート造のアーチ橋。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





大中証券。大阪市中央区高麗橋2-6。1992(平成4)年8月4日

大中証券の建物は高麗橋通(写真手前左右の通り)と山休橋筋(写真右奥への通り)の交差点角に玄関を向けた赤煉瓦の建物。「大阪教育生命保険」の社屋として、1912(明治45)年に辰野片岡建築事務所の設計、施工は「直営」で建てられた。煉瓦造2階建で、レンガ壁に白い石材の横線を入れた「辰野式」の外観で、辰野金吾の設計と認識されているようだ。
大阪教育生命保険はその後、「昭和23年創業の地場証券である大中証券(その後ユニコム証券と改称後、平成14年に日本アジア証券(株)に経営統合)の本社屋となる」(思いつくまま>旧大阪教育生命保険)。大中証券がこの建物に入ったのは1950年頃ではないだろうか。
2000年頃に、ビルオーナーは「シェ・ワダ」のコンペ案を採用して内部を大改装し、フレンチレストラン「シェ・ワダ高麗橋店」が開店したのが2002年。レストランは2008年に閉店、「オペラド・メーヌ高麗橋」(レストラン・結婚式場)に変わる。それも2021年には撤退して、現在は空家らしい。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )






高麗橋野村ビル
大阪市中央区高麗橋2-1
1992(平成4)年8月4日

安井武雄設計の建物は大阪には3棟が残っていて、大阪倶楽部(1924年)と大阪ガスビル(1933年)がまず挙げられるべきなのかもしれないが、堺筋の高麗橋野村ビル(1927年)もそれ以上に注目されているように思う。高麗橋野村ビルは外観のデザインが独特というか奇妙である。
窓と窓の間の壁がアールを持つ太い柱のようだ。各階の間の壁は前に傾いていて、上端に瓦を並べた帯が巡る。これらの壁は「モルタルの掻き落とし」だという。玄関周りの装飾がまた独特である。三日月は玄関脇の街灯。その柱は竹をモチーフにしたというがどうもそうは見えない。これら全体のデザインは安井が言う「自由様式」によるものなのだろうが、ぼくは正直に言うと少し引いてしまうところがある。
野村財閥を築いた野村徳七に任されて建てられた貸しビル。正面の幅はかなりあるが奥行きが小さいのが残念だ。施工は大林組、SRC造6階建(戦後に7階を増築)。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





三越百貨店大阪店。大阪市中央区高麗橋1-7。1992(平成4)年8月4日

写真の三越百貨店が建った大正から昭和初期にかけては、堺筋が大坂で最も賑わった通りだった。高島屋、松坂屋、白木屋も堺筋に出店した。御堂筋が完成すると、繁華街はそちらに移ってしまった。堺筋はビジネス街として人出はあったが、一般の買い物客や観光客は「キタ」や「ミナミ」へ出かけてしまう。三越大阪店は最後まで頑張っていたわけだが、2005年5月に閉店した。
写真は1917(大正6)年に第1期工事で竣工した「西館」。設計は「直営」、施工は横河工務所。第2期工事で「東館」が1920(大正9)年に建つ。西館の東側、堺筋から見れば裏側にあった建物と思える。施工が竹中工務店。構造は鉄筋コンクリート造8階地下1階建。この2棟を一体化して「本館」と称したらしい。
上の写真で右端に写っている「南館」は、x:sakuzukikoyoi氏のコメントによると、昭和49年竣工、昭和51年全面開業。

1995年の阪神淡路大震災で被災したため本館は取り壊される。三越大阪店が閉店した後、新館も取り壊された。跡地には「The Kitahama(北浜タワー)」(2009年3月築、54階建465戸)という高層マンションが建った。



コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )





さくら銀行大阪支店。大阪市中央区高麗橋1-8。1992(平成4)年8月4日

「さくら銀行」という建物名はめったにないと思うが、撮影時はその銀行名だったのだからしかたがない。上の写真の右奥(高麗橋通側)と本館後の新館屋上にさくら銀行の看板が写っている。今は「三井住友銀行大阪中央支店」という。
三井銀行は1990年4月に太陽神戸銀行と合併して「太陽神戸三井銀行」となり、1992年4月に「さくら銀行」と改称した。そして2001年4月に住友銀行に吸収合併されて「三井住友銀行」となった。
三井銀行大阪支店は1936(昭和11)年の竣工、設計=曽禰中条設計事務所、施工=竹中工務店、鉄骨鉄筋コンクリート造4階地下1階建て。『近代建築ガイドブック[関西編]』(鹿島出版社、昭和59年、2800円)では「日本人建築家による古典様式銀行建築の最終的模範解答のような作品。曽禰中条事務所としても最後の作品となった。特に内部の天井は非のうちどころのない見事さである。この土地はもと三井の糸店や鼈甲店のあったところという。」と解説されている。
東京日本橋の三井本館と三越百貨店が並び立つ景観が、大坂でも出現していたわけだ。

