高校野球に興味を失ったのはいつ頃からだろうか。自分の出身校が昔の強豪校だったせいもあって、けっこう興味は持続したのだが、今のように私学の絶対的優位が固定して以来、ああ、これもやはり資本や情報の論理の延長なんだとスーッと冷めて今日に至っている。
そんな私が今年、やや興味を持ったのは、金足農の活躍によるところが大きいのだが、終わってみれば奇跡などは起こらず、やはり冷徹な論理が貫徹していたといって良い。決勝戦は大差で大阪桐蔭と予測していたので、決して落胆などはしていない。
昔っから私学の雄といった存在はあった。しかしかつてのそれらは、現在の資本や情報による競争以前のもので、公立とほぼ互角な状況下にあったといっていいだろう。
その辺がなんだかおかしな感じになってきたのは、東北や北海道の学校の選手が、関西弁でインタビューに応じるようになってからである。
これらは、ようするに高校球児たちが学校のショーウィンドウを飾るコマとして、あるいは商品として全国規模で流通し始めたことを示している。資本力やマネージメントに優れた学校が、全国にくまなく情報のネットを敷き詰め、お買い得商品を逃さないようにし始めた結果なのだ。
今回、大阪桐蔭の主力として活躍した根尾選手は、岐阜の飛騨地方の出身である。ひと昔前なら、飛騨地方の高校に進学し、飛騨の星として県大会のベスト4ぐらいまで進むか、あるいは県都、岐阜市に下宿して岐阜の有力校に入学し、甲子園ぐらいには行けたかもしれない。
しかし、いまや大阪のチームの一員である。張り巡らされた情報網があらゆる対象を商品として資本の前に並べてみせる時代、それらは飛騨地方にも及び、運動能力に長けた少年を有力な買い手のもとへ届けたとしても何の不思議もない。
高校野球は一応、都道府県代表となっている。しかし、そうした全国規模での球児たちの流通の前に、それはいまや全く意味を失ってしまっている。
例えば、今回、岐阜県代表として甲子園に駒を進めた大垣日大は、レギュラー枠に占める岐阜県出身選手は3人のみで、他の十数人は他の都道府県出身者であった。
そしてそこに、大垣日大が「岐阜の」強豪校としていまや甲子園の常連となった原因もある。キッカケは1967年以来40年にわたって愛知の強豪・東邦高校の監督を努めた阪口慶三氏を、2005年に監督として迎え入れたことによる。長年強豪校の監督を努めた氏は、多くの教え子を送り出し、そのうちの何人かは地域の少年野球の指導者となっている。彼らは坂口氏の、そして大垣日大の有力な情報ネットワークをなしているといっていい。
それに引っかかった子たちは、誘われて大垣日大へやってくる。そして、それらの球児がチームの中核をなしている。地元の野球少年ではなく、全国規模での試練のなかで選抜されてきた球児たちの軍団、それが強豪校の条件なのだ。
こうして、資本力、情報力などなどに優れた学校が全国規模での球児たちのマーケットで、いい商品を大量に仕入れる。その段階で、チーム力の大半は決まってしまうといって良い。
もちろん、スポーツだから、番狂わせなどもある。今回の金足農の活躍はそうだし、あの投手、吉田君が上に述べたような有力私学の情報網に捉えられてそこへ進学していたら、そこでめでたく優勝投手になっていたかもしれない。
高校野球には冷徹な論理が貫徹している。それは資本の論理、市場の論理、あるいはあらゆるものを商品として資本の前に繰り広げてみせるグローバリゼーションの論理といっていいだろう。
だからもし、高校野球に興味を持ち続けるとしたら、そうした論理が覆る偶然性に期待しながら、あくまでも判官びいきに徹することではないかと思っている。
*ここまで書いて、金石農の吉田投手一人に連投させたことの危険性を指摘する声が広がっているのを知った。
冗談ではない、複数の有力投手をローテーションよろしく順次登板させるというのは、そうした複数の投手を傘下に置くことが出来るチームにおいてこそ可能なことなのだ。金石農は、吉田投手が投げぬいて予選を勝ち抜き、甲子園でも決勝戦にまで駒を進め得たのだ。
もちろん、何があっても一人で投げ抜けなどという精神論に加担するものではないが、複数の投手をうまく回してというのは、そうした余裕を持ちうる「有力校」についてのみいえることで、そうではない地方の野球部は、たまたま入部した有能な投手一人に頼らざるをえないのだ。
