ジョニー・デップがプロデュース兼主演の映画「MINAMATA」。
遂に見てきました!
コロナ前に噂を聞いていて、いつ日本に来るのかと待ちに待っていました。
結論から言いますと「ぜひ多くの人に見て欲しい」。
というか、日本人なら見なきゃダメ、とすら言いたい。
重い暗い作品かと思っていたら、ジャズの流れるポップな場面や粋なラブシーン、美しい海の情景や心地よいテンポ、陰陽のバランスが絶妙でちゃんと「エンタメ」になっていました。
写真を現像するところとか美しいです。私も暗室で現像液につけた事ありますが、あれは独特の感触。
ハリウッドと日本のドキュメンタリーが融合した感じで、すごーく不思議な気持ちになりました。
日本の俳優さんたちとデップが普通に卓袱台をはさんでご飯食べて会話してるとか、シュールだけど違和感なし。
音楽が坂本龍一で、もう素晴らしいのひとこと。
そう、音楽が流れてるだけで、悲しみや荘厳な祈りとか、さまざまな感情がかきたてられる。
前にも書きましたが私は海賊のデップさんやチョコレート工場のデップさんは嫌いで。
まあたまに出るならいいけどね。。。キワモノとかキャラクター俳優みたいなイメージ定着が気にくわない。
デップさんは実はめっちゃ繊細なガラスの少年、ガラスのおっちゃんなんです。
だから、作品と上手く合ってないときは散々だし、近年はアカンな~と思ってました。
若い時は「人生がうまくいかず傷つく若者」役が来るからナィーブに演じられたんですが、年とって地位が上がるともう重鎮役ばかり来るから、な~んか「それ、ジョニデちゃう!」になっちゃう。
海賊が当たったのは、彼の遊び心と器用さ。それにもともとのアウトロー気質。
そんなデップさんが水俣とチッソの事件に関心を持ってくれて、誠実に映画作って世界に届けようとしてくれた事が嬉しい。
名声というのは、こういう時に使うのだ、と。ご本人も解ってるんだ。
日本で製作しようにも、売れるワケない、と却下で終わってしまいそうじゃないですか。そんな力持った俳優さんとか監督とかいるかな?最近のオダギリジョー氏とかならいけるのだろうか。
水俣病はイタイイタイ病や四日市喘息と共に、私が小学生の頃大きく報じられた「公害」問題でした。
水俣のチッソ工場から流された排水に含まれるメチル水銀を食べた魚を、人間が食べ、その人だけでなく胎児にも障害が及ぶ、という基本ラインは、私の世代の人ならみんな知っているはず。
なんせ夏休みの自由研究に「公害」を選ぶ人が多かった!
学校でドキュメンタリー映像とか見たんじゃないかな。テレビでも特集されてました。
その後、アートの世界に進むと、関連の本でユージン・スミスの写真を見る機会が増え、奥さんが日系人だったこととか、水俣に住み患者を撮影した事など、少しは知るようになりましたが、やはり一本のエンタメ映画になることは大きい。
そうだったのか。
これはあくまで映画でエンタメですが、スミスがなぜ水俣病患者と関わることになったかがよく解りました。
「写真というものは、撮影する者の魂も削りとる」。まさにそんな姿でした。
彼と水俣病患者である少女の交流場面が、デップならではの温かさで、最も胸に残りました。
映画のエンドロールで、「世界のあちこちで起こった人為的事件」の写真が挿入されており、原発事故も薬害汚染も出てきます。あまりに沢山で、水俣だけではないのだな、と知らしめてくれる。
水俣の訴訟はまだ今も続いており、これからも忘れてはならないと思いました。
デップがベルリン国際映画祭の記者会見で語った言葉が、パンフレットの冒頭に紹介されています。
「私たちは皆、ただの一片のホコリであり、同時に小さな力なのです。私たちが窮地に立たされた時、誰かが率先して巨大な壁を壊そうとすれば、きっと大勢の人々が後に続いてくれるはずです」。
日本に住む日本人として、アメリカ人に水俣の映画を作ってもらって、ちょっと恥ずかしい。というか申し訳なさを感じます。
見過ごしてきたんだなあ、と。
一片のホコリとして。
でもホコリにも力があるんだって。
そういう自覚を促してくれるところに、この映画の真の価値があると思います★
遂に見てきました!
