
淀屋橋。大阪市北区中之島1、2-中央区北浜3、4。1992(平成4)年8月4日
大阪の都市計画は、「第1次都市計画事業」が1921(大正10)年に決定し、街路や橋梁の整備を開始する。その事業の中心は御堂筋の拡幅で、大江橋と淀屋橋の架橋はそれに伴うものだ。この計画を中心になって推し進めたのが關一(せき はじめ)という人。東京なら「昭和通り」といえば後藤新平を連想するわけだが、大阪の人は、御堂筋といえば關一が思い浮かぶのだろうか?
梅田と難波を結ぶ御堂筋の幅を24間(約44m)にするというのは当時ではとんでもないことだったらしい。さらにすごいのは、同時に地下鉄を通したこと。御堂筋の開通は1937(昭和12)年5月。地下鉄はそれより早く、梅田-難波間は1935(昭和10)の開通。これによって御堂筋は大阪を代表する繁華街になった。
大江橋・淀屋橋はデザインを重視して懸賞募集したが、周囲の建物とも調和することが要求されたらしい。日本銀行大阪支店(明治36年、辰野金吾)と大阪市庁舎(大正10年、片岡安、昭和57年解体)である。1等当選した大谷龍雄の案に武田五一と元良勲が実地設計を指導した。簡単にいえば、設計=大阪市土木課、施工=大林組ということになるらしい。昭和10年4月の竣工、鉄筋コンクリート造のアーチ橋。

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