また、それによって肩を壊して将来を失う(将来に向けての商品価値を失う)のではという懸念も見え隠れするが、そこで燃焼するのもありではないか。野球をする少年の全部が全部、プロ野球選手としての商品価値を保持する必要もあるまい。
そんな私が今年、やや興味を持ったのは、金足農の活躍によるところが大きいのだが、終わってみれば奇跡などは起こらず、やはり冷徹な論理が貫徹していたといって良い。決勝戦は大差で大阪桐蔭と予測していたので、決して落胆などはしていない。
昔っから私学の雄といった存在はあった。しかしかつてのそれらは、現在の資本や情報による競争以前のもので、公立とほぼ互角な状況下にあったといっていいだろう。
その辺がなんだかおかしな感じになってきたのは、東北や北海道の学校の選手が、関西弁でインタビューに応じるようになってからである。
これらは、ようするに高校球児たちが学校のショーウィンドウを飾るコマとして、あるいは商品として全国規模で流通し始めたことを示している。資本力やマネージメントに優れた学校が、全国にくまなく情報のネットを敷き詰め、お買い得商品を逃さないようにし始めた結果なのだ。
今回、大阪桐蔭の主力として活躍した根尾選手は、岐阜の飛騨地方の出身である。ひと昔前なら、飛騨地方の高校に進学し、飛騨の星として県大会のベスト4ぐらいまで進むか、あるいは県都、岐阜市に下宿して岐阜の有力校に入学し、甲子園ぐらいには行けたかもしれない。
しかし、いまや大阪のチームの一員である。張り巡らされた情報網があらゆる対象を商品として資本の前に並べてみせる時代、それらは飛騨地方にも及び、運動能力に長けた少年を有力な買い手のもとへ届けたとしても何の不思議もない。
高校野球は一応、都道府県代表となっている。しかし、そうした全国規模での球児たちの流通の前に、それはいまや全く意味を失ってしまっている。
例えば、今回、岐阜県代表として甲子園に駒を進めた大垣日大は、レギュラー枠に占める岐阜県出身選手は3人のみで、他の十数人は他の都道府県出身者であった。
そしてそこに、大垣日大が「岐阜の」強豪校としていまや甲子園の常連となった原因もある。キッカケは1967年以来40年にわたって愛知の強豪・東邦高校の監督を努めた阪口慶三氏を、2005年に監督として迎え入れたことによる。長年強豪校の監督を努めた氏は、多くの教え子を送り出し、そのうちの何人かは地域の少年野球の指導者となっている。彼らは坂口氏の、そして大垣日大の有力な情報ネットワークをなしているといっていい。
それに引っかかった子たちは、誘われて大垣日大へやってくる。そして、それらの球児がチームの中核をなしている。地元の野球少年ではなく、全国規模での試練のなかで選抜されてきた球児たちの軍団、それが強豪校の条件なのだ。
こうして、資本力、情報力などなどに優れた学校が全国規模での球児たちのマーケットで、いい商品を大量に仕入れる。その段階で、チーム力の大半は決まってしまうといって良い。
もちろん、スポーツだから、番狂わせなどもある。今回の金足農の活躍はそうだし、あの投手、吉田君が上に述べたような有力私学の情報網に捉えられてそこへ進学していたら、そこでめでたく優勝投手になっていたかもしれない。
高校野球には冷徹な論理が貫徹している。それは資本の論理、市場の論理、あるいはあらゆるものを商品として資本の前に繰り広げてみせるグローバリゼーションの論理といっていいだろう。
だからもし、高校野球に興味を持ち続けるとしたら、そうした論理が覆る偶然性に期待しながら、あくまでも判官びいきに徹することではないかと思っている。
*ここまで書いて、金石農の吉田投手一人に連投させたことの危険性を指摘する声が広がっているのを知った。
冗談ではない、複数の有力投手をローテーションよろしく順次登板させるというのは、そうした複数の投手を傘下に置くことが出来るチームにおいてこそ可能なことなのだ。金石農は、吉田投手が投げぬいて予選を勝ち抜き、甲子園でも決勝戦にまで駒を進め得たのだ。
もちろん、何があっても一人で投げ抜けなどという精神論に加担するものではないが、複数の投手をうまく回してというのは、そうした余裕を持ちうる「有力校」についてのみいえることで、そうではない地方の野球部は、たまたま入部した有能な投手一人に頼らざるをえないのだ。
また、それによって肩を壊して将来を失う(将来に向けての商品価値を失う)のではという懸念も見え隠れするが、そこで燃焼するのもありではないか。野球をする少年の全部が全部、プロ野球選手としての商品価値を保持する必要もあるまい。