2024年3月、再開発計画が発表された。その計画によると、1967年竣工の新館を31階建の超高層ビルに建替えるが、本館は竣工当時の外観・内装に一部復元して残すという。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





日本生命二号館。大阪市中央区今橋3-3。1992(平成4)年8月4日

写真の建物は、現在「ニッセイ淀屋橋イースト」(2009年1月築、17階地下1階建)が建つところにあったもの。写真は今橋通から東を見ている。この建物については大坂の古建築>船場-近代建築が取り上げている。そのサイトでは「千代田銀行大阪支店新館 (日生二号館=取り壊し)」。千代田銀行とは、三菱銀行が戦後の財閥解体に伴って、1948年から1953年の間称していた社名。その三菱銀行が1952(昭和27)年に大阪支店の増築部分として建てたビルだという。建ったときの状況を重視して「千代田銀行大阪支店新館」としたものだ。その後、日本生命が取得して、当ブログの写真の撮影時には「日生二号館」となっていたと想像して、当ブログでは「日本生命二号館」のタイトルにした。
『大坂の古建築』では、「戦後の混乱期に建造された新古典主義様式の作品」として、ナチスの新古典主義を思わせるとも述べている。とすると建築史的にも重要な物件だったのかもしれない。ぼくは「第一生命保険相互館」(千代田区有楽町、設計=渡辺仁、松本与作、1939(昭和13)年)が思い浮かんだ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





日本生命保険本館。大阪市中央区北浜3-8、今橋3-5。1992(平成4)年8月4日

淀屋橋より南の御堂筋は1937(昭和12)年に拡幅されて今のように整備された。日本生命保険相互会社本店(北半分の第1期工事)はそれに合わせて、御堂筋側を正面として1938(昭和14)年に、南半分が1902(明治35)年竣工の旧本館のままで、中断する。盧溝橋に始まる日中戦争から2年目という時勢が影響した。
設計は長谷部竹腰建築事務所で、住友ビル(1932年)に関わっていた2人が設立した会社である。片岡安を建築顧問としたという。施工は大林組。外観は平らな壁面に縦長窓が並ぶモダニズムのようだが、基部、胴部、冠部の三層構造を示した新古典主義の重厚さが感じられる。
南半分の工事が再開したのは1954(昭和29)年で、完成したのは1962(昭和37)年。設計は日建設計(長谷部竹腰建築事務所の後継)。外壁は岡山県北木島産の花崗岩によるタイル状の石張り。建物コーナーのアールも慎重に設計されている。(関西近代建築 日本生命保険相互会社本店本館(安達英俊)
ビルの高さは31m。御堂筋周辺の建物は、1920年(大正9年)12月に施行された市街地建築物法による「百尺規制」で高さが揃っていた。今ではこの高さを守ったビルは少なくなってきているが、日本生命保険本館は当分はその規制を見せてくれると思う。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





愛珠幼稚園。大阪市中央区今橋3-1。1992(平成4)年8月4日

外観は寺院か武家屋敷のようにしか見えないが、幼稚園として建てられ今も幼稚園として使われている建物だ。御殿風といわれる。今橋通に面して塀重門(へいじゅうもん)を構え、その門柱に「大阪市愛珠(あいしゅ)幼稚園」の看板を付けている。
愛珠幼稚園は1880(明治13)年に「船場北部(現中央区平野町以北)の連合町会」によって創立された。1889(明治22)年に大阪市に移管された。1901(明治34)年に写真の建物が竣工して幼稚園をそこに移した。設計は主席保母の伏見柳の原案を、文部技師・久留正道(くる・まさみち、1855-1914)の指導により、大阪府技手・中村竹松が設計した。『近代建築ガイドブック[関西編]』(鹿島出版社、昭和59年、2800円)では施工は大坂土木(株)、構造は木造平屋、旧住所は東区今橋3-4。
大阪市>指定文化財>愛珠幼稚園』によると、上の写真では入母屋屋根が2つあるが、手前の方が管理棟で正面に玄関、西側(左)を園長室としている。その北が一段と高い入母屋大屋根の遊戯室。2階建に見えるが、吹き抜けの一層構造。三方に庇状の廊下が廻っている。遊戯室の天井は格天井で中央にシャンデリアが下がる。また1925(大正14)年に造られた2階式回廊が三方を廻っている。敷地の北側は庭園で、その東側に東棟、西側は長い廊下、北側に保育室、北西隅に1927(昭和2)年に建てられた土蔵がある。

現在、園児(3,4,5歳)は90名程。幼児は自分が見聞する範囲が全てだから、毎日のように愛珠幼稚園に出入りしていても特別とは思わず、幼稚園とはこんなものだと思っているかもしれない。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )



« 前ページ 次ページ »