コロナ前に噂を聞いていて、いつ日本に来るのかと待ちに待っていました。
結論から言いますと「ぜひ多くの人に見て欲しい」。
というか、日本人なら見なきゃダメ、とすら言いたい。
重い暗い作品かと思っていたら、ジャズの流れるポップな場面や粋なラブシーン、美しい海の情景や心地よいテンポ、陰陽のバランスが絶妙でちゃんと「エンタメ」になっていました。
写真を現像するところとか美しいです。私も暗室で現像液につけた事ありますが、あれは独特の感触。
ハリウッドと日本のドキュメンタリーが融合した感じで、すごーく不思議な気持ちになりました。
日本の俳優さんたちとデップが普通に卓袱台をはさんでご飯食べて会話してるとか、シュールだけど違和感なし。
音楽が坂本龍一で、もう素晴らしいのひとこと。
そう、音楽が流れてるだけで、悲しみや荘厳な祈りとか、さまざまな感情がかきたてられる。
前にも書きましたが私は海賊のデップさんやチョコレート工場のデップさんは嫌いで。
まあたまに出るならいいけどね。。。キワモノとかキャラクター俳優みたいなイメージ定着が気にくわない。
デップさんは実はめっちゃ繊細なガラスの少年、ガラスのおっちゃんなんです。
だから、作品と上手く合ってないときは散々だし、近年はアカンな~と思ってました。
若い時は「人生がうまくいかず傷つく若者」役が来るからナィーブに演じられたんですが、年とって地位が上がるともう重鎮役ばかり来るから、な~んか「それ、ジョニデちゃう!」になっちゃう。
海賊が当たったのは、彼の遊び心と器用さ。それにもともとのアウトロー気質。
そんなデップさんが水俣とチッソの事件に関心を持ってくれて、誠実に映画作って世界に届けようとしてくれた事が嬉しい。
名声というのは、こういう時に使うのだ、と。ご本人も解ってるんだ。
日本で製作しようにも、売れるワケない、と却下で終わってしまいそうじゃないですか。そんな力持った俳優さんとか監督とかいるかな?最近のオダギリジョー氏とかならいけるのだろうか。
水俣病はイタイイタイ病や四日市喘息と共に、私が小学生の頃大きく報じられた「公害」問題でした。
水俣のチッソ工場から流された排水に含まれるメチル水銀を食べた魚を、人間が食べ、その人だけでなく胎児にも障害が及ぶ、という基本ラインは、私の世代の人ならみんな知っているはず。
なんせ夏休みの自由研究に「公害」を選ぶ人が多かった!
学校でドキュメンタリー映像とか見たんじゃないかな。テレビでも特集されてました。
その後、アートの世界に進むと、関連の本でユージン・スミスの写真を見る機会が増え、奥さんが日系人だったこととか、水俣に住み患者を撮影した事など、少しは知るようになりましたが、やはり一本のエンタメ映画になることは大きい。
そうだったのか。
これはあくまで映画でエンタメですが、スミスがなぜ水俣病患者と関わることになったかがよく解りました。
「写真というものは、撮影する者の魂も削りとる」。まさにそんな姿でした。
彼と水俣病患者である少女の交流場面が、デップならではの温かさで、最も胸に残りました。
映画のエンドロールで、「世界のあちこちで起こった人為的事件」の写真が挿入されており、原発事故も薬害汚染も出てきます。あまりに沢山で、水俣だけではないのだな、と知らしめてくれる。
水俣の訴訟はまだ今も続いており、これからも忘れてはならないと思いました。
デップがベルリン国際映画祭の記者会見で語った言葉が、パンフレットの冒頭に紹介されています。
「私たちは皆、ただの一片のホコリであり、同時に小さな力なのです。私たちが窮地に立たされた時、誰かが率先して巨大な壁を壊そうとすれば、きっと大勢の人々が後に続いてくれるはずです」。
日本に住む日本人として、アメリカ人に水俣の映画を作ってもらって、ちょっと恥ずかしい。というか申し訳なさを感じます。
見過ごしてきたんだなあ、と。
一片のホコリとして。
でもホコリにも力があるんだって。
そういう自覚を促してくれるところに、この映画の真の価値があると思います★
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます